齢分《よわいわけ》
「旭。齢分の儀までの
陽が落ちた
「うん。
命を分ける……って、こんな重要な儀式、準備もそう簡単に済むものじゃないんだろ?」
薄闇の中、旭は瑞穂の仄白い横顔を見つめた。
「まさに、支度から儀礼の所作一つ一つに至るまで、余念なく神の力と技を注ぎ込んで執り行う儀式だ」
瑞穂は静かに頷き、言葉を続けた。
「齢分の儀式は、挙式する神が自ら選んだ酒に呪術を込めることから始まる。
十日間をかけて呪言を込めた酒を、二人が分かち合って呑むことで契りが結ばれる。
齢分の儀が滞りなく執り行われれば、術の籠もった酒はただの酒へと戻る。そして、齢分の成った証として、寿命を分け与えられた者の胸元には桜の花に似た淡い紅色の印が花開く。
齢分を行う者が稀であるゆえ、私もその印を実際に見たことはないのだがな」
「齢分の酒にかける呪術……十日間もかかるなんて……」
旭の呟きに、瑞穂はどこか硬い面持ちで答える。
「その十日間は、毎夜丑の刻(午前一時〜三時)を
「……」
口を
「そなたは何も案ずるな。
そなたと命を分かち合うための酒を作る。これ以上に喜ばしい仕事はない」
旭は素直に頷いて微笑み返す。
齢分について、もう変な不安を引きずってはだめだ。自分たち二人の幸せを叶える最善の選択なのだと信じなければ、うまくいくこともうまくいかなくなってしまいそうだ。
「帰城したら、すぐにでも術の支度にとりかかろう。儀式に用いる酒は、みつき殿から贈られたこの梅酒以外に考えられぬ」
瑞穂と旭の間に、みつきから受け取った梅酒の大徳利が二瓶乗せられている。二瓶のうち一瓶は、約束していた土産として鴉へ渡す予定だ。ただ、旅先で義理の母と妹との出会いを果たしたことは固く伏せておきたいとの瑞穂の意向で、梅酒は単に旅の土産と説明することになっている。
「みつきさんがあれだけ自慢するくらいだから、この梅酒、最高に美味しいんだろうな。
お土産渡したら、鴉もきっと喜ぶね」
「そうだな。——鴉には、併せて齢分のことを伝えておきたいと思う。城の者たちへの正式な披露目はまた改めて行うが、日々私たちのそばで仕えてくれる鴉にはそこまで伏せておくわけにはいかぬ。……それでも良いか?」
「うん。
鴉のぶっ飛んで喜ぶ顔が、なんとなく目に浮かぶな……めちゃくちゃ恥ずかしいけど、なんとか我慢する……」
「ははは! 喜ぶであろうな。
そなたは、今や我が城の家臣たちからも深く信頼され、愛されておる。私達の齢分に不服を唱えるものなど、もはや一人も居らぬであろう」
瑞穂が、腕を伸ばして旭の肩を柔らかに引き寄せた。
優しい水の匂いが、旭をすっぽりと包む。
何も心配などない。
やっぱり、幸せ過ぎて怖いだけだ。
彼の懐の温もりに身を任せながら、旭は改めて深い喜びを噛み締めた。
*
「おかえりなさいませ。旦那様、旭様」
昨日の朝出かけたばかりなのに、なぜかもう随分長く城を空けたような不思議な気持ちで、旭は鴉の清々しい出迎えの声を聞いた。
「うむ。不在の間、誠にご苦労であった、鴉」
「ただいま、鴉!」
廊下へひたと座り、深く額を伏せた鴉は、顔を上げると真摯な瞳で二人を見つめた。
「予定よりも随分とお早いご帰城で、何か予想外の出来事でも起こったかといささか心配でございました。されど、お二人とも何事もなくお元気な様子でお戻りになられて、まずはほっと安堵いたしました。
……というか、むしろ何か良きことでもございましたか?」
垓の額から城の欄干へ降り立った主の様子に、鴉は鋭く何かを感じ取ったようだ。口元を何やら嬉しげに引き上げて二人に問いかける。
