堕ちる

 十月十日の午後。

 少し傾いた秋の日の差す居間の文机で、瑞穂は書物を開いていた。

 障子の外で、百舌鳥もずの鋭く鳴く声が時折遠く響く。


「——旦那様。

 お客様が、お見えにございます」


 襖の外で、鴉の声がそう告げた。

 瑞穂は振り向くこともなくそれに答える。


「本日は、くれ六つ(午後六時)に星の守様がお越しになり、そのあと直ぐに重要な儀の挙式を予定しておる。来客は全てお断りせよ」


「もうここまで来てしもうたのでな。入るぞ、瑞穂」


 すうと襖が開き、同時に空気を圧するような濃厚な気配が流れ込んだ。

 驚いて振り向いた瑞穂の前には、腰を屈めた小さな老婆が立っていた。


「——刻の守様……」


 鴉が機敏な動きで調えたしとねにぽすりと座ると、刻の守は前置きもなく切り出した。

「本日行う重要な儀とは、そなたの体内に懐妊の力を授ける儀式のことじゃな?」

 

「——仰せの通りにございます」

 瑞穂はすいと文机を立つと、静かに刻の守と向き合って座し、さらりと微笑んだ。


「……そなたは、それで良いのか。

 そなたも納得した上での挙式なのか?」


「…………」


 不意に刻の守は茵を立ち上がった。

 後ろ手の姿勢でひょこひょこと瑞穂へ歩み寄ると、徐にその濃紺の羽織の襟に手を伸ばした。

 拒む間も無く、瑞穂の襟奥えりおくの肌が露わになる。

 その白い皮膚には、いくつもの痛々しい噛み痕が刻まれていた。


「——私が、いかなる時も表情を変えず、声すら上げないことが、お気に召さないのでしょう」


 刻の守は、大きく後ずさると、小さな身体を畳に折り曲げて深くひれ伏した。


「…………瑞穂殿。

 済まぬ。

 星の守の横暴をどうにもできぬ無力な婆を、どうか許してくだされ」


 瑞穂は、浅い微笑を浮かべたまま小さく答えた。

 

「そのようなことは、どうかおやめください。

 刻の守様が頭を下げられることではございませぬ。

 全て、私自身が招いたことにございますゆえ」


 伏せられていた刻の守の顔が、ぐっと上がった。

 意を決したような強い眼差しが、正面の瑞穂を見つめる。


「私は、ただ謝罪のためにここへ来たわけではない。

 果たしてこれが正しいか否か、今の今まで悩み抜いたのだがな——もう猶予はない。

 ある昔話を、そなたに聞いてもらおうと思うてな」


 すっと切り替わった刻の守の気配に、瑞穂は笑みを消して老婆を見た。



「——遥か昔に、神の世で生き続ける苦痛に耐えきれず、自ら命を絶った愚かな神がおった。

 自らの地位と責任を放棄し、自害を選んだ神がどうなるか、そなたも知っておるな?」


「——はい。

 恐ろしい闇へ落とされ、耐え難い苦痛を味わいながら泥沼を這い回る、と」


「そうじゃ。

 その闇がどこにあるか、そなたは知っておるか」


「……いいえ。

 その場所を知る者など……」


「ならば、教えよう。

 自ら命を絶ったその神の遺骸は、冥界の使者の小舟に乗せられ、沼の如き濁流へ投げ捨てられた。——そうして彼が堕ちた場所は、人の世であった」



「————」


「これは、私が少女の頃、祖母から聞いた話だ。もう何千年も昔にな」


 そう語る刻の守の瞳が、濃い闇の色に変わっていく。


「神の世で言い伝えておる『自害した神が堕ちる闇』とは、我欲にまみれた人の世のことを指しておるのだ。

 自らの力と寿命を手放し、敢えて自害を選ぶ神などそうおらぬ。それゆえ、神の世の者たちは誰もこのことを知らぬのだがな」


 刻の守の言葉に、瑞穂の膝の上の指が微かに震え始める。

 その指先を見つめながら、刻の守は話を続けた。


「神の世から闇へと堕ちたその男は、言い伝えと違うことなく人の世の泥沼を這い回り、瞬く間に年老いて病を得、苦しみながら命を終えたという。

 だが、その短い寿命の間に、彼は闇の中でひとりの女と出会い、深く思い合い、互いに手を取り合い——その最期の顔は、神の世では見せたことのない満ち足りた顔であったそうだ」


「……闇を這い回りながら……満ち足りた顔で……」


 呆然としたような瑞穂の呟きに、刻の守は頷く。


「闇の中、ただひとりの相手と固く手を結び、共に泥を這う。ただそれだけのことが、それほどに彼を満たしたのかと……祖母は、この話をした後に必ず『愚か者じゃ』と呟いて、寂しそうに笑っておった。

