父の湖

 垓が初穂の星から戻ってきて、約一週間後。よく晴れた8月上旬の早朝。

 垓は瑞々しい鱗を輝かせ、生き生きとした動きで雨神の城の欄干へ身を寄せた。


「鴉。三日間、留守をくれぐれも頼む」

 欄干へ出る瑞穂と旭を、鴉が見送りながら穏やかに微笑んだ。

「お任せくださいませ、旦那様。お出かけの間は、どうか城のこともご公務のこともお忘れになり、旭様と共に存分にお寛ぎください。それこそが鴉の願いにございます」

「鴉が喜ぶお土産見つけてくるから! 何がいい?」

 旭の問いかけに、鴉は目をぱちくりさせる。

「お土産……でございますか?」

「うん。人間の世界では、旅行行ったりすると大抵親しい人に買って帰るんだ。旅先の名物とか、美味しい物とかさ」

「それは大変嬉しいお言葉にございますが……旭様はこの城の主も同然のお方。従者に対しそのようなお気遣いは全く不要にございます」

 鴉は礼儀正しく一礼して辞退するが、旭は申し出を引っ込めようとしない。

「鴉には本当に朝から晩までお世話になりっぱなしだし、そういうお礼も含めて、何かさせてよ。本当は城の従者全員に用意できたらいいけど、ちょっと人数的に難しいしな」

 本気で思案している旭の様子に、鴉は少し躊躇ってからどこかはにかむように答えた。

「——ありがとうございます。

 ならば、お出かけ先の里の美味な酒をお願いいたします」

「うん、わかった。……瑞穂、美味しいお酒ってどこかで手に入る?」

「ははは、そなたは全く」

 そんなやりとりをする瑞穂と旭の様子を、鴉は心から嬉しそうに見つめた。

「——いってらっしゃいませ。どうぞ、くれぐれもお気をつけて」


 瑞穂と旭を額に乗せた美しい龍は、ふわりと軽やかに夏の朝焼けへと舞い上がった。







 垓の額から、旭はとりどりに移り行く眼下の美しい景色に見入った。

 夏山の木々の深い青葉。畑の明るい緑。水田にのびのびと育つ稲が、風の流れに従い一斉に葉を靡かせる。広大な田に張られた水が、夏の陽射しをきらきらと細やかに反射する。

 田畑の周辺には大小の民家の茅葺屋根が其処此処に点在し、人々の穏やかな暮らしがありありと感じられる。

 今回の旅は急ぎの行程ではなく、垓は空の低い場所を緩やかに飛んでくれる。体表に薄い結界を張っているのか、陽射しも風も肌に柔らかに注ぐ。蒼鷺あおさぎが手作りしてくれたという夏蜜柑の干菓子の小さな包みを袂から取り出し、一切れ口に含む。爽やかな酸味と甘みが口いっぱいに溢れた。

 これほどに心地良い旅は、旭にとって当然初めてだ。


 瑞穂は、旭には旅の目的地をまだ明かしてくれていない。何度訊いても、「着いてから話そう」と微笑むばかりだ。ただ、「そなたに喜んでもらえることは間違いない」と答える彼の表情は、とても穏やかで満ち足りている。瑞穂のその言葉を信じるしかない。


 昼少し過ぎ、垓が緩やかに下降を始めた。

「間もなくだ」

 真っ直ぐ前を見ていた瑞穂が、旭に視線を向けて呟く。

 こういう眩しい陽射しの下で、瑞穂の眼差しと声を受け止める度に、心臓がうるさく騒ぐ。

 この人が、広い世界で自分だけを見ていてくれることに、新たな幸せが込み上げる。

 ——そういえば、最近、瑞穂を「神」だと思うことが少なくなった。

 神か人間かの違いなど超えた、ただひとりの存在。なんというか、そんなふうに感じている。


「疲れてはおらぬか」

「ん、全然」

 瑞穂の小さな問いかけに、旭も小さく答えた。



 垓は、とある山中に開けた草原くさはらにふわりと降りた。

 瑞穂の手を借りて、垓の鼻先から柔らかな草の上に足を下ろす。草原を囲むように茂る木々へ歩み寄ると、その枝には丸く太った橙色の実がたわわに実っていた。

「梅の実だ」

「え……梅って、こんな色になるの?」

「よく熟すと、梅の実は毒が抜け、硬い緑色からこのように橙色へと変わっていく。熟した果肉は柔らかく、爽やかな甘さで美味だ。

 ——幾つか、そなたの枝の実をいただいても良いか?」

 瑞穂は、すいと顔を上げると、頭上の梢の奥へと声をかけた。


「……あら、お気付きでいらっしゃったのですか?」

 梢が風にさわさわと揺れたと思うと、次の瞬間、薄紅色をした涼しげな着物を纏った少女が大きな枝の股に座って、悪戯っぽい笑みで二人を見下ろしていた。頭の両脇で、お団子にしたように結った髪がちょこんと揺れた。


「……」

 驚きで言葉を失っている旭をよそに、二人は話を続ける。 

「せっかく熟したところを申し訳ないが、連れの者に生の梅の実を味わわせてやりとうてな」

「……あの……

 もしかしたら、貴方様は、雨の神様……須佐 瑞穂様でいらっしゃいますか」

「私をご存知か」

「ええ……雨神さまは、長い銀の髪と雨の色の瞳をした、輝くばかりにお美しい方だと聞いておりました……それに、この甘い水の匂いも。全て、伝え聞いていた通りにございます」

