瑞穂が無惨な姿で城へ戻った夜から、四日目の夜。

 旭は、瑞穂の居間で傷の手当てに当たっていた。


 旭は、鴉や侍医に方法を教わりながら、終日瑞穂につききりで治療の手伝いに没頭している。毎日朝と夜に、皮膚に無数に出来た火傷や裂傷を丁寧に洗浄し、薬草を練り込んだ軟膏を傷口に塗り伸ばす。

 あの恐ろしい夜の翌日から、瑞穂の居間に自分のとこを運び込んだ。夜間さえも片時も離れず、その様子を見守る。居間を出るのは、自分の食事や入浴など最低限の時間だ。

 瑞穂は、依然目覚めない。心拍や呼吸は落ち着いているものの、意識の活動は未だ止まったままだ。


 先程居間に診察に来た侍医のまむしは、いつものように瑞穂の心拍と呼吸、傷の様子を慎重に確認し、旭に向けて穏やかに状況を説明をした。

「呼吸も心拍も、落ち着いております。今夜も容態に大きな変化はございませぬ。傷の経過も順調にございます」


「……あの。

 瑞穂が……旦那様が目を覚ますのは、いつ頃に……」

 堪りかね、旭は侍医に恐る恐る問いかけた。


「——それは、医師にも予測のつかぬことにございます。

 我々は、待つ以外にございませぬ」

 蝮は、細面ほそおもての顔に鋭く光る金の瞳を旭に向け、静かにそう答えただけだった。



 少し開けた障子から、夏の夜の風が静かに流れ込む。

 果てしなく沈みそうになる気持ちを堪え、旭は清潔な布を薬液に浸し、傷を丁寧に拭う。

 微かに刺激のある匂いの軟膏を、傷口の一つ一つに塗り込む。

 生々しい傷に触れても、瑞穂からは何の反応も返ってこない。


 底知れぬ恐怖が、胸に覆い被さる。 


 このまま、瑞穂は横たわって静かに呼吸を繰り返すだけの神になってしまうのではないか。

 痛みも苦しみもない、安らかな寝顔のまま。


 のようにつけられた手首の火傷に、薬を塗り広げる。

 色を失い、青いほどに白いその指を、旭はそのまま自分の掌で包んだ。

 力ない手の冷たい重みが、旭の脳と心臓を強烈に揺さぶる。


 あり得ない。

 このまま、戻ってこないなんて。


 こうして呼吸をし、確かな心拍を打っているのだ。

 必ず目を覚ます。

 そう信じて必死に堪えていたものが、崩れかける。

 

「——瑞穂……」


 横たわる瑞穂の枕辺にうずくまり、冷たい手の甲に瞼を押し当てた。


 性懲りもなく沸き出る涙が、瑞穂の指を濡らしていく。

 涙の熱が移ったその長い指を、ぎりぎりと握りしめた。

 深い傷があることになど、もはや気遣ってはいられなかった。


「ここに、俺を置いていくのか」


 気づけば、唇から言葉が漏れた。


「……ふざけるなよ。

 そんなことになったら——許さない。絶対に。

 全身全霊で、呪ってやる。

 それでいいのか、瑞穂」



「——……」


 その時、ごく僅かに——気配が動いた。


 滲んだ視界をはっと見開き、旭は自分の手の中の瑞穂の指をじっと見つめる。


「……」


 気のせいか?