 ——自ら命を絶ったその男神は、もしかすると祖母が想いを寄せた相手だったのやもしれぬ」


 ふっとひとつ小さな息を吐くと、刻の守は瑞穂をじっと見つめた。

「人の世で生きることは、想像を絶する苦難じゃ。

 欲と悪意が渦巻く世界で、いつ何が起こるともわからぬまま、何の力も持たぬ己の手足で闇をかき分けて進む以外にない。病や老いが忍び寄る恐怖を、誰も免れることはできぬ。

 ただ——

 それでも、そなたが闇を選ぶというならば、私がそれを見届ける」


 瑞穂の顔が静かに上がり、大きく波立つ瞳が刻の守を真っ直ぐに見つめ返した。


「そなたが旭殿のもとへたどり着くことができるよう、力を尽くそう」


「——……

 し、しかし……

 さすれば、この城と、雨神の任務は——」

「数日前に、須佐 幸穂殿——いや、みつき殿へ遣いを送った」


「……みつき殿へ……

 刻の守様、何故それを……」


「北の梅林にそなたの義妹がおることは、とうの昔より知っておる。この私が、雨神である須佐の血を引く者の存在を知らぬわけがなかろう?

 そなたの事情を知り、みつき殿はそなたの役に立ちたいと、迷いのない返事をくれた。どうか旭殿と幸せになってほしいと、みつき殿も心からそう願うておる。私の龍を今朝梅林へ迎えに出したゆえ、間もなくこの城へ到着するであろう。

 あの娘ならば、間違いなく雨神の任務を無事にこなしてくれよう。星の守には、みつき殿に手出しは一切させぬ。約束する」


「…………」


 深く煩悶はんもんする主の気配を感じ取ったのか、部屋の後方でじっと話を聞いていた鴉が静かに顔を上げた。


「旦那様。

 後のことは、全て私どもにお任せくださいませ」


「……鴉……」


「旭様がここを去らねばならなかった理由も、旦那様が星の守様の伴侶となる以外になかった経緯も、城の者たちは全て事情を知っております。

 旦那様の悲しみと苦痛を、我々も同様の痛みとして耐え、唇を噛んで忍んでおる日々でございます。

 旦那様がここを去る決断をされることに、異論を唱える者はただの一人もおりますまい」


 鴉の言葉に、激しく波立っていた瑞穂の瞳が、少しずつ静かな色に覆われていく。


 刻の守は、自らの拳を強く握って瑞穂へ問いかけた。

「闇を選んだそなたが、間違いなく旭殿へ辿り着き、幸せを手にできるか否かはわからぬ。冥界の使者を相手に、私の力がどこまで及ぶかは定かではないからの。——それでも、そなたは闇を選ぶ決意ができるか?」


 思いを定めたかのように眼差しを上げた瑞穂は、刻の守へ淡く微笑んだ。


「その闇のどこかに旭がいるならば、少なくともそこはここよりも遥かに幸せな場所に違いありませぬ。

 どれだけ長い寿命を約束され、どれだけ強大な力を手にしていても、それらは今の私には露ほどの価値もありませぬ。むしろ、不毛な地獄が果てしなく続くことと同義にございます。

 ——私は必ず、旭に辿り着きます。何がどうあろうとも。

 そして今度こそ、彼の手を離しませぬ」


 刻の守は、表情を固く引き締めて頷いた。


「わかった。

 星の守の黒龍がやってくる時刻まで、あと数刻。その前に——良いか、瑞穂」


 瑞穂は、静かに頷いた。

 そして、すっと立ち上がると大股に鴉へと歩み寄った。


「——」

 慌てて額を伏せようとする鴉の前へ膝をつくと、瑞穂はその肩を引き寄せて力の限り抱きしめた。


「平伏など、もう良い。

 かように未熟な城主に、これまでよう尽くしてくれた、鴉。

 心から、礼を申す」


「…………

 旦那様……」


 鴉の腕が瑞穂の背に恐る恐る回り、やがてその両腕は、堪えきれぬように主の背を強く抱き返した。

 

「——瑞穂様。

 どうか、お幸せにお過ごしくださいませ」


「案ずるな。

 どのような闇にあろうと、必ず幸せを手にすると、約束する。

 この城と、みつき殿の補佐を、よろしく頼む。彼女は、明るく強い人だ。何も心配はいらぬ。

 城の皆に伝えてくれ。私が去った後も、どうかこの城で心安らかに過ごして欲しい、と」


「かしこまりました。……必ず、お伝えいたします」

 鴉の返事の語尾は、抑えようのない涙にとうとう押し流された。



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