揺れる炎

 披露目の儀の後、自室へ向かい廊下を歩く旭の後に従いながら、鴉が朗らかな声音で話す。

「旦那様はこの後すぐに今宵の齢分のお支度に入られますが、旭様にはその間お食事や休養を充分とっていただくようにと、旦那様からことづかっております。

 それに致しましても、実に良い披露目の儀となりましたな」

「うん。——皆があんな風に祝ってくれるとは、本当に思ってなかったよ」

 旭はふうっと大きく息を肺に吸い込み、今までガチガチになっていた口元に漸く笑みを浮かべた。

「何だか、皆から家族だって認めたもらえたような気持ちだ。……この城にきて今初めて、本当の深呼吸ができた気がする」

 そんな旭に、鴉も心から安堵したように微笑んだ。

「私も、我が事のように嬉しゅうございます。

 実は、機会があれば旭様とお話ししたいと申す従者たちが何人もおりましてな。先ほどお二方が退室された後にも、もし叶うならば齢分についてより詳しくお話をお聞きしたいものだと、そこここで囁きが起こっておりました。

 これは、旭様への批判や非難の声ではなく、むしろ旦那様と旭様の今後のことをより深く知りたいという皆の思いの表れに他なりませぬ。誰もがより深くお二人を知り、より深い関わりを持ちたいと望んでおります。従者たちの表情を見れば、それは明らかにございます」

 そう語る鴉の穏やかな口調は、それが城内の噓偽りない空気であることを明確に伝えていた。

「……そっか。

 希望があれば、いつでもぜひ話に来て欲しいって、鴉から従者のみんなに伝えてくれる? どんな話でも聞くし、むしろたくさんの人が来てくれたら嬉しい、って……」

 そう言いかけた言葉を不意に切り、旭は胸元を抑え小さく息を詰まらせた。


「……旭様?」

「……、なんでもない、大丈夫。

 ——この後なんだけど、だいぶ疲れたみたいだから、部屋で少し眠ることにするよ。丑三うしみつ(午前二時)の儀式までに支度がちゃんと整うよう、亥の正刻(午後十時)には必ず起きるから。

 夕食も、緊張でちょっと食べられそうにないし、夕餉は不要って料理長に伝えてもらえる?」

「……本来ならば、少しでもお召し上がりになられた方が良いのですが……」

「ほら、よく言うじゃん、マリッジブルーって。鴉ならきっとこの言葉も知ってるだろ?」

 苦し紛れに口から飛び出したおかしな言い訳に、鴉は困ったように微笑んだ。

「まあ、その言葉も、知らぬわけではありませぬが……確かに、緊張で食事も喉を通らないお気持ち、よくわかります。

 かしこまりました。まずはごゆっくりお休みくださいませ」

「ありがとう、鴉」

「いよいよ、今宵ですな」

 部屋の襖の前で、鴉は清々しい笑みを浮かべながらすっと膝を廊下につき、旭へ向けて深く額を伏せた。


 自室の襖を締めると、旭は何をする余裕もなく部屋の隅の梅酒の瓶へにじり寄った。

 傍のさかずきへなみなみと注ぎ、一気に呷ると、畳の上へどさりと仰向けに倒れ込んだ。


「——……あと、少し」


 胸を絞るような苦しい息を何とか鎮めながら、旭は額の冷たい汗を拭って目を閉じた。









 その深夜、丑三刻(午前二時)。

 闇に包まれた祭儀の間の大きな祭壇の両脇に、蝋燭が灯った。


 白銀の装束を纏った瑞穂が、小さな炎の揺れる祭壇に向かい複雑な印を結びながら、小さく呪言を唱え始めた。

 広い床張りの間に、厳粛な気配が満ちる。

 祭壇の前には、今朝瑞穂の居間にあった黒い漆塗りの台が置かれ、梅酒の大徳利と二つの杯が添えられている。

 祭壇へ向けていくつかの印を結んだ後、瑞穂は背後に正座した旭へ静かに振り向いた。


「——これより、齢分の儀を執り行う」


 小さな翡翠の勾玉を繋いだ首飾をかけ、白装束を纏った旭は、胸の前に合掌して静かに目を閉じた。

 大きな水晶の珠を編み込んだ朱い組紐くみひもの呪具がその親指にかけられ、蝋燭の光をちらちらと反射させる。

 低く呪言を唱えた瑞穂は、炎を揺らす二本の蝋燭を祭壇の燭台から取り出し、旭の目の前と自分の前に置かれた燭台に一本ずつ立ててゆく。祭壇へ深く一礼し、瑞穂は旭の横へ静かに座した。

