水紋

「齢分に必要な支度は全て、神の務めを済ませた深夜に行うものと定められておる。儀礼に用いる呪具の準備と酒へのまじないが全て整うまでには、およそ半月ほどかかろう。

 その間、齢分の相手との関わりを一切断つことで、念が強まる。無事に儀を行うために忍ばねばならぬことだ」


 障子の隙間から月の光が差し込む居間で、黒く艶やかな猪口二つに梅酒を注ぎながら瑞穂が呟く。


「日々のことで何か不都合があれば、どんな些細なことも鴉に相談せよ。決して独断で動いてはならぬぞ」


「小さい子供じゃないんだし、心配しなくても大丈夫だって」 

 差し出された猪口を受け取って一口口に運び、旭は笑顔を作って軽く答える。


「笑い事では無い、旭」


 旭を見つめる水の瞳が、淡い月光を受けながら幾重にも波紋を揺らす。


「齢分の意向は、もう我々の口から外に出た。鴉が他者に漏らすことは決してないにしても——

 ゆめゆめ油断はならぬ」 


 銀の髪が風に靡き、鋭いほどの視線をさらさらと遮った。 

 本気で笑っているわけではない。半月という時間に深い溜息が漏れそうなのを、何とか誤魔化しているだけだ。


 旭は表情を改めて、瑞穂を見つめ返した。

「……約束する。何でもちゃんと鴉に相談するから、安心して」


 柔らかな夜風が二人の頬を撫で、訪れた沈黙が酒を口へ運ばせる。

 瑞穂の母の梅酒は、みつきの庵で飲んだものよりもさらにまろやかに甘い。

 酒の心地良い甘さに、ざわめく思いも少しずつ解れていく。


「この先のことについてだが……呪具と酒の準備を終えた翌日に、城の者たちへ齢分の披露目を行う予定でおる。

 披露目の済んだ夜、深夜うしの刻に、齢分の儀を執り行う。——それで良いか?」

「わかった。

 齢分の儀式の前に、城のみんなに披露目をするって聞いて、安心した」

「安心?」

「だって、なんとなく、『披露目は齢分を終えてからに決まっておろう! 儀式前に従者たちの異議を受け付ける気は毛頭無い!』とか言い出すんじゃないかなーと思ったから」


 冗談めかした旭の言葉に、瑞穂はふと何かを考えるようにしてから、徐に口を開いた。

「……以前までの私ならば、そういうやり方を選んでいたやもしれぬ。ごく当たり前のように。

 そなたとこの先を生きる邪魔をする者は全て切り捨てても構わぬと、そんな心持ちでいたこともあった。——そなたがこちらの世へ参るまではな」


「……」


「元来神は、自らの決断に周りの者の意を容れることなど一切せぬ。周囲のものは、主の選択に従うのみだ。

 それでも——私が探し求めているものは、そのような方法では決して手に入らぬ。

 そなたが教えてくれたのだ。

 幼きそなたが空へ問いかけてくれたあの時から、私の世界は変わった。

 そなたに対し冷ややかだった城の者たちへの振る舞いも、此度予期せぬ形でみつき殿と紫乃殿に会うた際も——どうすれば、冷え切ったものを温め、互いを結び合えるのか。全て、そなたが目の前でやって見せてくれた。

 そなたが引き寄せたいくつもの喜びは、どれも私が心から欲していたものだ。

 他の神々から見たら、私が探し求めているものが何なのか、とんと理解できぬのかもしれぬが……私の心がそれを望むのだから、致し方ない」


 想う温もり。想われる温もり。互いの心同士が繋がる温もり。

 そういうものをどうしようもなく欲し、探し求める瑞穂。

 瑞穂の求めるものが何なのかを理解できない、冷酷で傲慢な神々。 


 さよが神の世に落としていった水滴は、水紋となって雨神たちの中に広がり、彼らの心を揺らし続けている。

 さよが雨神の城へ来なければ、雨神たちもまた冷ややかで傲慢な神のままだったはずだ。心の触れ合う甘さなど、知ることもなく。

 雨神たちは、心に定めた者を深く愛する喜びと、孤独の苦痛を知ってしまった。さよとの出会いのせいで。

 

