一員

 八月下旬。

 瑞穂が齢分の支度を始めた日から、七日が経った。

 主の居間は硬く閉じられ、鴉以外の一切の者を遮断している。

 部屋の周囲には結界が張られ、居室へ近づくと何かにひやりと圧迫されるような鋭い気配に妨げられる。

 深夜の闇の奥、強い念を込めながら一心に呪具に向き合う瑞穂の姿が目に浮かぶようで、旭は胸に詰まる息を幾度となく吐き出した。


 八日目の朝。明るくなり始めた旭の部屋に、いつものように清々しい挨拶が響いた。

「旭様、襖をお開けしてもよろしいですか」

「うん、おはよう、鴉」

 最近は、あまりよく眠れない。床の中で本を読んでいた旭はすぐに起き上がった。

 襖を開け、伏せていた額を上げた鴉は、旭に向けぱっと明るい笑顔を浮かべた。

「おはようございます、旭様。今日は大層喜ばしいお知らせがございます。 

 今朝、旦那様より、齢分の儀の呪具の準備が整ったとお言葉がございました」

「え……ほんと!?」

「はい。八月も終わりに近づき、長雨や野分のわき(台風)の季節が近づいていることもあり、ここ数日は他の神々との書状のやりとり等御公務が増えてきております。それゆえ予定より日数がかかられたご様子ですが、恙無つつがなく良き呪具が整ったとのことにございます」

「そっか……よかった。ほっとした……」


 ふうっと安堵の息をつく旭の表情を窺い、鴉が穏やかに言葉を続ける。

「旭様。最近、少しお顔の色が優れませぬな。そのように片時もなくご案じになられては、旭様までもお疲れになってしまいます。

 瑞穂様は優れた力を持つ神にございます。何もご心配はいりませぬ。

 私も旦那様のお部屋に立ち入ることは許されておらず、今朝は八日ぶりに襖越しに旦那様のお声をお聞きいたしましたが、やや掠れつつも力のあるお声にございました。

 旭様のご様子をいろいろとお聞きになり、何事もなくお過ごしである旨をお伝えすると、『ならばよかった』と、安堵されたように仰せになりました。

 支度は滞りなく進んでいる故、普段通り心安らかにお過ごしになるようにと、旦那様より旭様へことづかってございます」


「……そっか」


 自分自身も、相当に心身を消耗しているはずなのに。

 彼は一体どんな顔で自分を気遣い、どんな声で鴉にその伝言を頼んだのだろう。

 どんな眼差しで、どんな息遣いで。

 

 思わず、目の奥が滲む。

 今すぐ、声を聞きたい。瞳の奥底を見つめたい。その息遣いを感じたい。

 いくら求めても叶わない思いを、ぐっと胸の奥に押し込んだ。


「あと十日にございます。酒への術が無事成れば、お二人の間を阻むものはもはや何もございませぬ」

「うん——

 あと十日……もう少しだよな」

「はい。その後に控えている諸々の行事のためにも、きちんと食べてしっかりお休みになり、心身ともに健やかにお過ごしくださいませ。

 障子をお開けいたしましょう。朝夕は風が少しだけ涼しくなってまいりましたね」


 鴉の開け放った障子から、心地良い風が流れ込む。眩しい空は、今日も突き抜けるように青い。

 旭の文机の上で、一輪挿しの花器に活けられた山百合が涼やかに揺れた。


「神の山の百合は、少しも衰えることなく見事に咲き続けておりますね」

 持ち帰った日から、むしろ日に日にその美しさを増していく大輪の花に、鴉は驚きの目を向ける。

「うん。すごいよな。百合の園で会った女の子が、しばらくは枯れることなく咲くので愛でてやってください、って言ってた」

「百合の精たちは皆高貴な美しさを誇ると同時に気位が高く、容易に他の者と接することもないと聞いております。百合の精の少女から花を貰い受けるなど、なかなかないことにございますよ」

