悪夢
はっと、自分自身の呼吸の苦しさに目が覚めた。
額や寝衣の背に、じっとりと嫌な汗をかいている。
ここ数日、まだ夜明けも来る前に、いつもこんな風に目覚める。
乱れた息を整えながら、旭は今朝も薄暗い部屋に半身を起こす。
目覚めると、何が苦しかったのかを全く覚えていない。どこに痛みがあるわけでもなく、陽が昇ればいつも通りだ。ただ、深く眠れていないせいか、体の怠さや鈍い頭痛が常に付き纏う。
夜のうちに、何か悪夢でも見ているのだろうか?
瑞穂の酒への呪術が始まって、今朝で六日目だ。
自分自身の生に著しい変化を及ぼす儀式を前にして、底知れぬ不安や恐怖感はやはり次第に大きくなる。強力な呪言を込めながら酒をつくる瑞穂の心身の消耗も気がかりでならない。
数日前、鴉に不穏な話を聞いた。齢分の術に要する念のあまりの強さと量に、術が全て成る前に力尽きた神もいたそうだ、と。自分の主には一切関係ないとばかりにさらりと聞かされたその情報に、旭の心臓は潰れそうになった。
悪夢などに悩まされるのは、それらのストレスが心を圧迫するせいだろうか。
酒への術が成るまで、予定ではあと四日。こんな大切な時に、鴉や他の従者たちに、何より瑞穂本人に、こんなみっともない心配はかけられない。絶対に。
まだ誰も起き出さない早朝をいいことに、旭は鏡台の引き出しにしまわれている化粧道具をごそごそと引っ張り出した。明るい色の
その日の朝餉も、食欲が湧かずどうにも箸が進まない。無理に口へ運んでも完食はできず、恐る恐る膳を下げに行った厨房でとうとう料理長に声をかけられた。
「旭様。いつも配膳をお手伝いくださり、誠にありがとうございます」
深く一礼してから、料理長は少し不安げに旭の表情を窺った。
「最近、お食事を残されることが多いようにお見受けいたしますが……料理がお口に合いませぬか? 味付けがお好みに合わないなどございましたら何なりと……」
その言葉に、旭は慌てて首を横に振る。
「いや、違う違う! 美味しい食事お腹一杯食べちゃうといつもつい眠くなって、鴉から出された夏の課題がこのままじゃ終わりきらないからさ。たらふく食べるの我慢して、ちょっと勉強頑張ろうかなーって」
苦し紛れの言い訳を、料理長は信じてくれたようだ。彼はうんうんと深く頷きながら、引き締まった表情で深く頭を下げた。
「……なるほど。そのようなご事情がございましたか。
さすれば、本日の昼餉からは分量を少なめにご用意いたしましょう」
「うん、ありがとう。勝手なお願いですみません」
「滅相もございませぬ。課題完遂へ向け、存分に勉学に励んでくださいませ。皆で応援しております」
気づけば、厨房で立ち働く従者たちが皆柔らかい空気で二人のやりとりを聞いており、料理長の励ましに合わせてそれぞれに頷いてくれている。
自分のついた嘘がちくりと胸を刺すが、同時に温かな感覚が旭をふわりと包んだ。
「皆さん、ありがとうございます!」
旭は、改めて厨房の全員へ向けてがばりと頭を下げた。
*
「さあ、ほんとにやらなきゃ」
厨房から戻り、文机に向かい、腕まくりをして課題を開いた。
美しく流れるような毛筆が最初は読みにくく苦労したが、今はすっかり普通の読み物同然だ。物語、歴史、算術。高校でやってた生物はちょっと面白かったけど、こっちでは生物について学ぶ講義はない。鴉に頼めば教科書みたいなものが手に入るだろうか……?
睡眠も栄養も足りていないせいなのか、やはり目の前の書物に集中できないまま、気づけば思考は散漫に流れていく。
化学も、英語も、物理さえも。あの頃は嫌だったけれど、今はどれも懐かしい。
高校のみんなは、元気だろうか。家族は今頃何をしてるだろう。向こうもやっぱり夏休みで、ほのかは元気に部活三昧なのだろうか。
柚季は……新しい彼氏ができただろうか?
ちょっとツンとしたあの美しい微笑が、遠く瞼に浮かぶ。
デートの日はいつも大雨に見舞われて。その度に自分の上着を二人で被って雨粒を避けながら、それでもずぶ濡れで。そんな状況にますます昂ぶる想いのまま、誰もいない土砂降りの通りに立ち尽くしてキスをした。
抱き寄せた肩も、唇も、冷たい雨の中でむしろ熱いほどで。
触れる場所全てが柔らかくて、甘い匂いがして……
「……」
はっと、我に返る。
なぜ、遥か遠くに流れ去った過去のことを、今になってこんなにもくっきりと思い浮かべているんだろう?
決して取り戻せないもののことを。
不意に軽い目眩を覚え、机に両肘をついた。
急速に混乱する脳を両腕の間に挟み込み、頭をがしがしと掻き乱す。
これは、何なんだ?
瑞穂がそばにいない間に、何か大切なものがばらばらと分散していってしまいそうな——
胸の奥から冷たい塊が迫り上がるような圧迫感に、旭は羽織の胸元を思わず強く握りしめた。
重く鈍い感覚に、濃厚に働きかけるものがある。
百合の花の、甘い香りだ。
視線を上げると、目の前に大輪の百合が白い花弁を艶やかに反らせて咲き誇っている。
神の山の眩しい木漏れ日が、まるでずっと昔のことのように思い出された。
旭は文机に両腕を乗せ、ゆっくりと重い額を伏せた。
どのくらい経ったのか。
ふと、強い衝動に動かされ、旭は揺り覚まされるように顔を上げた。
勢いよく机を立ち、足早に部屋を出て、広間の奥の瑞穂の祭壇に向かった。
あの梅酒が、たまらなく欲しい。瑞穂の母の梅酒が。
祭壇へ近寄ると、さりげなく周囲の様子を窺う。こんな昼前の時間に酒など、どう考えても不審な行動だ。
人気のないことを確認し、祭壇の奥に置かれた梅酒の瓶へ手を伸ばした。我慢ならず、脇に備えられた盃にその場で注ぎ、渇きを癒すかのようにぐっと一気に呷った。
とろみのある甘みが喉を通り、胸に柔らかい熱を灯す。
ようやく空気を得たかのように、旭はふうっと大きく息を肺へ吸い込んだ。
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