神の山

 鶯の囀りに包まれた静かな朝餉を終えた瑞穂と旭は、身支度を整えると、母屋の座敷でみつきと紫乃へ深く額を伏せた。


「みつき殿、紫乃殿。此度のもてなし、心より感謝申し上げる。

 ——こうしてお二人にお会いできて、嬉しかった」

 瑞穂は顔を上げ、深い水の瞳で二人の女性を見つめた。


 みつきと紫乃もまた深々と礼を返し、穏やかな眼差しで微笑んだ。

「私たちも、瑞穂様と旭様にこうして温かく受け入れていただけたこと、この上なく幸せに存じます。

 ここで娘と二人、これからは心穏やかに暮らしていって良いのだと……やっと、そう思える気がします」

 静かな口調でそう言うと、紫乃は微かに瞳を潤ませた。


 瑞穂は刹那言葉を途切らせ、改めて深く頭を畳へ伏せた。

「ここまでの長い時間、お二人の存在を何一つ知らずにきてしまったこと、何一つ手を差し伸べられなかったこと……心より、お詫び申す。お許しくだされ」

 ぐっと額を上げると、瑞穂は真っ直ぐに二人を見つめた。

「——もし、お二人さえ良ければ……今後は、我が城でお過ごしいただけぬだろうか? 何一つ、不自由はさせませぬ故」


 紫乃とみつきは、静かに顔を見合わせると、最初から決まっているかのように微笑み合った。

「いいえ。私たちは、これからもここで穏やかに暮らしとうございます。

 だって、ここを離れたら、この林で採れた梅を丹精込めて美味な梅酒に仕上げるものがいなくなってしまいますもの」

 みつきは、どこか悪戯っぽく微笑む。

「私もみつきも、ここをこよなく愛しております。薄紅様の故郷であり、芳穂様が湖底に住まわれる、この場所を。

 それに——私は今も、芳穂様をお慕い申しております。あの夜から、寸分も変わることなく。

 私は、生涯ここを離れることはございませぬ」

 紫乃は、微かに恥じらうような柔らかな微笑でそう告げた。


 二人の言葉を静かに受け止め、暫しの間を開けて瑞穂は深く頷いた。

「承知仕った。

 今後は、ここで何一つ憂うことなく、心安らかにお過ごしくだされ。もし何か依頼ごとや不足のものなどあれば、いつでも城へ文をお送りくだされば、どんな些細なことでもご用立て致しますゆえ」

「——不足のものなどなくても、時々文を差し上げてもよろしいですか? お兄さま」

 清々しい笑みを浮かべ、みつきが瑞穂を見つめる。


「……」

 瑞穂は一瞬驚いたような顔をしたが、やがてふにゃりとどこか泣き出しそうな笑顔を浮かべた。

「……もちろんだ。

 そなたよりの文、楽しみに待っておる」

「ありがたき幸せにございます! 嬉しさのあまり毎日書いてしまうかも!」

「これみつき、瑞穂様はお忙しいのだからご迷惑になっては……」

 紫乃が少し困ったように咎めるのを、瑞穂と旭はクスクスと見つめる。

「ふふ、たわむれにございます。

 ねえお母さま、お二人に、この梅林の極上の梅酒を差し上げましょう。いつになく美味に仕上がったものがありましたね!」

 みつきが母へ向けて明るく微笑んだ。



 庵の門の外へ出た瑞穂と旭を、みつきと紫乃が見送りに出る。

 庵のそばの草原へ舞い降りた垓に、みつきは愛おしげに声をかけた。

「立派な遣い龍さんね。どうかここからも、お二人をしっかり守ってくださいませ」

 垓が、少し照れたようにグルルル、と答える。


「素敵な時間を、ありがとうございました。みつきさん、紫乃さん。

 また、ここへ遊びにきます。ね、瑞穂」

 旭が二人へ向け深く頭を下げ、瑞穂を見上げた。


「——そうだな。

 来夏、また二人でここに参ろう。

 その際は、何卒よろしくお願い申す」

 どこかはにかむように旭へ微笑み、瑞穂もまた二人へ深く頭を下げた。


「いつでもお待ち申し上げております」

 みつきと紫乃は、実の妹と母のように温かく微笑んだ。









「旭」

 垓の額で運ばれる心地よい風に吹かれながら、隣に座る瑞穂が小さく呼びかけた。


「何?」

「……今回の旅の日程についてなのだが……

 そなたに不服がなければ、予定を少し早めて城へ戻りたいと思うのだが」


「どうして?」

 瑞穂はどこか言いにくそうに呟く。

「旅に出て、改めて感じるのだが……固い結界を張った天守の外へ出るのは、思った以上に危険を身近に感じるものだと思うてな。

 昨日出会ったのがみつき殿であったからよかったものの、あそこで待ち受けていた者が、もしもそなたの命を狙う悪質な輩などであったとしたら……それを考えると、これ以上に遠くへ足を伸ばすのが、何やら恐ろしうてならぬ」


