業火

 水の粒を集め道を作りながら、雨神は夜空を疾走する。

 身体の奥から突き上げる抑え難い怒りが、銀の髪と白銀の装束を凄まじいほどに発光させる。

 どれほどの距離を走ったかも、もはや定かではない。


 瑞穂は闇に残る匂いをすっと吸い込む。

 あの女の逃げた道は、目に見えるほどに明らかだ。どろりと爛れた気配は容易には薄まらない。

 ひたすら気配を追い渾身の力で走るうちに、少しずつ匂いが濃くなり始めた。

 前方に、一際濃い闇の塊が動いていく。

 的の中心を見定めるように、瑞穂の瞳孔が強く絞られた。


「——逃さぬ」

 闇の中心へ狙いを定め、真っ直ぐに掌を突き出した。

 凄まじい力の籠った白く光る筋が、鋭い棘を立てながら放たれる。

 バリッと何かに命中する生々しい音と匂いが飛び散り、白い着物の左の袂と黒髪の一部を焼き切られた女の背が闇に浮かび上がる。

 袖の中の腕も深い火傷を負ったはずで、その衝撃で思わず姿を現したのだろう。

 姿を消せぬまま、女は空を転げるように落ちていく。遮るもののない空中では危険と判断したのか、今度は山の木々に紛れ込むように低く飛び続ける。その姿を上から追いつつ、瑞穂は稲妻を矢継ぎ早に白い影へ向けて容赦無く放ち続けた。

 稲妻の落ちた木々が音を立てて裂け、次々に炎を上げ始める。瑞穂が上空を走った跡が、そのまま山の木々を焼く炎の道へと変わった。

 稲妻の一閃が、とうとう白い影を射落とした。音もなくその姿が木々の奥へ沈む様子を確認し、瑞穂は真っ直ぐに女の落下した場所へ突進する。

 猛烈な勢いで飛び続けたその勢いを止められぬまま、女は草深い地面に身体を叩きつけられ、一本の大きな木の根元に激しくその背を打ち付けて倒れ伏した。余計な隙を一瞬も与えず、瑞穂は女の側へと着地する。


「……」

 背から脇腹にかけて無残な火傷を負い、かのこは伏せていた頭をゆらりともたげた。

 瑞穂は、焦げた匂いを上げる白い着物の肩を掴んで乱暴に引き起こす。

 津波のように猛り狂う波が瑞穂の瞳にうねり、片頬を爛れさせたかのこに襲いかかる。


「貴様……よくも」

 奥歯をぎりぎりと噛みしめるように、瑞穂の呟きが低く絞り出された。


「——これで、あなたは生涯私を忘れませぬな」


「……」


「私のこの顔と姿は、あなたの記憶から決して消えはしない。

 それが、私の望みにございます」

 弱く引き上げられたその唇からは、ヒューヒューと苦しげな呼吸音が漏れ始める。

「つまらぬ話はやめよ。

 旭の命を救う方法を、今すぐ教えよ」


「……ふふ」

「申せ!!」

 かのこの肩を掴む瑞穂の指が、ぎりぎりと食い込む。

 その喉がひゅうっと音を上げ、女の声が小さく掠れながら答えた。


「——あのお方を、人の世にお返しになることです」


「…………」


「人の世の空気の中では、私の毒などそう持ちませぬ。程なくあのお方は健やかさを取り戻されるでしょう。

 それ以外に、あの毒を取り除く方法はございませぬ」


 苦しい息をしながらも、かのこは艶やかに唇を歪めた。

「——それよりも、瑞穂様。 

 貴方様は愛おしいものへの想いに狂わされ、もはや後戻りできない程に大きく道を誤られた。そのことに、お気づきになりませぬか。

 周りをよくご覧なさいませ」


 かのこの言葉に、瑞穂はふと我に返ったように顔を上げた。

 天を衝くほどの高さで猛り立つ炎と熱い煙が、自分たちの周囲を囲んでいる。

 見上げた上空には火の粉が舞い上がり、恐ろしいほどに明々と染まっている。

 獰猛な炎に為す術もなく喰らわれていく木々の裂けるような音が響き、森の鳥や動物たちが悲鳴を上げて逃げ惑う。


「ここは、神の山にございますよ」


「…………」


「神ともあろうものが、自分自身の身勝手な欲に我を忘れ、これほどに多くのものを破壊しようとは。容易に許されることではございませぬな。

 ふふ。——貴方様をこの所業へ導いたのも、私のたばかりだったとお気づきですか?

