術成る

 瑞穂の母の梅酒は、旭の苦痛を微かに和らげるようだった。

 食事時や夜眠る前に、その梅酒を盃に一、二杯飲むと、食欲がわずかに動き、寝覚めの不快感もどこか穏やかになった。

 弱まった光が再び灯るように、旭の心身に小さな力が戻った。

 連日祭壇の前で盗人ぬすっとのように酒を飲んだりするのはどうにも嫌で、「不安が落ち着くから」と鴉に理由を話し、祭壇の酒瓶を自室へ持ち込むことを許してもらった。

 酒を口にするようになってからは、鏡に映る顔も何とか血色を保てているようだ。梅酒の力を借り、旭は瑞穂の術が完成するまでの四日間をどうにか凌いだ。



 そして、その日の朝。

 ほとんど眠れずに過ごした夜の闇が遠のき、朝の光が障子を明るくする頃、襖の外に鴉の通る声が響いた。


「——旭様。おはようございます。

 今朝、旦那様のまじないが、恙無つつがなく整いましてございます。

 誰よりもまず旭様にお会いしたいとの旦那様のご意向を、お伝えに上がりました」


 バネのようにガバリと半身を起こすと、旭は声の震えを抑えきれず襖の外へ答えた。

「——……うん、わかった。すぐ行く。ありがとう、鴉」


 ぐちゃぐちゃと混乱する感情を必死に纏めながら身支度を整え、髪を雑に束ねながら自室を飛び出した。

 瑞穂の居室へ向かう廊下には、もう冷たい結界の壁はない。思わず目の奥に込み上げるものを堪えながら、薄暗い廊下を全力で走る。

 襖の前で挨拶の言葉を選ぶ余裕もなく、指が取手にかかり、止め難い勢いで開け放った。


 仄明るい部屋の中央、太い綱を巡らせた方形の結界の中に、瑞穂は座っていた。

 白銀の装束の背が、頭を深く垂れ音もなく佇んでいる。

 つい今し方まで、結界の中で炎が燃え盛っていたかのような凄まじい熱気が室内に籠っている。

 瑞穂により作り上げられたいくつかの呪具と、梅酒の大徳利が、瑞穂の目の前の黒い漆塗の台に置かれていた。


 俯いていた頭がおもむろに上がり、銀の長い髪が一筋肩から崩れた。


「——瑞穂」

 そのただならぬ気配に一瞬奪われた思考を取り戻し、旭はその背に呼びかけた。


 髪が揺れ、静かに横顔を向けた瑞穂が、小さく呟く。


「……旭。

 ここへ、来てくれぬか。

 結界は全て解いた。綱を越えて構わぬ」


 喉が詰まったかのように声を出せぬまま、旭は瑞穂を囲う太い綱を越えて駆け寄る。

 その全身からまだ微かに放出されている熱気に刹那せつな怯むが、瑞穂の胡座の横へ膝をついた。


「瑞穂」


 疲れ切ったように閉じられていた瞼が、旭の呼びかけに応えてゆっくりと開いた。


 深い水の色。

 喉を掻き毟る程に待ち望んだ瞳が、旭の顔を真っ直ぐに捉えた。

 部屋へ差し込む朝の光が、その澄んだ色を静かにゆらめかせる。


「——瑞穂。

 もう、会えないかと思った」

 堪え切れずにその首筋へ両腕を回し、広い肩に瞼を強く押し付けながら、旭は小さく言葉を漏らす。


「……さようなことになるわけがなかろう」

 旭の背を掌で静かに撫で、瑞穂が淡く微笑んだ。

 低く温かな声が、旭の耳の奥深くまで沁み込んでいく。


「——不安にさせて、済まなかった。旭」

 その腕がやがて旭の背に回り、強く力が籠った。

 十七日間という時間に積み重なった想いの量が、自分を痛いほどに包む。


「瑞穂、頼む。

 もう、ひとりにしないでくれ」


 怖かった。

 自分がどうなってしまうか、わからなかった。

 心も身体も、ばらばらになってしまいそうだった。

 闇に呑まれ、自分自身を見失ってしまいそうだった。


 やっと、戻ってこられた。この温もりの中に。

 もう、離したくない。この肩を。


「決して、そなたをひとりにはせぬ。

 ——二度と離さぬ」


 旭の心を読んだかのように、瑞穂の腕が一層きつく旭を抱きしめる。


 胸から溢れようとする激しい感情を必死に抑え込みながら、旭は瑞穂の肩にただ深く顔を埋めた。









 その日の午後、ひつじの刻(午後2時)。

 一刻(2時間)後に、城の家臣たちへ齢分の披露目の儀が行われる。

 旭は自室で、蒼鷺に装束の着付けと化粧を施されていた。


 念入りに美しい化粧を施すうちに、蒼鷺は旭の顔色や肌の変化に気づいたのだろう。仕事の手を止めぬまま、一言だけ小さく囁いた。

「——旭様。どこかお加減が優れぬのではありませぬか」

