梅林の庵

「須佐 瑞穂様。そして、雨宮 旭様でいらっしゃいますね」

 女に迷いなく名を呼ばれ、瑞穂と旭は思わず立ち上がる。


「……そうだが。そなたは……」

 女は、美しい身のこなしで草の上にすっと正座し、膝の前に両手の指をぴたりと合わせると、二人へ向けて深々と額を伏せた。

「私は、みつきと申します。この梅林の精にございます。

 ここへ雨神様がおいでになっていると、先ほど仲間より聞き及びまして……ならばこの湖にもいらっしゃるやもしれぬと、お待ち致しておりました」

 伏せた額を上げ、瑞穂と旭の警戒した様子に臆することもなく女は美しく微笑む。

 瑞穂はその微笑へ険しい眼差しを向けた。


「……みつき殿、と申されたか。

 ここで待っておった、ということは……そなたは、私たちに何か用向きがおありだということか?

 そして、この岸辺での私たちの様子も全て見ておったと?」

「いいえ。そのような御無礼はゆめゆめ致しませぬ。湖へ向き合うお二人の張り詰めた気配が残らず消え去るまで、あちらの高い梢で風に吹かれておりました」

 彼女の指差す先には、確かに一際高い梅の木が広々と枝を伸ばしている。その枝を仰ぐ横顔も、苦し紛れに作り話をしているようには思えない。

 瑞穂はようやく少し警戒を解き、みつきに向けて礼儀正しく頭を下げた。

「疑うような物言い、申し訳なかった。……だが、なぜそなたは、旭の名までもご存知なのか?」

 みつきは、先ほどとはまた別の柔らかな微笑を口元に浮かべると、再び静かに額を伏せた。

「——もし、瑞穂様と旭様にお許しがいただけますならば、これより私の住むいおりへご案内しとうございます。家の者が既に、お二人の馳走と酒を整えている最中にございます。

 我が庵には、特別な来客の折にのみ開ける離れがございます。もしお気に召していただけましたならば、今夜は離れにてお休みいただくご用意もございます。

 ここの鶯たちは、秋口まで盛んに鳴き交わしますゆえ、美しい囀りが梅林に満ちる夏の夜明けは格別にございます。

 ——粗末な庵ですが、何卒お立ち寄りくださいませ」


 自分の隣で、瑞穂の瞳の奥が再び波立つ気配を、旭はありありと感じ取る。

 瑞穂はみつきに向け、むしろ冷ややかな口許を開いた。

「……お気持ちは大変嬉しいが、ご好意は受けかねる。

 残念ながら、私達は懇意の者以外からのもてなしは全て遠慮しておってな」

 そう返しながら、瑞穂は旭に刹那眼差しを向けた。

 その瞬間、瑞穂が何を思っているのかが旭にはっきりと伝わった。

 さよの一件の残酷な結末は、容易には崩れない警戒の盾を瑞穂に構えさえているのだろう。結界で包んだ城を出た、外の世界。いつ、どこで、愛する者が妬みを受け、命を狙われるかわからない。穏やかな表情の裏で、彼は凄まじいほどの警戒心を片時も離さずにいるのかもしれない。