「気位が高い……あの女の子は、何となく人懐こい感じだったけどな……。

 美しさだけじゃなくて、この甘い香りもだんだん濃くなってる気がする。夏休みの課題放り出してつい見とれちゃうんだよな」

「……課題を放り出して?」

「……あ、えーっと」

「九月より講義を再開いたしますゆえ、課題は全て済ませておくように、とお伝えしたことをお忘れではございますまいな?」

「わかってるから! 多分終わるから大丈夫だって!」

 視線を泳がせて慌てる旭に、鴉はクスっと微笑んだ。

「何はともあれ、まずは朝餉をしっかりお召し上がりくださいませ。

 本日は、朝餉のあと、齢分の披露目の儀にお召しになる装束をお選びいただきます。このお部屋へ蒼鷺が参る予定にございます。

 元締の熊と妻の蒼鷺には、旦那様の了承の元、既に齢分の旨を伝えてございます。二人とも大層な喜びようで、心よりお二人を祝福しておりますよ」


 自分が城へ来てすぐに開かれた御目見の儀で、熊が口にした冷ややかな言葉と大広間の空気を思い出す。

 人の世にも、神の世にも、自分の居場所はない。本当はあの日、城の欄干から飛び降りてしまいたかった。

 そんな彼らが、自分と瑞穂の齢分を喜んでくれている。少しずつ、自分を仲間として受け入れてくれている。

 その実感に、大きな喜びが胸に満ちる。 


 旭の表情を見つめた鴉が、独り言のように呟いた。

「——ここへお越しになった頃よりも、大層麗しゅうなられましたな」

「え?」

「いえ、何でもございませぬ。

 朝餉のお膳は、こちらへお運びいたしますか?」

「いや、自分で厨房へ取りにいくから、大丈夫だよ」

「かしこまりました

 ——まずは、真におめでとうございます。旭様」

 鴉は柔らかい笑みを浮かべ、深く額を伏せると静かに襖を閉めた。


 





 朝餉を済ませた膳を厨房へ戻して間もなく、蒼鷺が数人の女房を従えて部屋を訪れた。女房達は何着もの見事な羽織や袴を手にしている。

「旭様、蒼鷺にございます」

「久しぶり、蒼鷺。この前の旅の時にくれた夏蜜柑の干菓子、ありがとう。垓の額で食べたよ。めちゃくちゃ美味しかった!」

「いえ、我が家でいつも作っている質素な菓子にございます。喜んでいただき、嬉しゅうございます」

 旭の言葉に、蒼鷺は温かな笑みを浮かべた。


 試着用の装束を運び入れると、女房たちは美しい所作で礼をして退室していく。彼女達が廊下を遠ざかったことを確認し、蒼鷺は旭に向けて改めて深々と額を伏せた。

「旭様。この度は、瑞穂様との齢分の御誓約、真におめでとうございます」

「あ、えっと、うん……そうだね。あ、ありがとう……」

 とんでもなく照れてあわあわと赤面する旭を、蒼鷺は微笑ましげに見つめた。

「かように愛らしいお方がこの城の奥方様になられるとは、何か信じられないような心持ちにございます」

「え?」

 蒼鷺は、表情を微かに翳らせて静かに言葉を繋ぐ。

「神の世の婚儀は常に、神が自分の思うままに相手を定め、気持ちの赴くまま執り行います。そのお相手もまたこの上なく美しく、同時に冷淡なお方であることが少なくありません。

 私達従者は、黙々と従い、ひたすら耐えるのみにございます。奥方様の前での僅かな粗相で厳しく罰せられ、信じ難い苦痛を受ける従者たちも数えきれませぬ」


「……」


「ですが、旭様がおいでになられてから、この城の空気は変わりました。

 私達は、貴方様を人の世からのただひとときの来客と扱い、表面上だけやむなく受け入れたつもりでございました。

 なのに……貴方様は、ひび割れたように冷え込んだ私達の心を温めてくださった。この世界が、このように心地良く温もることを、私達は初めて知りました。

 貴方様と瑞穂様には、この神の世の誰よりも末永く、お幸せになっていただきたいと……心より、そう願っております」


 蒼鷺の口から語られた、思ってもみなかった言葉。

 その一言一言が、旭の脳に染み入り、胸の奥底を大きく揺さぶる。


「……何だか、嘘みたいだ。

 俺こそ、信じられない。そんなふうに思ってもらえるなんて……

 俺、ほんと何もしてないし、何もできないし……

 なのに……」


 気づけば、目の奥から熱いものが一気に込み上げ、抑えようもなくぼろぼろと零れた。

 瑞穂だけに縋りながら何とか日々を歩いてきた自分自身の孤独に、今更のように気づく。


「俺、この城のみんなに、仲間と思ってもらえたのかな……この城の一員になってもいいの?」

「何を仰っておられます。貴方様は、これからは正真正銘この城の主にございますよ。

 貴方様ほど、瑞穂様とこの城を支えるに相応しいお方はおりませぬ」


 どこか戸惑いながらも、蒼鷺の袂が旭の肩を優しく包む。

 何だかまるで母親にそうされているようで、旭は蒼鷺の胸で子供のように嗚咽を漏らして泣いた。


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