翡翠の首飾り

「それほどに似ておりますか、私と御母君おんははぎみは」


 美しい所作で座敷の中へ膝を進め、襖をぴたりと締めると、女は引き締まった表情を柔らかに綻ばせた。


「……」


 唖然としたままの瑞穂と旭に、女は改めて額を伏せる。


「驚かすようなことになってしまい、申し訳ございませぬ。

 私は、この梅林の精の紫乃しのと申します。——瑞穂様の御母君、薄紅うすべに様の妹にあたるものにございます」


「……母上の、妹……」


「はい。

 樹々の精は、同じ木から子が数知れず生まれます。私も、薄紅様と同じ紅梅の木より生まれました。時の隔たりはあれど、血のつながりのせいか、薄紅様によく似ていると幼少より多くの者から言われて育ちました」


 茶の支度をして座敷へ戻ったみつきが、瑞穂と旭の前に香ばしい焙じ茶の器を置いた。

 紫乃は、愛おしげな眼差しでみつきを見つめると、静かに言葉を繋ぐ。

「そして、このみつきは、私の一人娘にございます」


 茶の盆を脇に置き、みつきは改めて瑞穂と旭に向けて深く額を伏せた。

 すっと凛々しい佇まいで顔を上げると、みつきはおもむろに口を開いた。


「瑞穂様。私には、もう一つ、名前がございます。

 ——須佐 幸穂ゆきほにございます」


「…………須佐……幸穂?

 須佐と、申したか……?」

 瑞穂の目が、いつもと違う色にざわざわと波立つ。


「はい。

 私は、貴方様の義妹にございます、瑞穂様」


「——……!」

 何の迷いもなく放たれたその言葉に、瑞穂は形相を変え気色ばんだ。


「何を申すかと思えば……その方等、よくもそのような世迷言を——!

 この私を愚弄しようと申すか!!」

「待って、瑞穂!」

 不穏に膝を立てる瑞穂の手を思わず取り、旭が引き止める。


「ちゃんと話を聞こう、瑞穂。

 さっき、みつきさんが首にかけてた翡翠の首飾り……あれは、雨神と何か深い関わりがあるからこそ、ここにあるんじゃないのか……?」


 雨神の怒りの気配に臆することなく、紫乃はその凛とした背筋を保ったまま二人をまっすぐに見つめる。

「瑞穂様がお怒りになるのも、致し方ございませぬ。

 ——それでも、このことは貴方様にどうあってもお伝えせねばならぬと、罰をも覚悟の上でまことを申し上げる次第にございます」


「……」

 静かながら揺るがぬ紫乃の言葉に、瑞穂はぐっと口を噤み、深く眉間を寄せる。


「——ね、二人の話を聞こう。

 これは、きっと俺たちが聞かなきゃいけないことだよ、瑞穂」


 旭の穏やかな声に、瑞穂は漸く茵に腰を落ち着け、小さく首肯した。


「ありがたき幸せに御座います」

 みつきと紫乃は、同時に深々と額を伏せた。







「ある満月の夜、この梅林の湖に、ひとりの殿方が落ちて参りました」

 紫乃は、静かに話し出した。


「私が十五の時の、冬の終わりです。自らの枝の蕾が満開になった夜でした。

 なかなか寝付けず、湖のほとりをひとり歩いていた私の頭上に、月の光を遮る影がすうとよぎりました。

 何かと思って空を仰ぐと、遥か上空を横切っていく大きな龍の背から、何者かが崩れ落ちるように湖へ落ちてくるのです——驚いた私は、咄嗟に旋風つむじかぜを起こし、自分の枝に咲く梅の花びらを全て巻き取ると湖一面に敷き詰めました。

 その花びらが助けになったのか、その人の身体はふわりと水面で受け止められました。

 花びらを踏み、湖の中ほどまで走った私は、ぐったりと倒れているその人を助け起こしました。


 ゆっくり瞼を開けたその方は——吸い込まれるほどに黒く艶やかな瞳で、私を見つめました。乱れた長い髪も、瞳と同じ、見惚れるほどに美しい黒髪でした。

 冬だというのに、ほっそりとした身体に白装束一枚を纏い、月光に照らされた頬も手も氷のように冷たく青ざめて——あまりに美しいその姿に、私の心は一瞬で奪われてしまいました。


