夏の庭
旭は、瑞穂の居間で主と向き合い、黙々と朝食を取っていた。
半端なく居心地の悪い何かが、二人の間にモワモワと漂っている。
つい今しがた、瑞穂への変わらない感情をはっきりと自覚した。
その途端、抑えがたい喜びが溢れ出した。
勢いに任せて自室を駆け出した旭だったが、息を切らして瑞穂の居間の襖に指をかけると同時に、はっと我に返った。
待て、俺。
いくらなんでも起き抜けの寝巻きのまま瑞穂の部屋に突入していくってのは、流石にちょっとヤバいんじゃないか……?
それに、ここへ駆け込んだとして、そこからどうする?
抱きついて「愛してる!!!」とか言うつもりか? いやそんな恥ずかしいのは死んでも無理だ。
勢いというのは恐ろしい。まずは身なりを整えて、自分の朝餉を厨房へ取りに行き、しっかり段取りを整えてからにすべきじゃないか。
旭は寝巻きでうろつく自身のこっぱずかしさに気づき、慌てて自室に引き返したのだった。
顔を洗い、身なりを整える。夏らしい涼しげな薄水色の羽織と、深藍の袴を選び、手早く身に着ける。髪に櫛をきちんと通し、後頭部の半ば程の位置に若草色の
「おはようございます。今日も膳の支度をありがとうございます」
いつものように厨房へ入ると、忙しげに立ち働いていた従者たちが、一斉に旭の方へ視線を向けた。
「……」
驚きで一瞬固まった旭へ向け、彼らは深々と頭を下げた。
「旭様。この度は、旦那様のご快癒、誠におめでとうございます!」
「旦那様への献身的な御看病、心より御礼申し上げます」
口々に深い感謝の言葉を伝えられ、旭はあわあわと顔の前で両手を振った。
「いや、当たり前のことしただけだから。そんな改まったりしなくていいし!」
「旭様の温かく気丈なご様子に、我々も日々励まされ、救われる思いでございました。どれほど感謝を申し上げても足りません。
本日は、旦那様と旭様へ、特別な膳をご用意いたしました。どうぞお二人でごゆっくりお召し上がりくださいませ」
料理長が旭の前へと歩み寄り、深々と頭を下げた。作務衣姿の凛々しい熟年の男だ。
その礼儀正しい佇まいに、旭もドギマギと挨拶を返す以外にない。
「あ、はい、どうもありがとうございます……」
「この
ご準備が整いましたら、女房がお声をかけさせていただきます。それまで、どうぞお部屋でゆるりとお待ちください」
「あ、俺も何か手伝える事あれば……」
「いいえ、お声をかけるまではどうぞお部屋で」
「……はい……」
そんなこんなで、まるで一大行事の祝いの宴でも開かれるかのように支度された美しい膳を、瑞穂と向き合って食べているところなのである。
食事は、まさに一皿一皿が筆舌に尽くしがたい旨さだ。滋味が全身に染み渡る。我を忘れるほどの苦難から解放されて初めて、心身ともに相当な疲労を蓄積していた事に気づく。
深く心身を癒してくれるその味わいを噛みしめつつも、旭の胸はなんともざわざわと落ち着かない。
しかも、今朝はなぜか瑞穂も重く視線を伏せ、黙々と箸を進めるばかりだ。
舞い上がるほどの思いがはち切れそうなのに、なんでこうなる。
意を決して、旭は大きく息を吸い込んだ。
「……瑞穂」
「ん?」
ふと顔を上げた瑞穂と視線がぶつかり合った途端、旭の心拍が突然猛烈に走り出した。
昨夜の混乱の中で瑞穂から告げられた幾つもの言葉が、脳にはっきりと蘇ったからだ。
『私が愛しているのは、さよではない。
そなただ。旭』
『そなたが、旭のままでいてくれるならば——私の全てを捧げて、そなたを愛そう。私の命が続く限り。
それでは駄目か、旭』
呼吸が止まりそうだ。
この分量の想いを、どうやって冷静に受け止めろっていうんだ?
頭部に全身の血が集結し、頬が熱を持つのをどうすることもできない。
「……」
「どうした、旭?