「鴉、まずはこれお土産! 旅先で手に入れた最高に美味い梅酒だよ」
ずしりと重い大徳利を旭から渡され、鴉は目を白黒させる。
「こ、これは……こんなに立派なものを、丸ごと私に……ですか?」
「うん。絶対に美味しいはずだから、今日も一日働いて疲れたなーって時間にゆっくり楽しんでよ」
「…………このようなものをいただくなど、あまりに畏れ多く……
身に余る幸せにございます。これは、我が家の家宝にいたします」
「え、家宝って、それお酒だよ?」
「いえ、誰が何と言おうと、末代までの家宝に……い、いや、やはりどうにも我慢ができぬでしょうか……ならばせめてこの大徳利だけは家宝に……!」
クスクスと笑いながら聞いていた瑞穂が、表情を改めて鴉に向き合う。
「鴉。此度の旅を切り上げて帰城したのには、理由がある。
ゆるりと旅を楽しむのは、齢分の儀を済ませてからの方が良かろうと——旭と、そう話し合うたのだ」
鴉は、今度は目を最大限度まで大きく見開き、暫し唖然としたように黙した。
「…………聞き違いでは、ございませぬか」
「聞き違いなどではない。
私の齢分の申し出に、旭が応じてくれたのだ」
「ま、誠にございますか、旭様!!」
「う、うん、まあ、えっと、そう……です」
一気に頬を染めてもごもごと口ごもる旭に飛び付かんばかりに駆け寄り、鴉は旭の両手を取るとグッと強く握りしめた。
「なんと大きなご決断を、旭様……!
これで、旭様は晴れて我が城の正式な奥方様となられ、やがて遠からずお二人に愛らしいお世継ぎがお生まれになるのですね!! ああ、鴉にとってこれ以上に嬉しきことはございませぬ!!」
「これ鴉。そのようにあからさまに捲し立てては、旭がますます恥ずかしがるばかりではないか」
もはや頭から湯気が出るかという風情で俯く旭の様子に、瑞穂が苦笑しつつ鴉を嗜める。
「これは大変失礼仕りました。お許しくださいませ!
されど——誠に、誠におめでとうございます、旦那様、旭様」
鴉は我に返ったように旭の手を離し、再びざっと畳に座すると、二人へ向けて深々と額を伏せた。
「このことを明かすのは、今はまだそなたにのみである。他言は一切許さぬぞ」
「承知仕りました。どんなことがあろうとも他言は致しませぬ。
旦那様。齢分の儀のお支度に、何か必要なことがございましたら、なんなりとお申し付けくださいませ」
「うむ。暫くは余念なく支度に専心せねばならぬ。その間、旭の身の回りに関することもそなたに任せることになる。いろいろと頼むぞ」
「かしこまりました」
深く頭を下げた鴉へ頷くと、瑞穂は旭にまっすぐ眼差しを向けた。
「旭。明日の夜より、私は齢分の支度に取り掛かる。暫くは居室に籠り、術を成すための呪具を整え、十日をかけて酒に術を施さねばならぬ。
この間、神が齢分の相手と接することは許されぬ。——寂しい思いをさせるが、許してほしい」
その水の瞳が、言いようもなく深い色に揺れる。
明日から、暫くの間、会うことができない。
この愛おしい人に。
……我慢できるだろうか?
「——わかった」
旭は静かに頷いた。
瑞穂の瞳の色が、一層濃く、深く移り変わる。
「——今宵は、自室へは戻らず、このまま私の居間へ来ぬか。
鴉。旭の手にしておる山百合の花を、旭の居室に活けてやってはくれぬか。今日立ち寄った神の山で、百合の精の少女よりもらったものだ」
「かしこまりました」
鴉が、旭の前に静かに跪く。
大輪の百合の花を鴉へ手渡すと、旭は差し伸べられた瑞穂の掌に吸い寄せられるように自らの手を預けた。
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