下界の春

 瑞穂が記憶を取り戻した春から、五年。

 大学で神道を学んだ旭は、この春から天の原神社の禰宜の職に就く。瑞穂は天の原神社の禰宜の職務をこなしながら、数段階ある神職の検定に着々と合格している。宮司に必要な階位の取得も目前だ。

 旭の大学在学中は、週末にどちらかが3時間強の距離を会いに行くという遠距離モードだったが、新年度を目前に控えた三月、ようやく神社近くの街に二人で部屋を借りた。

 遠距離デートの間はともかく、家から離れた土地で共に暮らすことになる相手について、家族が詳しいことを何も知らないというわけにはいかない。旭がA県へ移り住む一週前の三月半ば、麗かな春の土曜日に、瑞穂は旭の実家を訪問した。


「……旭。

 お付き合いしている大切な方っていうのは、この方……よね?」

「うん」

「旭殿とお付き合いをさせていただいております、須佐 瑞穂と申します」

 両親と妹のほのかが揃ったリビングのソファで、瑞穂は家族に向けて深く頭を下げた。

 神の世の頃よりも少し短めに整えて後ろに緩く纏めた銀の髪が、さらりと肩に落ちかかる。

 今日の瑞穂は黒のハイネックセーターに光沢あるチャコールグレーの上質なスーツという、何とも都会的に洗練された出で立ちだ。こちらの世界に合わせた装いをしても、そのオーラの眩しさは異様なほどだ。神の世でさえ名高い美神だったのだから仕方がない。

 穏やかに澄んだ水の色の瞳を真っ直ぐに向けられ、家族の笑みが微妙に強張る。

 旭は、意を決して膝に拳を握り、口を開いた。

「瑞穂は……えっと、実は……以前は、雨の神様だったんだ」

「……雨の、神様……?」

 シンクロした家族の声が心細げに震える。

「うん。

 実は俺、高二の夏の三か月間、神の世界で過ごしてたんだ。瑞穂の虹色の龍に乗って、雨神の城まで運ばれて。みんな、全然気づかなかったと思うけど」


「…………」


 絶句する家族と、その答えを待つ旭たちの間に、奇妙な沈黙がしばし流れた。


「神の世界って……どうして、そんなことに……?」

 父が旭と瑞穂を交互に見つめ、ようやく言葉を探し当てたように呆然と問いかけた。

 瑞穂が、深々と頭を下げる。

「全ては、私の身勝手な願いによるものです。

 細やかな優しさを持つ旭殿を我が身の傍に置きたいと、ただその希みを叶えたい一心で、旭殿を神の世へ召し上げました。人の世を離れる苦しみや悲しみを、旭殿に全て呑み込ませて。

 ——やはり私も、傲慢で身勝手な神のひとりでした。何卒お許しください」

 顔を上げた瑞穂の真摯な眼差しが、家族の一人ひとりを見つめた。

 雨宮家と雨神の深い結びつきを証明すべく、旭が父に真剣に問いかける。

「父さん、何か覚えてない? 父さんのお祖父さんにあたる人で、輝さんという人のこととか」

「僕の祖父? 輝……ああ、そう言えば。とにかくすごく信心深い人だったな……雨宮家の歴史のこともいろいろ知っていたしね。

 そうだ。思い出した。『雨宮家の先祖には、遥か昔に雨神の人柱になった娘がいたそうだ。その娘と似た気立ての良い子が生まれた時は、再びその子を召し上げに来ると、先祖の夢枕で雨の神様がお告げをくだしたという。恐ろしいのう』とかなんとか……あんまり不思議な話だから、『それ、ただのお伽話でしょ?』って、みんな笑って聞いてたけどね」

「あ、それ、お伽話じゃないから。輝さんの言葉通り、俺が雨神に召し上げられたんだ。昔人柱になったさよさんに似てるって」


「…………」

 家族の間に、再び複雑な沈黙が訪れた。

「さぞ奇妙な話と思われるでしょうが、全てまことのことなのです。

 さよ殿と旭殿は、瞳の醸す気配がまるで瓜二つで……容姿のみならず、人の世から天を見上げる旭殿の温かな優しさは、孤独な神の世で過ごす私にとって何よりの支えでした。

 いつしか、旭殿の眼差しをすぐ間近で見つめたいと、強く願うようになっておりました」

 瑞穂が、隣に座る旭を愛おしげに見つめた。

「……でも、祖父の話からすれば、召し上げる対象は女の子なんじゃ……?」

「神の世では性別にこだわることはほぼございませぬゆえ」

「あ、そうなんですか……」

 瑞穂の美しい微笑に、父がわかったようなわからないような顔でふにゃりと微笑み返した。


「——……うーん。なるほどね。

 とんでもなく摩訶不思議な話だけど……どうやら、二人とも本当のことを話してくれてるって、わかってきたわ。普通はこんな不思議すぎる話、怖くてできないものね」

 母が少し苦笑いにも似た笑みを浮かべ、息子とその恋人を見つめた。

「ってことはさ。瑞穂さんってつまり空の上からにいちゃんにぞっこんで、天から降りてきてなりふり構わずにいちゃんにアプローチして、半ば無理やり神の世界に連行した、ってことなのかな?」