 いや、違う。

 外から加わった力のせいではない。

 紛れもなく、その指先が、微かに動いた。


「——……

 瑞穂……

 瑞穂!!!」


 身体をがばりと起こし、旭はその手を握って無我夢中で呼びかける。


「…………」


 硬く閉じていた瞼が、微かに動き——ゆっくりと開いた。


 深い水の色。

 あの恐ろしい色の消えた、穏やかな水の瞳が、真っ直ぐに天井を見る。


 やがて、その眼差しは、静かに枕辺へと向けられた。



「——……旭」


 聞きたかった声。

 自分の名を呼ぶ声。


「……見えるか。

 わかるか、俺のこと……」


 瑞穂のもう片方の手がゆっくりと旭へ伸び、その指が濡れた頬に触れた。


 旭は瑞穂の胸元に縋り、堰を切ったように泣き崩れた。









 瑞穂が意識を取り戻してから、一週間が過ぎた。

 瑞穂は凄まじいほどの回復を見せ、青白く窶れた顔と身体は日に日に以前の活力と輝きを取り戻し始めた。

 顔や腕の傷も、驚く程の速さで薄れつつある。


 その日の夕刻。

 食事を済ませた瑞穂の居間を、蝮が訪れた。

 主の全身の様子を、侍医は念入りに診察する。


「……もう、何のご心配もございませぬ」

 診察を終えた蝮は、ほっと深い息を一つつき、そう告げた。


「明日よりは、とこをお上げいただいてよろしゅうございます。

 旦那様。ご快癒、誠におめでとうございます。

 旭様も、昼夜を分かたぬ御看病、誠にお疲れ様にございました」


 蝮は深く伏せた額を上げ、瑞穂と旭を温かな眼差しで見つめた。

 冷静に無表情だった彼の瞳が、初めてじわりと大きく滲んだ。


 ——そうか。

 ということは……今日が、瑞穂の居間でこうして過ごす最後の夜だ。

 侍医の笑顔を見つめながら、旭は同時に、そんなことを思った。



 自分の夕餉を自室で済ますと、旭は最後の薬湯を準備して瑞穂の居間へ戻った。

「瑞穂、これで薬湯も終わりだって蝮先生が……」

 襖を開けた旭は、驚いて思わず言葉を途切らせた。


 目の前には、とこの横の畳へぴたりと正座をし、旭の方へ真っ直ぐに向いた瑞穂の姿があった。

 彼は、すっと両手を前につき、美しい所作で深く額を伏せた。


「旭殿。

 この度は、心より、感謝申し上げる」


 白い寝衣の肩に、銀髪がさらりと落ちかかる。

 額を上げ、仄明るい灯の中で柔らかに微笑むその様は、言葉を失うほどに美しい。

 旭は、ドギマギとぎこちない挙動で座りながら、薬湯の盆を瑞穂の前に置いた。


「い、いいって、そういうの。

 でも……よかった。本当に」


 瑞穂は、深く澄んだ水の眼差しで旭を真っ直ぐに見つめる。

「そなたのおかげだ。旭」


「……明日からは、つききりの看護もいらなくなるな」

 膝の上に落としていた眼差しを上げ、旭は瑞穂を見つめ返す。


「俺、そろそろ自分の部屋に戻るよ」


「……」


「床もしばらくこっちに運んじゃってたしさ。全快したのにここに居座ったままじゃ、従者達にもおかしく思われる」


「——……」


「あ、そうそう。最近、自分のことはできるだけ自分でやってるんだ。鴉や青鷺に、日常生活のあれこれ教えてもらいながらさ。ちょっと偉いだろ?

 布団も自分で運ぶから、誰も呼ばなくていいよ。夜が更けないうちに、そろそろ運び出しちゃおうかな」


 そう言いながら立ち上がりかけた旭の手を、瑞穂が不意に掴んだ。

 びくりと肩を震わせ、旭は瑞穂を見据える。


「……っ……」


「ここにいるのは、嫌か」


「……そ、そういうことじゃなくて……」


 瑞穂の瞳が、深い泉のように旭の意識を奥へと誘う。


 ふわりと、視界が回った。

 同時に、胸の奥から、自分のものでない声が小さく囁いた。


 ——待っていた。ずっと。

 この時を。


「…………」


 鈴を振るような、美しい声。

 旭は、その囁きを静かに受け入れる。


 先ほどの夕餉に、旭は自分の茶の器に、梅酒をなみなみと注いだ。

 瑞穂の祭壇の、あの梅酒を。


 甘く香り高いその杯を、一気に飲み干した。

 さよを、自分の中に再び呼び起こしたかった。

 瑞穂への甘い感情を抑えきれなくなった、あの夜のように。


 瑞穂が自分に求めるものを、全て受け入れたい。


 さよの力を借りれば——きっと、怖くない。



 旭の手を掴む瑞穂の指に、一層強い力が籠る。

 身体の奥が、抗いようもなく熱を持ち、それに反応する。

 微かな吐息が、思わず唇から漏れた。

 それを感じ取ったのか、瑞穂の腕がぐいと激しい力で旭を胸へ抱き寄せた。


「——頼む、旭。

 嫌ならば、力一杯抗え。

 それがわかれば、今後一切、そなたには触れぬ」


 苦しげに掠れる囁きが、耳元でそう懇願する。


「——……」


 逃げたりしない。

 もう、この流れには逆らえない。

 胸を破るかというほどに昂る心臓を、もう押さえ込む余裕はない。

 答える代わりに、瑞穂の首筋におずおずと両腕を回した。


 瑞穂の逞しい腕が、旭の背に優しく回る。

 純白の床の敷物の上に、そのままそっと横たえられた。


 自分を見下ろす、深い湖。

 長い髪が、銀の滝のように降り注ぐ。

 波立ち、熱を含んで滴るほどのその瞳を、旭は真っ直ぐに見上げる。

 ふわり、と、甘い水の匂いに包まれ——同時に、唇が柔らかに重なった。


 渇いた動物のように、旭はその滑らかな唇を求める。

 瑞穂のしなやかな首に回した腕が、驚くほどの力で彼を引き寄せる。

 堪らなく甘い感覚が身体の奥底から湧き上がり、旭は苦しげに身悶えた。


 その瞬間、自分を溶かしかけていた強烈な熱が、不意に遠ざかった。



「——……」


 唇を離し、瑞穂は旭の瞳をじっと見下ろしている。

 その瞳から甘い熱は消え、今は奥底を深く抉るかのように鋭い光を湛えている。


「……そなたは、さよか」


 鋭く硬いその声が、旭の耳を貫いた。


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