儚い花
「かのこ殿——
そなた、いかにしてこの結界を——!!」
「あら、そんなにお怒りにならないでくださいませ、瑞穂様。だって、貴方様がくださった御守りのおかげなのですから」
「……御守り……」
「お別れに、一つだけお守りをくださいと、
貴方様は、即座に美しい勾玉を一粒お送りくださった。一刻も早く去れと言わんばかりに。ふふ、本当に、残酷なお方。
私、あの勾玉を呑み下したのです」
「————」
「それから十日ほど、身体の内部が灼けていく苦しみにのたうちまわりました。
あのような力の籠もったものが体内に入れば、儚い草花などひとたまりもありませぬ。
私の身の内は、恐らくほぼ全て焼け爛れております。もはや何の使い物にもなりますまい。
——ただ、この結界を破りたかった。それだけにございます」
茫然と言葉を失う瑞穂を他所に、かのこは瑞穂の腕で苦しげに胸を抑える旭へ視線を向けると妖艶に微笑んだ。
「かように可愛らしい若様ですのに、ほんに残念にございます。
それにしても、旭様。これまで毎晩楽しゅうございましたな」
「…………た、のしい……?」
乱れた息の下で、旭はその言葉を繰り返す。
「あら。覚えていらっしゃらないの?
あれほど何度も申し上げましたのに。『大好き、旭!』と」
自分の名を呼んだその声に、旭の身体がびくりと震えた。
「……柚季……」
にっと微笑んだ女の顔に、ゆらりと柚季の面影が漂った。
「そう。貴方様の枕元に毎晩会いにきていたのは、私にございます。貴方様の恋しい少女に化けて、こっそりと。
そして、毎晩毎晩、貴方様の唇からお命を吸い取らせていただきました。
瑞々しく美味なるものをいただいた代わりに、私の体内の毒を、貴方様の中へたっぷりと注いで。瑞穂様の城で、瑞穂様の最愛の者の命を吸い上げ、私はこれまでで一番美しく咲き誇って。ああ、何度思い出しても楽しい時間にございます」
「——俺の部屋の、あの百合は……」
「ええ、あれは私」
「……そなたは……
そなたは旭に、そのような——!」
「ご自分の仕打ちを省みることもなく、さようなお言葉を私に向けられるとは、まこと愚かしい」
瑞穂の震える呟きを遮り、かのこはその禍々しい笑みに底知れぬ怒りと悲しみを含ませて瑞穂を見据えた。
「星の守様が、貴方様と私をお引き合わせくださったのは、ちょうど一年ほど前でしたな。
星の守様のお城で初めてお目にかかったその刹那より、貴方様は私の心をそっくり奪ってしまわれた。
私に向けてくださるお優しい言葉と笑みは、あまりに甘く、あまりに眩しくて——このお方と私は生涯こうして寄り添っていくのだと、私はそんな未来を毫も疑わず胸に抱きました。
なのに、貴方様は、その後ほんの二度ほどお会いしたのを最後に、あまりにも簡単なお言葉で私を切り捨てられた。そなたとは添えぬ、と。
何度尋ねてもその理由を答えてはくださらず、何度文をお送りしても一言のお返事すらくださらず……
涙しか流れぬ日々でした。寝ても覚めても、枕や袖が涙の熱でじっとり温もり、すぐに冷えていく。その冷たさに、身も心も一層凍えました。
ひとり悶え苦しむ
涙は嘘のように止まり——今度は、嗤いが止まらなくなった。
これほど無惨に踏み躙られ、愚かしい悲しみにひとり溺れ続けた自分自身を、嗤う以外になかった。貴方様の残酷極まりない仕打ちを、死ぬ程呪った」
ギリギリと引き上げられた女の口元が、ふと崩れた。
同時に、その青白い頬を一筋、涙がすうと伝い落ちた。
「——こうなってもなお、貴方様は私の心を縛ったまま、離してはくださらぬのです。針の穴ひとつの自由もないほどに。
この上ない傲慢さで要らぬものを切り捨て、かような地獄を味わわせておきながら、一方の貴方様は愛する者との欠ける事のない幸せを手に入れようとしていらっしゃる。
そのお姿を、黙って見ていられるとでもお思いですか」
濡れたかのこの瞳の奥に、
「貴方様も、恋しい者が腕から零れ落ちる苦しみをとくと思い知るがいい。
そのお方は、もう長くは保ちませぬ。齢分の酒に籠もった凄まじい念は、衰え切ったお体にはむしろ猛毒にございます」
駆けつけた鴉が瑞穂の傍へ跪き、唇を紫に変色させた旭を瑞穂の胸から自分の腕へと静かに移動させる。
侍医の蝮が即座に旭の手首を取り、じっと俯いて脈を測り始めた。
瑞穂は蒼白な顔のまま、微かに肩を震わせながらその様子を茫然と見つめる。
かのこの楽しげな声が、祭儀の
「——それにしても、雨神様は代々お好みが変わっておられますな。このように何の力もない、ただ優しくか弱いだけの者に魅入られるなど」
不意に、空気がぐわりと歪むような凄まじい気配が広間の闇を満たした。
銀の髪を乱し、瑞穂は振り向きざまに胸の前へ左手を激しく突き出した。
大きく広げられた掌と指先から青白い炎の柱が放たれ、空気を激しく切り裂いて走る。
バリバリと音を立てながら空間を飛ぶ太い光の筋は、避ける暇も与えずかのこの頬の皮膚を深く焼き払った。
異様な光を放つ瑞穂の瞳が、かのこを縛り上げ切り刻むかのように捉えている。
「……」
滑らかな肌に刻まれた、赤く剥き出しになった火傷に、かのこは他人の傷の様子でも見るかのように静かに指で触れた。
どろりと皮膚の爛れた感触と痛みを確認し、女は漸く口元を吊り上げる。
「……ふふっ」
小さく笑んだかと思うと、その白い姿は闇の中へすっと消えた。
矢庭に瑞穂は立ち上がり、凄まじい勢いで広間を駆け抜けると月光の差す欄干へと向かう。
「だ、旦那様——」
「いけませぬ、瑞穂様!!」
家臣たちが止める間もなく、瑞穂はその身体を欄干の外へと踊らせた。
あの秘密の庭へ行く時のように、目にも止まらぬ速さで足元に水の板を張りながら、猛烈な勢いで月光の空を駆けていく。
振り乱された銀の髪が、月光を浴びて煌きながら波打つ。
——瑞穂。
もはや思考を巡らすことも難しくなった意識の中で、旭はその背を見つめて唇だけを小さく動かした。
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