「——左様にございますか」

 瑞穂の言葉を静かに受け止めたみつきは、すっと立ち上がると、襟の奥へ不意に手を入れた。

 その所作に、瑞穂がすかさず身構えて旭を背後に庇う。

 みつきは、そんな瑞穂を真っ直ぐに見つめながら、その細い指で懐のものをするりと引き出した。

 淡い黄色の着物の胸に、小さな翡翠の勾玉まがたまを繋いだ美しい首飾りがはらりと落ちかかった。


「……」

 その瞬間、自分を庇う瑞穂の肩が大きく揺れた。

 みつきの首飾りに、旭もはっと目を奪われる。


 あれは——さよを徐念する際に、瑞穂が手にしていた翡翠の呪具じゅぐと、よく似ている。


「これをご覧になれば、少しは私を信用していただけますでしょうか?」

 みつきは清々しい瞳で、瑞穂へさらりと微笑んだ。


 ぴんと張り詰めるような気配でしばし何事かを思案した瑞穂は、静かに旭を振り向いた。

「——……旭。

 後は、そなたの意向次第だ。そなたの気に染まぬならば、このまま引き返そう」

 そう告げながら、注意深く旭の表情を窺う。

「ううん、引き返さなくていいよ。

 この人のことは、信じられるって、俺も思う」

 旭の返事に、瑞穂はどことなく安堵したように微笑むと、再びみつきへ向き直った。


「——良かろう。

 では、案内を頼む」






 

 陽が傾きかけた梅林の奥深くに、その庵はあった。

 しっとりとした濃茶色の軒の低い茅葺かやぶき屋根と、美しい白に塗られた壁。丸くくり抜いた窓には、細い竹で細やかに組まれた格子が嵌っている。夕暮れの林の中、窓の奥が柔らかな橙色に灯っている。こじんまりとした佇まいだが、住まう人の趣味がそこはかとなく垣間見える、趣の深い庵だ。

 古木を組んだ門柱をくぐると、その軒先の縁側で、大きな男がいっぱいに収穫した梅を選別していた。

猪介いすけ、ご苦労様」

「みつき様、お帰りなさいませ」

 作業の手を止め、男はみつきへ礼儀正しく頭を下げる。

 顔を上げ、客人を認めると、瑞穂と旭へ向けて改めて深々と額を伏せた。

 朴訥ぼくとつとしながらも誠実そうな風貌の男へ、二人も丁寧に礼を返した。

「こちらにございます」

 家の裏手へ回り込むと、よく手入れのされた中庭に、趣味の良い飛び石を並べた小径が奥へと続いている。

 飛び石を踏み、母家の大きな沓脱石くつぬぎいしまで行き着くと、そこでみつきは草履を脱ぐ。

「さ、おあがりくださいませ」

 彼女に誘われ、二人も履き物を脱ぎ、黒く艶やかな廊下へ足を置いた。ひやりと心地よく滑らかな感触が、足裏から伝わる。

 みつきは廊下についと膝をつくと、細やかな仕事で作られた木戸をするりと開けた。


 目の前にひらけた座敷の佇まいに、瑞穂と旭は思わず目を見張った。

 このように鄙びた場所にある庵とは思えない、艶やかな大黒柱や鴨居かもい。奥ゆかしい調度品。隅々まで手入れの行き届いた畳や、芳しい香炉こうろの置かれたとこ。座敷全体が、心地よく落ち着いた静寂に包まれている。

 微かに梅の香がたなびくその空気を、二人は深く吸い込んだ。


「粗末な家でお恥ずかしい限りにございます」

 みつきは二人の前に静かにしとねを揃える。

「——大層心地よい」

 本心を漏らしたような瑞穂の呟きに、みつきは嬉しそうに微笑んだ。

「お二人に、ぜひ会うていただきたい者がおります。ここへお呼びしてもよろしゅうございますか」

 頷いた瑞穂に、みつきは深く頷き返す。そして、座敷の奥へよく通る美しい声を響かせた。


「瑞穂様と旭様がお出でになりました。おかあさま」



 彼女の声に応えるように、座敷を仕切る襖がすっと開いた。

 そこには、ひとりの小柄な女が、ほっそりとした膝の前に両手の指を揃え、深々と額を伏せていた。


「ようこそ、おいでくださいました。瑞穂様、旭様」


 浅紫あさむらさき色の着物を纏い、すいと顔を上げた女は、年の頃は六十代というような雰囲気だろうか。白髪が混じる長い髪をすっきりと後ろで一つに束ね、二人を真っ直ぐ見つめるその眼差しは、年齢を感じさせない凛とした美しさを放つ。


 女の顔を見た瞬間、瑞穂の表情がぐっと強く硬直した。


「——……母、上……」


 彼の唇からこぼれたその言葉に、旭は思わず目を見開いた。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る