「……」

「そなたが、齢分に応じてくれるのであれば……ゆっくりと旅を楽しむのは、儀式を終えた後が良いのではないかと思うのだ。

 齢分の儀を済ませれば、そなたの命が容易に尽きることはなくなる。そなたを妬み、そなたを狙う全てのものから、そなたを守ることができる」


「……瑞穂。

 一つ、どうしても、心配なことがあって」

 返事の代わりに、旭は昨夜言えずにいたことを胸の奥から引っ張り出す。


「……心配とは、何だ」

 旭に向けられた瑞穂の真剣な顔を、旭はじっと見据えた。


 さよに恋い焦がれ、その死に苦しみ、自らの遺言に恐ろしい呪縛を込めていった初穂。

 珠の中のさよの面影を追いかけ、現実を愛せないまま湖の底へ沈んだ芳穂。


 ——もしかしたら、人間は、神にわざわいばかりをもたらす存在なのではないか。


 だとしたら。

 災いの元である自分が、瑞穂と齢分をして——そのせいで、瑞穂に何か恐ろしい苦難が降りかかるとしたら。

 瑞穂にも、祖父や父と同様に、神として生きることに苦痛を感じる日々が待っているとしたら。


 重い不安が言葉になる寸前、喉元でぐっと声が踏みとどまった。


 ——自分が今、この不安を口にしたところで、何になる?

 自分が災いの元だからと、瑞穂の城を出ていくのか?

 一度受けると言った齢分を辞退するのか?


 どれも、できない。

 ——そんなこと、したくない。絶対に。


 自分の顔に浮かんでいたであろう不安な陰を、旭は力いっぱい振り払う。

 そして、出かかっていた言葉とは全く違う言葉を口にした。


「……いや、何の取り柄もない人間の男が神様の命分けてもらうって、ちょっと幸せすぎて心配、というか」


「ははは!!」

 旭の答えに、瑞穂は深刻な表情を解いて明るく笑った。


「ならば、今日の夜には城へ着くように帰ろうと思うが、良いか」

「うん、わかった。

 ……あ、でも一つだけ、行ってみたい場所があるんだけど」

「何処だ?」

「芳穂を産んだ、藤の木の精の故郷……『神の山』っていうところなんだろ?

 神の山って、どんなところなのかなって、ずっと思ってたんだ。あまり遠い場所でなければ、見てみたいなと思って」

「そうか。神の山ならば、ここからそう遠くはない。季節の花々が山中に咲き乱れる、大層美しい山だ。

 では、そこへ立ち寄って帰城するとしよう。垓、頼むぞ」

 垓は、了解と応えるかのようにすうっと大きく息を吸い込んだ。




 垓の額に乗って数刻を経た、その日の午後。

 垓は、鬱蒼と深い山の中腹に開けた草原へ静かに降りた。


「ここが、神の山だ。迷うと出られぬ魔の山でもある。

 ここから暫く行くと、山百合の園がある。今はちょうど花の盛りであろう」

 瑞穂がそう言いながら、木々の中を分け入っていく。

 旭も、その背について森の中の小径を踏み締めた。


 山中の空気はひんやりと薄暗く涼しいが、夏の午後の山道をしばらく歩くとやはり汗が流れる。昨日梅林で分けてもらった梅の実を齧りながら、二人は黙々と歩みを進めた。


 「瑞穂、ちょっと休憩したい……」

 旭がそう言いかけた瞬間、不意に目の前が眩しいほどに開けた。


 深い木々に守られるように、無数の山百合が白く咲き乱れ、一斉に風に揺れていた。

 幻でも見るような、空恐ろしいほどの美しさだ。風に乗って満ちるその甘い芳香に、旭は思わず深く息を吸い込んだ。

 案内した瑞穂も、僅かに驚いたように息を呑む。


「——これは、美しいな……」

「……本当に……なんか、ちょっと怖いくらい……」


「あの」

 しばらく言葉もなく百合の園に立ち尽くした二人の背後から、不意に可愛らしい呼び声がかかった。

 驚いて振り向くと、そこには黒い髪をおかっぱに切り揃え、純白の着物を纏った美しい少女が、首を小さく傾げて微笑んでいた。


「……」

 言葉を探しあぐねる二人に、少女は見事に花開いた山百合を一輪差し出した。


「これ、差し上げます」 


「……良いのか?」


「はい。

 その花は、お持ち帰りになられた後も当分は美しく咲き続けます。どうぞ愛でてやってくださいませ」


 美しい微笑を浮かべ、少女はすいとお辞儀をした。


 次の瞬間、強い風に木々の葉が揺れたかと思うと、少女の姿はふっと二人の前から消え去った。


 残った二人を囲む大輪の百合たちが、風に波立つようにざわざわとさざめいた。


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