『——ここは、何処か? そなたは……』

 掠れる声でそう問われ、湖の名と自らの名を名乗りました。

『ああ、そうか……似ておるので、驚いた』

『あの……どなたに似ていると?』

 それには答えず、彼は微かに微笑んで、言いました。

『この梅林の梅酒を、分けていただけぬか。寒うて、凍えてしまいそうだ』


 私はすぐさま、近くの里の家へ飛び、梅酒をひと瓶と小さな猪口を分けてもらいました。

『美味いな——まことに美味い。

 ……済まぬ。許してくれ』

 どなたに謝っておられるのか、月の下で壊れるほどに泣きながら酒を味わうその表情が、あまりに痛々しく——彼の身の上に何が起こったのか、私は尋ねることができませんでした。


 その代わりに、びっくりするような言葉が、私の唇からこぼれました。

『ここで、私と、ずっと一緒にいてくださいませんか』と。

 その方は、僅かに驚いたように目を見張り、やがて自らを嘲笑うように答えました。

『私は、すべてを捨てて逃げて参ったのだ』と。

 自分は、ただ珠の中の人を見つめるのみで、傍にいる誰をも愛せなかった。手の届かぬものを愛し、その面影を追いかけるばかりで、それ以外は何一つ成し得なかった、と」


「…………」


 瑞穂は、硬く押し黙ったまま俯き、その話を聞いている。

 旭も、気づけば膝に強く拳を握っていた。


 紫乃の語る「殿方」とは、間違いなく芳穂よしほのことだ。

 そして、芳穂が口にした「手の届かぬ者」とは……もしかしたら、さよのことなのではないか。


「私は、なりふり構わず答えました。

『貴方が誰を慕うていても構いませぬ。私は貴方の傍にいとうございます。そんな寂しいお顔をされずに……もっと、お酒をお召しください』と。

 あのお方は、柔らかに微笑まれました。

『そのような言葉をかけてくれる者は、そなたが初めてだ』と——『私が誰なのかを知れば、そなたも顔つきを変え、私を呆れて見つめるに違いない』と。

 思わず大声で言いました。『貴方が誰かなど、私にはどうでも良いことにございます』と」


 紫乃の眼差しが、ふっと潤んだ。


「言い終わらぬうちに、彼の白い袂が、私を包みました。

 闇夜と同じ色をした水の膜がふわりと私たちを覆い隠し、その中に淡い花の香が立ち込めて……梅の花びらの上、熱に浮かされるような一夜を彼の方と共に過ごしました。

 みつきは、その夜に授かった子にございます」


 膝の前の茶の器を静かに口に運び、紫乃はふっと息をつくと、言葉を続けた。


「中空の月が低く傾く頃、うとうとと眠りかけた私の傍で、あの方は小さく口にされました。『最初から、この湖の鯉に生まれたならばよかったものを』——と。

 夜明け近く、次に私が目覚めたときには、あの方のお姿はもうどこにもございませんでした。ただ、枕辺に、翡翠の勾玉を繋いだ美しい首飾りがひとつ、残されておりました。

 あのお方が、城をお出になった雨神さま——芳穂様だと知ったのは、それから十日ほど経ってからです。雨神の城からお使いの方がお越しになって……薄紅様の夢枕に芳穂様が立たれ、この湖の大鯉となった旨を告げられた、と。

 心臓が壊れるかと思うほど、驚きました。——あの夜のことは、決して誰にも話すまいと、心に決めました」


「お母様は、私に『みつき』と、もうひとつ、こっそり『幸穂』という名をくださいました。『あなたの本当の名は、須佐 幸穂よ』と。——けれど、その名は決して誰にも明かさぬようにと、ずっと言われて育ちました。ゆえに、今はもう『みつき』が私の名です」

 みつきは、そう言って屈託のない笑顔を浮かべた。



「——済まぬ。紫乃殿、みつき——いや、幸穂殿。

 そのような大切なことを、私はこれまで何一つ知らず——」


 微かに声を震わせながら、瑞穂は二人へ向けて深々と額を伏せた。


「私たちは、貴方様へ遺恨の念をお伝えしたいのではございません」

 紫乃は、凛とした声で答える。


「芳穂様は、ただ身勝手にお城を捨てられたのではないと——あのお方は、誰よりも生きることを苦しんでおられたと……そのことを、お伝えしたかったのでございます」


 瑞穂の唇から、ふっと嘲笑するような息が漏れた。


「——珠の中の面影なぞを恋い慕い、現実を愛することができず。

 全て投げ捨て、逃げ出し、そうしながらもこのような鄙に母子まで残し、何ひとつ苦しみのない水底へひとり沈むとは。

 ……ほんに、我が父は」


 瑞穂の膝の上で固く握りしめられた拳を、旭の両手がしっかりと包む。

 目からぼろぼろと零れ始めたものを隠しもせず、瑞穂は小さな子供のようにくしゃくしゃに顔を歪めた。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る