 愛らしい少女は瑞穂を見つめ、ぽっと頬を染めた。

「あ、わたしはこれにて失礼いたします! 枝の実は、お好きなだけお持ちくださいませ。この林の皆にも、瑞穂様がおいでになったと伝えてこなきゃ!」

 パッと立ち上がってぴょこんと愛らしく一礼すると、少女は華奢な爪先でその枝を軽やかに蹴り、すいと梢の間に消えた。


「瑞穂、今のは……」

「梅の木の精だ。この梅林の一本一本に、精たちが宿っておる」

「そっか……」

「さ、実を食してみよ。皮は薄いので指で容易に剥ける」

 瑞穂に手渡されたふくよかな実の薄い皮を剥き、中の身を齧ってみる。

「わ……柔らかくて瑞々しくて、甘酸っぱい……めちゃくちゃ美味しい……!」

「ならば良かった」

 嬉しそうに微笑む瑞穂を、旭はじっと見つめた。


「……瑞穂。

 もしかして、この梅林って……」

 瑞穂は静かに頷いた。

「そうだ。

 ここは、私の母の故郷だ。

 そして、私の父——今は大鯉となった芳穂の住む場所でもある。

 この林を抜けると、湖がある。小さいが美しい湖だ」


「え……お父さんの……?」

 少し表情の固くなった旭に、瑞穂は優しく微笑んだ。

「怖がらずとも良い。湖の主は、もう水面に姿を現すことはない。……ただ、湖の底へ、私たちの声を届けることはできるはずだと思うてな。

 ——私の父に、会うてやってくれるか。旭」


 黙って頷いた旭に小さく頷き返すと、瑞穂は林の奥へ歩を進める。旭も、風の吹き抜ける木々の中へと踏み出した。



 しばらく梅林の中を歩き続けると、やがて目の前に明るく煌めく水面が見え始めた。

 梅の木がまばらになり、突き抜ける青空が頭上にひらけた。

 明るい草原くさはらを踏んで、二人は湖の岸に立った。

 瑞穂の言った通り、こじんまりとした円形の静かな湖だ。穏やかな風が、細かなさざ波を水面に輝かせる。


「旭」

 岸近くにひざまずいた瑞穂が、少し後ろに立っていた旭を静かに呼ぶ。


 瑞穂の父がその水底深くに眠る湖。水面を覗き込むのが少し怖い。

 けれど——この旅の一番の目的は、もしかしたらこれなのかもしれない。

 旭はそんなことを思いながら、瑞穂に倣ってその横に跪き、水面に向き合った。


「父上。誠にご無沙汰いたしました。

 ——今日は、大切なことを父上にお知らせしたく、参りました」


 瑞穂の表情が、ぐっと強く引き締まる。

 そして、隣の旭の手をそっと取ると、包むような眼差しで旭を見つめ、父へ向けて言葉を繋いだ。 


「私は、ここからの生を共に歩みたいと願う相手に、漸く巡り会うことができました」


 静かながら揺るがぬ瑞穂の声が、水に吸い込まれる。

 その言葉が、旭の胸の奥深くにも染み入ってくる。


「父上は、かつて私に申されましたね。心から愛する者に出会えたならば、決してその手を離してはならぬ、と。

 何も告げず城を去った貴方が、どのような思いでこの言葉を口にしたのか——思い出すたびに、貴方が恨めしく、胸が抉られるように苦しゅうございました」


 言葉を紡ぐ瑞穂の声が、少しずつ掠れ、震える。


「——されど、貴方の言葉を、今の私は再び胸で繰り返しています。毎日、毎晩。

 貴方の教え通り、私はこの愛おしい者の手を決して離しませぬ。何があっても」

 瑞穂は握っていた旭の手を両手で包み、祈るように自らの胸へ強く押し当てた。


 大きく波打つその心音を手の甲にありありと感じながら、旭は微かに震える唇を噛み締めた。

 そして、息を深く一つ吸い、水面へと呼びかけた。


「父上様。は、初めまして。

 雨宮旭と申します。人間の世界から来た人間の男です……って、な、なんかおかしい言い方ですみません」

 一瞬あわあわとした旭に、瑞穂がクスリと笑う。

 少し苦笑いを浮かべながらも、旭は続けた。

「あの、特に取り柄も何もないやつですが……これからずっと、瑞穂と一緒に歩きたいと、そう思っています。一緒に、たくさんの物を見て、たくさん笑い合えたらいいな、と……

 心から、そう願っています。

 えっと、よ、よろしくお願いいたします」


 二人一緒に、水面へ向かって深く礼を捧げる。


 静かな風が水面を撫で、小さな湖を覆うように細やかなさざ波が煌めいた。


 眩しい輝きを見つめながら、瑞穂がぽつりと呟く。

「……ここへ来たいと思ったことなど、これまでただの一度もなかった」


「……」

「なのに、不思議だな。

 今は、こうして私に生を与えてくれた父に、感謝を伝えたくてならないのだ」



 しばらく跪いたまま水面を見つめていた二人に、不意に背後から声がかかった。


「——あの」


「……!」

 我に返ったように振り向いた彼らの前に、淡い黄色の着物を纏った美しい女が長い髪を靡かせて立っていた。



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