 こうも易々と私の思惑通りになってくださるとは、なんと可愛らしいお方」

 

「——……っ!!」

 瑞穂の瞳から、ぐわりとライトブルーの異様な光が溢れ出た。

 かのこの肩を掴んでいた片手を高く空へ掲げ、瑞穂はその指先に凄まじい勢いで新たな稲妻を集結させる。

「存分になさいませ」

 唇を釣り上げて笑む女の喉元に振り下ろされようとしたその手首が、背後から何者かによって激しく掴まれた。


「…………っ」

 身の毛のよだつ形相で振り向いた瑞穂の後ろには、星の守が立っていた。


「よさぬか、瑞穂」


「…………」


「そなたがとどめを刺さずとも、この者はもうほどなく息絶える。

 この稲妻を振り下ろしてみよ。それこそそなたの罪の重さは計り知れぬものになろう」


 星の守に掴まれた瑞穂の腕から、がくりと力が抜けた。

 指先に作られた白い光の玉は、幾筋もの細い光となって空へと散っていく。

 かのこの肩から瑞穂の手が離れると、その焼け爛れた身体はずるりと地面へ崩れ落ちた。草の上に横たわるや、女の姿は見る間に黒く焦げた百合の花と化し、その花弁は燃え盛る炎と共にはらはらと空へ吸い込まれていった。


 瑞穂の手首を静かに離した星の守は、天へ向けて徐に両手を高く掲げ、いくつかの印を続けて結んだ。

「征」

 髭に覆われた唇から空へ低く放たれた呪言とともに、空気を激しく歪めるような気配が頭上に満ちた。赤い空にぽつりと一粒水滴が輝いたかと思うと、それは凄まじい勢いで育ち、滝のような巨大な水の膜を上空に張り巡らせていく。

 恐ろしいほどに分厚い水の膜を空に作り上げた星の守は、新たな印を結ぶ。

「浄」

 その呪言と同時に、猛烈な量の水が頭上から轟音を立て降りかかり、山を焼く炎を津波のように覆った。

 暴れ狂っていた炎は、みるみるその勢力を失っていく。


 濡れそぼった髪を垂らし、瑞穂は全身の力が抜けたかのように膝をついて項垂れる。

 その傍にしゃがむと、星の守は淡々と呟く。


「瑞穂。

 神は、ただ一つのものを盲愛もうあいしてはならぬ」


「————」

 

「神々が冷酷で傲慢なのは、さもなくばこの星の道を切り拓くことができぬからだ。

 そなたら雨神もまた、人間と関わることがなければ、何の疑問もなく冷ややかな神の顔をしていたであろう。——違うか?

 かつてさよ殿が初穂にそうしたように、旭殿もまた、そなたの首に太い鎖を結びつけた。容易に断ち切れず、じわじわと毒を放つ、忌まわしい鎖をな。

 人間は、厄介な穢れしか持ち込まぬ魔物だ。

 先ほど振り向いたそなたの顔は、もはや神のものではく——鬼そのものであった」


 じっと星の守の言葉を聞いていた瑞穂の肩が、小刻みに震え出す。

 項垂れた背から、掠れた声が切れ切れに答える。


「——神が、一体何だというのだ。

 私は、鬼でいい。

 愛する人を守り、幸せにできるならば、鬼でも魔でも構わぬ」


 星の守はふっと小さなため息を漏らすと、静かに呟く。


「では、そなたの城の者たちは、どうなるのだ」



「…………」


 星の守は瑞穂のすぐ横へ近づくと、震えるその肩に手を置いて言葉を続ける。


「かのこ殿も申しておったであろう。かの姫君の身体に巣食った毒は、神の世では取り除くことができぬと。

 旭殿を、人の世へ戻せ。

 そなたは——身勝手な欲に任せ神の山を炎に包んだ罪を逃れることはできぬ。

 このままでは、そなたから神の地位を剥奪し、雨神の城も取り潰しとするより他はない。神々がこの所業を容易に許すわけがない」


「……取り潰し……」


 呑み込めないものを必死に呑み込むように、瑞穂はその言葉を茫然と繰り返す。


「——星の守様。

 どうかそれだけは、何卒ご容赦を——

 城の者たちが私の汚名と共に城を放り出されることになれば、彼らはその先一体——」


 顔を上げた瑞穂の瞳が、ぐわぐわと激しく波立ちながら星の守を見つめた。

 沼のような濃紫の瞳で瑞穂を見据えた星の守は、微かに口元を引き上げ、徐に口を開いた。


「ならば。

 一つだけ、そなたが神の地位を失わず、城の従者たちをも守ることのできる方法を提示しよう。

 ——わしの伴侶となれ」



「——……」


 肩に置いた手を瑞穂の髪へと伸ばし、星の守はその銀の絹のような手触りを楽しむように言葉を続ける。


「儂の伴侶となれば、他の神々もそなたの処遇にあれこれ口を出すこともできぬ。そなたの地位も城もこれまで通りでいられるよう、私が他の神々からそなたを守ろう。どうだ?

 これまで儂がそなたに何度妻問つまどいを申し入れても、そなたは歯牙にも掛けなかったな。この儂の求婚を受けぬなど、それだけでも愚か極まりないというに、よもや本当に人間を伴侶にするつもりかと内心腹が煮える思いであった。

 されど、こうなっては、条件を呑む以外ないのではないか?

 ——儂とそなたの間に生まれる世継ぎは、これまでにない強大な力を持つ神となろう。

 そして、そなたの産む子はさぞ美しいに違いない」



「…………」


 髪を弄ぶ星の守の指を払うこともせず、瑞穂はただ地に拳を握りしめて俯いたままだった。

 


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