波
その日の昼餉も、結局旭は自分で膳を運ぶ申し出を料理長から固く断られ、引きも切らず運ばれる華やかな茶菓や美味なる料理を瑞穂とゆっくりと味わいながら祝賀の日が暮れた。
卯の刻(午後6時)。夕餉の膳を運ぶことを最早諦めた旭は、瑞穂の居間で女房達が恭しく並べる美しい膳を居心地悪く迎えた。やっぱりこんなふうに
夜の部の祝膳は、香り高い茸のつゆや新鮮な白身魚の刺身、旨味に満ちた獣肉の焼き物、ふくよかな味わいの炊き込み飯など、恐れを成すレベルに贅を尽くした献立だ。しかも、それらは豊かな旨みを持ちながらも重い不快感を与えることなく、胃へ心地よく収まってしまう。
「こんな贅沢な一日、経験したことがない……」
「はは、私もだ」
夕餉の後に酒を運ばせた瑞穂は、黒い漆塗りの美しい杯を傾けて柔らかに微笑んだ。
「窮地に陥った時に、初めて実感できることがあるのだな。
これほどに温かく誠実な家臣達を持ったことを、私も改めて幸せに思っておる。
そして、彼らの心尽くしは、決して私だけへ向けたものではない。むしろ、そなたへ向けたものではないかとも思うのだ。
そなたが周囲へ注ぐ明るさや温もりには、誰もが魅せられてしまう」
瑞穂の眼差しを受け止めきれず、旭はドギマギと俯く。
「え……い、いや、なんか大袈裟だって。
そんなふうに言われるほど大層なことやってないし、俺はただ……」
瑞穂を失いたくなかった。
自分の心にあったのは、ただそれだけだ。
などという一言は絶対に口から出てこない。
「……ん、続きはどうした、旭?」
思わず口ごもる旭の顔を瑞穂に覗き込まれ、つい変な逆ギレモードが発動する。
「っ、瑞穂がぶっ飛んだ無茶してマジで困ったやつ!!と思っただけだから!」
その言葉に、瑞穂は本気で大笑いする。
「ははは!! マジで困ったやつか。まさにその通りだ」
「笑い事じゃねーからな!!」
「——このように愚かであるにもかかわらず、こうしてそなたは手を差し伸べてくれるのだな」
瑞穂の瞳の色と、彼の醸す水の匂いが、今日はいつもより濃い気がする。
旭は密かに苦しげな吐息を漏らした。
「そうだ」
ふと、瑞穂は手にしていた杯を膳へ置くと、盆に揃えてあったもう一つの杯へ手を伸ばし、白い大徳利を傾けて杯を満たした。
「そなたも、この酒を一口味わってみよ。料理長が神の山まで出向いて手に入れた、極上の酒だ。
さよもそなたの中から去ったのだし、少しくらい酒を飲んでももはや不都合はないのではないか?」
「……そっか。
もう、怖がらなくても大丈夫なんだよな。
なら、少しだけ」
瑞穂から受け取った杯を小さく傾け、その一口を恐る恐る味わう。
と、その瞬間、まるで花の蕾が口の中で開花するかのようなえも言われぬ香りと味わいがいっぱいに広がった。
「今盛りの撫子の花を用いた酒だ。良い香りであろう?」
「……ん、たまらなく華やかな香りと、滑らかな甘さで……んん、美味しすぎる……」
「口に合って良かった」
嬉しそうに瑞穂は微笑む。
酒を口にしても、あの鈴を振るような澄んだ囁きはもう聞こえない。
ふと、旭は自分の袖をまくり、昨夜の傷痕をもう一度見た。よく効く軟膏のおかげで、今はもう痕も痛みもほとんど消え去っている。
自分の中から去ったさよ。未だあれほどに深い情愛を抱えた、強い怨念。
彼女は、どんな思いでこの身体から出て行ったのか。
「瑞穂。
さよは……俺の身体から抜け出て、どうなったんだ?」
旭の問いかけに、瑞穂はすっと表情を改めた。
「——さよは、初穂のもとへ旅立った。
愛らしい海月に乗り移ってな」
「……海月?」
