答え
「……
自分が今どんな表情をしているかも分からぬまま、旭は瑞穂に小さくそう問いかける。
「この儀式を行う者は稀だ。
多くの神々は、長い寿命の間に多くのものと交わり、数多く愉しむことを望む。ひとりの相手のみに添い遂げるなど、考慮の範疇外だ」
瑞穂は重い息をつくと、苦しげに言葉を続けた。
「そして、ほとんどの神が、子を成すべき伴侶として齢分の必要のない精や神を選ぶのには、もう一つ理由がある」
「……」
「神の子を身の内に宿し、無事産み出すまでには、相当な生命の力を要するからだ。
儚き寿命の者が、何の力添えもなく神と結ばれ懐妊することは禁忌だ。常ならぬ力を秘めた胎児を育む母体は凄まじく消耗し、素のままでは出産までを耐え抜くことはできぬ。
齢分は、儚き者が神の子を身籠ることで命を落とさぬよう、神の寿命と力を分けるためのものでもある」
「……相当な、生命の力……」
自らの命を振り絞り、神の子を宿す。出産までの消耗を耐え抜く。
何の力も持たぬ自分に、できるのか。そんな気の遠くなるような仕事が。
気づけば、旭は固く唇を噛んでじっと俯いていた。
その様子を不安げに見つめていた瑞穂の眼差しが、ふっと緩んだ。
「——急にこのような話を聞かされて、混乱せぬわけがない。
済まぬ、旭」
硬直した空気が再び動き出すように、涼やかな濃紺の袂が旭を柔らかに包んだ。
「すぐに答えを出す必要はない。
よく考え、そなたにとって最善の答えを聞かせてほしい」
瑞穂の腕の中に包まれ、旭は小さく頷く。
「——どんな答えであっても、私はそれに従う」
どんな答えであっても、それに従う。
自分が何と答えても、瑞穂はいつものように微笑んで頷いてくれるのだろう。
けれど——
先ほど、紫乃が語った芳穂の姿が、再び瞼に浮かぶ。
月の下で、ひとり泣き崩れるように酒を呷る、青白い男の姿が。
返す言葉を見つけ出せないまま、いつしか旭は瑞穂の背に強く腕を回していた。
開けた障子から、夜の梅林の風が静かに流れ込む。
しかし、その風も一瞬にして湿度の高い花の香りに呑み込まれた。
呼吸を忘れかけ、旭は喉を反らして激しく喘ぐ。
密林の白い花が、目の前に息も詰まるほど咲き乱れる。
強烈に甘いその香りが、柔らかに絡みつく。
何も考えられないほどに、脳の芯まで溶けてゆく。
自分自身が、人から狂った獣へと変わっていく。
食いちぎられるほどに、喉元へ歯を立てられたい。
悲鳴を上げずにいられない仕打ちで、執拗に追い詰められたい。拒絶を力尽くで封じられ、隅々まで暴かれ、身体の奥に溢れる蜜を一滴余さず啜られたい。
自分を愛する美しい雄が、快楽の苦悶に激しく眉を歪め、絶え絶えに吐息を漏らす姿が見たい。
容赦無く自分を揺すり上げる逞しい背に、ギリギリと爪を食い込ませる。
理性など、もう戻らなくていい。花の咲く密林の奥、欲求が動くままに貪り合い、心臓が動く間だけ生きて、狂ったまま終われたならば。
「もっと——欲しい、瑞穂」
汗ばむ首筋を無我夢中で引き寄せ、懇願する。
滴るような熱を含んだ嵐が自分を見下ろし、再び何もかもを呑み込み、溶かしていく。
狂うほどに甘い花の香りの中、唐突に旭の意識がしんと研ぎ澄まされた。
目の前の猛々しい神から、その命を分け与えられる。
これほど凄まじい力に満ちた命を、この身体に注ぎ込まれるなら——
愛おしいひとと、寄り添いたい。一秒でも長く。
そのためなら。
——もしかしたら、自分は、毒にも似たこの香りに
それでもいい。
自分の中で、何かがはっきりとそう呟き——意識は再び嵐の奥深くへと呑み込まれた。
*
鶯の囀りで、目覚めた。
瞼を開けると、隣で瑞穂が半身を起こし、濃紺の羽織を肩にかけて薄明るい障子の外を見ていた。
声をかけようかと思ったが、自分の声でこのひとときが破られることが惜しくなり、そのまま旭も囀りに耳を傾けた。
梅の青葉を静かに揺らす涼やかな風。その風に運ばれ、林の近く、遠く、鶯の囀りが幾重にも重なり響く。
明け方の部屋に満ちる美しい声を聴いていると、まだ夢の中にいるかのようだ。
「——目覚めたか」
じっと囀りに聴き入る旭に気付き、瑞穂が柔らかく微笑んだ。
「……うん。
本当に、すごい。鶯の囀り」
「みつき殿が昨日言っておった通り、なんとも美しい囀りだ。——幸穂よりも、みつきと呼んで欲しいそうでな」
そう言いながら、瑞穂は再び囀りの流れ込む障子へ顔を向けた。
淡い光の中の美しい横顔を、旭はじっと見つめる。
「瑞穂。
齢分の儀式、うけるよ」
瑞穂の眼差しが旭へ戻り、大きく見開かれた。
「……急がずとも良いのだ、旭。
そなたが納得のいくまで、よく考えてから——」
「いや。むしろ、あんまよく考えちゃダメかもなと思ってさ。
きっと、迷えば迷うほど、怖くなって答えられなくなる。
だから、今のが、俺の答えだ。
焦るなとか、ゆっくり考えろとか、もう言うなよな」
「——……」
瑞穂の水の瞳が、さわさわと無数の細波を立てる。
言葉のないまま、その腕に強く引き寄せられた。
まるで何かにしがみつくように、瑞穂は力一杯旭を胸の中に抱きしめる。
激しく波打つその鼓動が、どんな言葉よりも深く強く、旭の胸に響く。
自分もまた相応しい言葉を探し出せず、旭はその背をただ優しく抱き返した。
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