「……いや、大丈夫だよ」


「……」

 その言葉を素直に受け止められないように、蒼鷺が沈黙する。

 この後、着替えのために全身も晒さねばならない蒼鷺には、そのやつれぶりをもはや誤魔化しようがない。苦しいものを白状するように、旭は小さく懇願した。

「蒼鷺、頼む。このまま、何も気づかないふりをして欲しい。

 今夜の齢分の予定を延期したりは、絶対にしたくないんだ。

 化粧も、健康状態万全に見えるようにしてくれる?……蒼鷺の腕前なら、余裕だろ?」


「——かしこまりました。

 どうぞくれぐれも、ご無理はなさいませぬように」

 暫しの間を置き、蒼鷺は静かに答えた。

 そして表情を切り替え、明るく微笑んだ。

「本日の装束をお召しになった旭様のお姿が、ほんに楽しみにございます。やはりこの薄藍うすあいの羽織は、旭様に大層お似合いになりますな。瑞穂様の瞳の色とまるで響き合うようにございます。

 お支度が整いましたら、茉莉花まつりか(ジャスミン)の茶をお持ちいたしましょう。心安らぐ香の茶にございますよ」


「……ありがとう、蒼鷺」

 彼女のさりげない気遣いに、旭はそんな一言を返すのみだった。




 全ての準備が整った、寅の刻(午後4時)。

 城の家臣たちが一同に集まった大広間の前方の座敷に、旭は瑞穂と並んで座った。

「皆の者、大義である。面をあげよ」

 深く額を伏せていた家臣たちは、瑞穂の声に一斉に頭を上げる。

 数多の視線が、前方の二人に注がれた。


「本日は、殊の外大事な知らせがある。

 此度、人の世よりこの城へ参り、今日までを共に過ごして参ったこの雨宮旭殿と、齢分を結ぶ運びと相成った」


 事前の打ち合わせ通り、旭は膝の前に両手の指を揃え、背を真っ直ぐに整えて面前の家臣たちへ深く額を伏せた。

 目の前にある指先が青い程に白み、小刻みに震える。


「——……」


 額を戻した旭の目に、いくつもの複雑な表情が刺さるように飛び込んできた。 

 ほとんどの従者たちにとっては、この決定を聞くのはこれが初めてだ。広間全体に、俄かに張り詰めた空気が漂う。


「本日は、皆への披露目のために、ここへ集まってもらった。

 ——もしも、これに不服のあるものがおれば、ここで申し出よ」


 ビリビリとした緊張が満ちる。

 言葉を発するものは一人もおらず、誰もが息さえも殺しているかのような静けさだ。


「……」

 重い静寂の中、何か裁かれでもしているような心持ちで、旭は俯いて膝の上の手をじっと見つめた。


 神は自らの選択について周囲に同意を求めたりはしない、と、以前聞いた瑞穂の言葉が脳に蘇る。

 けれど——仮に主人からこうして不服の申し出を許されたとしても、神である存在の意に背く勇気のある者など、果たしているだろうか?


 気づけば、指に力が籠り、ぐっと硬い拳を作る。

 旭は顔を上げ、意を決して息を大きく吸い込んだ。


「私からも、お願い申し上げます。

 この決定に納得のできない方がいれば——旦那様にではなく、私へ申し出てください。

 どんな言葉でも、意見でも、ちゃんと受け止めます」


 瑞穂が、驚いたように旭の横顔を見つめた。

 しかし、やがて旭の発言を深く認めるように、従者たちへ向けて静かに頷いた。


「…………」

 従者たちの間に、ここまでとは違う空気が広がっていく。

 広間は依然静まり返ったままだが、明らかに何かが柔らかく解けていくようだ。


 やがて、それらの気配を一つに纏めるかのように、最前列の中央に座っていた熊が広間に響き渡る声を発した。


「旦那様、旭様。

 この度は、晴れて齢分の運びと相成りましたこと、真におめでとうございます。

 旭様以上の奥方様は、恐らくどこを探してもございませぬ。

 家臣一同、心よりお慶び申し上げます。

 さあ、皆も。声を揃えてお二人をお祝い申し上げよ」


 熊の音頭に従い、家臣全員の頭が一斉に伏せられた。それと同時に、広間を揺るがすほどの大音声が湧き起こった。


「真におめでとうございます!」


 それは紛れもなく、家臣全員からの同意であり、祝福だった。

 明るい清々しさに満ちたその声は、旭の胸の奥深くまでを痛いほどに振動させた。


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