 コーヒーのカップを口に運んでいたほのかが、微妙にニヤついた顔を上げてずばり的を得た要約をする。

「ええと、その、つまりは……反論の余地もありませぬ」

 瑞穂が思い切り照れた顔で俯き、もそもそと不明瞭に答えた。







 神の世での出来事と、瑞穂が人の世に降りることとなった経緯を、概ね全て知った旭の両親は、ふうっと大きな息を一つついて深く頷いた。

 二人の互いへの想いの強さを、嫌というほど思い知った様子だった。

「瑞穂さん、旭を、どうぞよろしくお願いします」

 両親は、むしろどこか清々しいような面持ちで瑞穂へ深く頭を下げた。

「これだけ聞かされては、二人は一緒に人生を歩むことがずっと前から決まってたんだって、納得する以外にないものね」

「二人にとって、これ以上の幸せはどこを探しても見つからないと、僕たちにもはっきりそう思えるよ」

 父と母の安堵したような表情に、旭の目の奥がじんと熱くなる。


「ありがとうございます。お父様、お母様」

 瑞穂が両親へ深々と頭を下げるのを見て、旭も慌ててがばりと頭を下げた。


「瑞穂さん、一つだけお願いなんだけど」

 ほのかが、いつになく引き締まった表情で瑞穂を見た。

「たとえ以前は神様やってたとしても、『俺はお前より偉いんだ!』みたいににいちゃんを下に見るのだけは、やめてくださいね。そういう傲慢彼氏って、マジ最悪だから。

 もしにいちゃんを泣かせたら、速攻引き離しに行きます。たとえ二人の仲が運命だろうがなんだろうが」

 瑞穂を強く見つめ、ほのかははっきりとそう言い放った。


「ご安心ください。これだけは自信を持ってお約束できます。旭を泣かせるようなことは決してないと」

 瑞穂は、眩しいほどの笑みでほのかに応えた。




「本当に素敵なご家族だな、旭」

 その日から、1週間後。三月下旬の土曜の夜。

 引越しが完了したばかりの小さな新居で段ボールを開けながら、瑞穂がそう呟いた。

「うん。

 こういうことにならなければ、自分の家族がどれだけ自分を愛してくれてるかなんて、ずっと気づかずにいたかもしれない」

 旭も箱の中から愛用のマグカップを取り出し、新聞紙の包みを解しながら小さく微笑んだ。


 旭のマグカップを受け取り、使い古したその温もりを味わうように手の中に包んで、瑞穂は静かに頷く。

「私も、宮司夫妻や共に神職を勤める同僚とつながりが深まるほどに、はっきり思うようになった。人の世では、確かなものなど何ひとつないのだな。いつも不安で、心細くてならぬ。だからこそ、傍にいる人と手を繋ぎ、その温もりを感じ合うことが、これほどに嬉しく幸せなのだと」


 荷解にほどきの手を止め、旭は瑞穂をじっと見つめた。

「——なあ。ずっと思ってたけどさ。

 瑞穂って、神様より人間向きだよな」


「……ん? それはどういう意味だ?

 私のようなものには、神は務まらぬと?」

「んー、そういう意味じゃなくて」

 段ボールの傍から立ち上がり、旭は瑞穂のすぐ横にストンと座ると、思い切りその首に両腕を回した。


「瑞穂は、俺のなんだなあ、って」


「…………」

 仰天したような瑞穂の頬が、ぶわりと一気に染まる。

「ど、どうしたのだいきなり……!? 今までそなたからこのような行動をしたことは一度もなかったであろうに!?」

 旭は瑞穂の首筋に額を擦り寄せ、小さく答えた。

「だって。神様に、こんなことできるわけないじゃんか。

 瑞穂は、地球の運命を動かす雨の神で、この世界全体のために存在してたんだから。実際のところ、俺からは瑞穂の髪の一本に触れるのさえ、めっちゃ怖かった。瑞穂が俺を引き寄せて、優しく触れてくれたから、瑞穂の傍にいてもいいんだってやっと思えてたよ。

 けど、今は違う。

 瑞穂は人間で、こんな小さな部屋で、俺の隣で、俺だけを見てくれて。家族の言葉や妹のツッコミに照れたりもじもじしたり、いろんな顔を見せてくれて。

 ——やっと、俺だけの瑞穂になってくれたんだなあって。

 やっと俺から瑞穂に触れてもいいんだって、そう思える」


「…………

 こんな春は、あと何度来るのだろう」


 旭の耳元で、瑞穂の呟きが微かに震えた。


「え?」

「人の命は、驚くほど短い。

 あと何度、私たちにはこの春が巡るのだろう」


「え……っと、そうだな……とりあえず、多くともあと80回とか、そのくらいなのかな」


「——そうか。80回か」


 瑞穂の両腕が、旭の背を力一杯抱きしめた。


「だからこそ、目の前のこの一瞬が、これほど眩しく輝くのだな」



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