「初穂は、今は別の星で海を司っておる。新しい命を創るためにな。
そして初穂もまた、新たな星でさよを待っておった。除念の最中に、祭儀の間に初穂からの達しがあったのだ。
さよは、心から喜んでな。不老不死の海月の身体を与え、水の器へ彼女を入れて旅立たせた。
今、その器を、垓が初穂の星へと運んでおる。しばらく日数はかかるが、垓は間違いなくさよと初穂を引き合わせてくれるであろう」
「……そうだったんだ……良かった。
今朝起きてみたら、身体のあちこちに傷があって、瑞穂が手当てしてくれたんだって気づいて。俺が意識失ってから何か厄介なことになったのかなって、心配だったんだけど……」
「初穂がもうこの星にはいないことを伝えると、さよは怒り狂い、益々強い怨霊と化してな……凄まじい力で私に襲い掛かり、一時はそなたの身体を奪いかけた。
……そなたが、こうして戻ってきてくれなければ、私は——」
瑞穂は、そこで言葉を詰まらせた。
「……」
それほどに、激しい応酬があったのだ。瑞穂とさよの間で。
瑞穂は、怨霊との凄まじい戦いの末に、この身体を取り戻してくれたのだ。
堪らぬ思いに、旭は手の中の花の酒をぐいと呷った。
「……ありがとう、瑞穂」
「そなたが怨霊に奪われるならば、私も怨霊となろう」
雨神は、ぽつりと答えた。
花の命を集めた酒が、ふわりと旭を包む。
「——瑞穂」
自らを堰き止めることができぬまま旭は立ち上がり、瑞穂のすぐ横へ座った。
目の前の雨神を、真っ直ぐに見つめる。
呆気にとられたように旭を見つめ返す瑞穂の手を取り、その掌におずおずと自分の頬を擦り寄せた。
「……旭」
「——こ、こういうのは、なんか初めてで、どうしたらいいのか全然わかんない。
でも——
瑞穂に、触れて欲しい。
俺の全部に、触れて欲しい。心にも、身体にも。
俺を、全部渡すから。瑞穂がしたいようにして欲しい」
「——怖くはないのか」
「……怖い。
けど、この気持ちからは、逃げられない……逃げたくない。
だから」
言い終える前に、清らかな水の匂いが旭を包む。
顎を上向けられ、柔らかに唇が重なった。
恋い慕う相手から強く求められる、たまらなく熱い感覚。
指が無意識に瑞穂の袂を強く握り締める。
やがて重ねるだけでは足りなくなった瑞穂が、苦し気に耳元で囁く。
「——唇を、開けてくれぬか。旭」
余裕を失った掠れ声が、耳の奥深くを震わす。
耐え難く甘いその響きに、自分の唇は言われるままにゆるゆると緩む。
もうこれ以上待つことができないかのように、彼の潤った熱が割り入った。
自分の舌が、それを無我夢中で受け入れる。
初めて味わう強烈に甘い渦に巻き取られ、旭の脳の芯が溶けていく。
熱い。甘い。息ができない。自分を維持できない。
「……っ、ん……」
そのまま、彼の腕がゆっくりと背に回り、静かに畳へ横たえられたことに気づく。
「——嫌ならば、嫌と声を上げよ」
荒い息の下で、瑞穂がそう訴える。
そう言いながらも、銀の髪を乱して旭を見下ろす嵐のようなその瞳は、もはや腕の中のものを逃す気など微塵もない。
そして、その瞳を見上げる旭も、瑞穂の訴えをもはや聞いてはいない。
普段の淡い滑らかさを打ち捨てた熱く潤う唇が、我を忘れたように旭の首筋を伝い降りる。襟を荒々しく開かれ、剥き出しになった鎖骨の肌へ灼けるような甘い痛みが刻まれた。
「——……あ」
身体の奥から突き上がる熱い波に、旭の唇から抑えようもない声が零れた。
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