 清しく背筋を整えて印を結ぶと、瑞穂は低く通る声で祝詞のりとを告げる。


「この二つの灯が一方を残して消ゆることのなきよう、固き契りを結ぶものとする」


 旭と同じ朱の組紐を手にし、瑞穂は念を込めるように低く強い呪言を放つ。

 それを合図に、旭も閉じていた瞼を開き、自分の目の前の蝋燭の炎を見つめて強く念ずる。

 ——この炎が、共に最後まで燃え続けるように。


 と、不意に旭の蝋燭の炎が大きく揺れた。

 一瞬、ふっと弱まり、消えかける。


「——……」


 旭ははっと青ざめ目を見張るが、炎は何事もなかったかのように静かに立ち上がっている。


 気のせいだろうか?

 それとも、眩暈めまいのせいか——


 内心の動揺に気づかれないよう、旭は途切れかけた意識を取り戻して必死に炎へ集中した。


「良いか、旭」

 どれだけ時が経ったのか、隣の瑞穂が静かに問いかける。

 額に浮く汗をさりげなく指で拭い、旭は頷いた。

 厳かな所作で立ち上がった瑞穂が、祭壇の前の酒の置かれた台へと進む。深く一礼をすると、その台ごと額の前へ捧げ持った。

 この上なく強い念の籠もった酒が運ばれ、静かに目の前に置かれた。その徳利からは、凄まじいほどの気が立ち込めている。


 酒の前で小さく印を結ぶと、瑞穂は徳利の栓の紐を解き、ゆっくりと蓋を開けた。

 立ち上る濃厚な香りに、思わず強い眩暈が起こる。

 二つの杯にとろりとした黄金色の液体が注がれ、儀式に則った厳格な所作でその一つを瑞穂が差し出した。

 額を伏せて両手で受け取り、そのまま捧げ持つ。

 抑えようもなく指が震える。

 自らの杯を両手で額の前へ掲げ、瑞穂が祝詞を唱えた。

「この杯を交わし、齢分と為す」


 捧げた杯を口元へ寄せた瞬間、旭は完全に呼吸を奪われた。


「……っ……」


 息ができない。胸が強烈に圧迫される。

 杯を取り落とし、がくりと前方へ手をついた。

 息を吸うことも吐くこともできず、床へ額を擦るようにただゼイゼイと肩で喘ぐばかりだ。


「————旭!!」


 叫びに近い声でそう呼びかける瑞穂に、答える方法すらない。

 激しく上下する旭の肩を抱きかかえ、瑞穂が大声で叫ぶ。


「旭……旭!!

 鴉! 鴉はおるか!! 侍医を呼べ、早く!!」


「お医者様をお呼びになっても、恐らくどうにもなりますまい」


 旭を抱えて青ざめる瑞穂の背後の闇で、そう囁く声がする。

 静かながら何とも艶やかな、女の声だ。


「——……」


 振り向いた瑞穂の前に、女が立っていた。

 滴るように黒く大きな瞳。くっきりとした二重の瞼に、緩く波打つ長い黒髪。艶やかな紅色の唇。

 ふくよかな胸と、細い腰。純白の着物をすらりと纏ったその裾からは白い太腿が覗いている。


「…………」


 瑞穂の目が強く身開かれ、表情が険しく強張った。


「——そなたは……、か……」


「覚えていてくださったのですね、瑞穂様」

 禍々しいほどに美しいその女は、唇を上へクッと引き上げた。

 

「そうです。百合の精の、かのこにございます。かつて、醜い虫けらのように貴方様に踏みにじられた。

 お久しゅうございます、瑞穂様」


 咽せるほどに甘い百合の香が、二人の体にふわりと絡みついた。



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