 けれど。

 瑞穂の穏やかな微笑を見ていると、これでよかったのだと信じられる。


 自分は、この人を、幸せにしている。

 この人を幸せにする。これからも。


 ふっと、気づけば自分の口元にも自然に笑みが零れた。


「そういえば、確かに。最初俺を迎えに来た時の瑞穂は、どこか傲慢で、冷淡で、怖かったな……ってかデートの度に豪雨攻撃とか、強引以外の何物でもないしな。

 つまり、強引で怖い雨神様もついに丸くなった、ってことか?」

「ん? 『丸くなった』とは、どういう意味だ?」

「あはは、人の世界の言い方だから気にしなくていいよ」

「人の世界の……実は随分と酷い文句なのではなかろうな」

「違うって。褒めてるから」


 含み笑いが止まらず口元を覆う旭を、瑞穂の腕が不意に引き寄せた。

 同時に、背と膝の下から掬い上げるように腕が回り、軽々と抱き上げられる。


「ひゃっ、待っ、お姫様抱っことかやめ……!」

 思わず瑞穂の首にしがみついて赤面する旭に、瑞穂はクスリと微笑んだ。

「はは、お姫様抱っこというのも意味がわからぬ。

 今宵は、一刻も無駄にはできぬ。——それに、何より大切な話もあるのでな」

「大切な話?」

 寝所の柔らかな床に旭の身体をふわりと降ろすと、瑞穂は熱を含んだ瞳で旭を見つめた。

「齢分の儀の後、大事なことを決めねばならぬ。私とそなたのどちらが、新たな命を身の内に宿すかをな。

 話し合わずに済ませられることではなかろう?」


「……え……」

 旭は、鳩が豆鉄砲を喰らった面持ちで瑞穂を見つめ返した。


「ど、どちらかって……」

「神とその相手の間に子を宿せない事情がある場合は、どちらが種を与え、どちらが子を宿すかを二人で決め、願をかけることでその力を得ることができる。世継ぎが無事誕生するまでは、その能力は双方の体内に保たれる。

 ——つまり、私たちの子を身籠るのは、そなたでも私でも可能だということだ」


「…………」


 ——ちょっと待て。

 思考が追いつかない。

 瑞穂が身籠る、っていう選択肢もあり……?

 というのはつまり……

 自分が瑞穂を抱く側になる、という意味か?


 この、眩しいばかりの美貌の神を? 自分が抱く?


 あり得ない。どう考えても無理だ。たとえ齢分を終えていたとしても、絶対バチが当たる気がする。またはその過激な妖艶ぶりに心停止に陥るか。

 いや、この人がどんなふうに抱かれるのかというのはちょっと気になるというか、どうしようもなく気になったりもするのだが……ってか唆られない訳がないじゃないか当然だろ男として!!?


 動揺でプチパニックになりそうな脳に、すっと静けさが戻る。

 ——それに。何よりも、瑞穂には神の仕事がある。押し潰されるほどに重く、苦しい任務が。


「そなたの身体の負担を思えば、私が身籠るべきかと……」

「それはだめだ。当然じゃん、瑞穂」

 瑞穂の言葉を遮るように、旭は答える。


「新しい命を、絶対しっかり守って、無事に誕生させる。

 だから、俺に任せて欲しい」


「…………

 それは、本心からの言葉か、旭?

 無理をしているのではないか」


「無理なんかしてないよ。本気でなきゃ、こんな言葉絶対言わない」


 強く旭を見つめていた瑞穂の瞳が、柔らかく解けた。


「……わかった。

 そなたにならば、安心して任せられる」


 そのシンプルな言葉が、宝物のように旭の胸の奥まで染み込んでいく。


 ふと、瑞穂が仄白い障子へ顔を向けた。

「——月が傾いたな。

 この夜が明けたら、暫くは——」


 残りを言い終えないまま、瑞穂は旭を静かに抱き寄せた。

 首筋に顔を埋めるその熱が、言葉にならない想いをありありと伝える。


 瑞穂の背に静かに腕を回し、旭は瑞穂の耳元に小さく呟く。

「——瑞穂。

 準備が整うの、待ってるから。

 これから先、ずっと一緒にいられると思えば、半月なんてあっという間だから」


 その声の甘さに耐えかねたように、瑞穂が旭の背をぐいと抱えて白い床へ横たえた。


「——朝まで、眠らせずとも良いか」

「眠らない。今夜は一秒も」



 自分を見下ろす水の瞳が大きく波立ち、甘い花の香が微かに漂い始める。

 こうして理性を保っていられるのも、もう僅かだ。

 人間であることも、絶え間ない思い煩いも、全て忘れさせる甘い香りの嵐が、もう目の前で波打っている。


「——瑞穂。

 花の香りがすること、気付いてるか?」


「……花?

 そなたを抱いている間は、他のことなど何もわからぬ」

 旭の問いかけに答える間にも、瑞穂は平常を手放しかけた荒々しさで旭の襟を乱し、剥き出しになった胸元に甘い痕を刻む。


「——……っ……」


 熱を含んだその痛みに、身体の奥底が抑えようもなく蠢き、もどかしげに疼く。

 密林の獣のように大きく背を反らしながら、旭は熱い息を漏らした。




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