頬が大層赤いぞ。もしや、体調が優れぬところを無理しておるのではないか?」
旭の表情を窺う瑞穂の眼差しが、不安気に揺れる。
ひいい、それ以上まともに見つめないでくれ! 本当に心臓が止まる!!
「いっいや、そうじゃなくって……
あっあの、瑞穂が前に案内してくれた秘密の庭に、また連れてってほしいなと思って……ほら、梅雨も明けたし、きっとすごく綺麗なんじゃないかなって……」
ドギマギと不自然になりそうな挙動を必死に操り、旭はそう要望する。
瑞穂はふっと柔らかに微笑んだ。
「——ああ、私の庭か。
それは良いな。では、朝餉が済んだら早速散歩に出かけるとしよう。私も少し体が鈍ったようなのでな。あの庭の爽やかな空気はこの上ない良薬だ」
表情が解れた瑞穂の様子に、旭のおかしな緊張も少しだけ和らぐ。
庭へ着いたら——瑞穂に、何と話そう。
せっかくの祝膳だが、その一口一口を味わい尽くす余裕は旭には全くなかった。
*
以前の時同様、瑞穂が架けた美しい水の橋を渡り、二人は秘密の庭へ降り立った。
木々の若葉がさわさわと揺れ、心地よい風が二人の頬を撫でる。
周囲を見渡せば、夏の美しい花々がそこここで咲き誇っている。背の高い茎に大輪の白い花弁を広げて群生する
別世界へ迷い込んだかのような風景に、旭は言葉もなく佇む。
「夏の庭も、美しいであろう」
「……うん、本当に……」
「そなたが、またここへ来たいと言ってくれて、嬉しい」
瑞穂が、空を仰いでそう呟いた。
銀の長い髪が、風に靡いて煌めく。
旭は、その横顔に眼差しを移した。
「……瑞穂」
「ん?」
旭へ顔を向けた瑞穂を真っ直ぐ見つめ、旭は言葉を続けた。
「さよが、自分の中からいなくなって——わかったことがある。
さよは、やっぱり俺に目隠しをしていたみたいだ」
「……」
「さよの目隠しがなくなって——昨日までより、もっとはっきり見えるんだ。自分自身の気持ちが。
これからも、俺はこの庭を歩きたい。これから巡って来る季節を、ずっと。
瑞穂と一緒に。
この神の世界を、もっとたくさん見せてほしい。
瑞穂が美しいと思うものを、もっと一緒に見たい。
瑞穂と一緒に味わえることは、全部一緒に味わいたい。
——今の俺は、そう思ってる」
「…………
その言葉は、本当か」
微かに震えるような瑞穂の声に、旭は頷く。
「私のために、無理をしているのではないか」
「いくらなんでも、無理してこんな言葉は言わないよ」
瑞穂の瞳が、一層強い力で旭の瞳を捉えた。
逸らしそうになるのを堪え、旭は瑞穂の深い水の色を見つめ返す。
「——そなたの瞳の奥に蠢く影は、もう何一つ見えない。
そなたは、本当に、旭なのだな」
「うん。
俺の心には、もう何も混じってない」
瑞穂の顔が、一瞬、泣き出しそうに歪んだ。
「さよの去った後のそなたが、どんな眼差しで私を見るのか——
それが、怖くて怖くてならなかった」
「……」
「……そなたに、触れても良いか」
躊躇いを振り切って、旭は深く頷いた。
瑞穂のしなやかな腕が、どこか怖々と旭へ伸びる。
その頬に、指が触れ——やがて、大きな袂が旭の肩を強く包み込んだ。
「——旭」
探し求めていたものにやっと辿り着いた子供のように、瑞穂は旭の首筋に顔を埋め、その名を呼ぶ。
迷っていた旭の腕が、やがておずおずと瑞穂の逞しい背に回った。
瑞穂の胸元の匂いを大きく吸い込み、旭は深い吐息をつくように呟いた。
「あの時、さよを呼び出したくて梅酒を飲んだのは、さよの怨霊に操られたせいじゃない。
そうしたいと思ったのは、やっぱり俺だ」
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