憑依

「…………え?」


「旭。

 今のそなたの心は、さよに操られておる。

 そなたの奥底に、これほど深く巣食っておろうとは……」


 旭の瞳の奥に蠢く影を睨み据え、瑞穂は呻くようにそう呟く。


「……それ、どういう意味……」

「気づかぬか?

 そなたを駆り立てている欲求も、湧き出す快楽も、そなた自身のものではない。

 全て、さよのものだ」


 瑞穂の冷徹な声に、旭は青ざめながら首を強く横に振る。


「……嘘だ……違う。

 俺の心は、誰にも操られてなんかいない。これは、間違いなく俺自身の気持ちだ。

 ただ、今夜は……さよの感情の力を借りたいと思っただけだ。酒を飲んだ時の酔いに紛れて、さよが自分の中に現れることには気付いていたから」

「力を借りているというのは、そなたの錯覚だ。

 さよは、既に少しずつ、そなたの心を侵し始めておる。そなた自身が気づかぬほどに、じわじわとな。

 私の中にあった微かな違和感が、これで繋がった。

 星の守への謁見の際、そなたは星の守の誘いをはっきりと断ったであろう?

 あの時も——あの返答をしたのは、そなたではなく、さよだったのではないか?」


「…………」


 星の守の謁見の間でのことが、鮮明に思い出される。

 自分の目の前にしゃがみ込んだ星の守から漂う、檜のように鋭く甘い酒の香り。

 あの香りで、自分は一瞬目眩を催し……気付いたら、星の守を拒むあの言葉が既に口から出ていたのだ。


『せっかくのお誘いではございますが、私は貴方様のお城へは参りませぬ。

 私が雨神の城を出ることなど決してないと、貴方様は百も承知でございましょう?』


 確かに、あり得ないことだった。人を押し潰そうかという圧力を放つ強力な神を前にして、あれほど強かな返答など、本来の自分にできるはずがない。


「——気づいたか」

 瑞穂の呟きに、旭ははっと引き戻される。


「無残な形で断ち切られ、実ることのなかったさよの初穂への想いは、長い時を経て怨念と化したのであろう。

 そして、再び神の世へ来る子孫の出現を、密かに待っていたのだ。今度こそ、自らの願いを果たすためにな。

 ——そなたの心は、強力な怨念に支配されかけておるのだ」


「……嘘だ」


 嘘だ。違う。

 ならば、これも——瑞穂へ向けているこの苦しいほどの感情も、さよのものだと言うのか?

 自分の心臓を動かし、呼吸させ、今の自分を生かしている、この強烈な想いは……自分自身のものではないというのか?


 ならば……さよが自分の中から抜け落ちたら。

 この怨念が、自分から抜け出たとしたら……自分に残るものは。


「旭。

 このままでは、そなたは旭ではなくなってしまう。心も身体も、やがては全てさよのものとなってしまうであろう。

 今すぐにでも、除念の術を施さねば……」

 瑞穂に抱き起こされる腕の中で、旭は気でも違ったかのように首を激しく横に振った。


「……嫌だ……!!

 除念なんて、しなくていい。

 このままでいい……俺はこのままでいい!!」

「旭、一体何を……」

 瑞穂の瞳を見据え、旭は蒼白な唇を震わせる。


「——さよが抜け出たら、俺はどうなる?」


「……」


「自分の中が、空っぽになって……ここにいたい理由が、なくなってしまう。ここで生きたい理由が、なくなってしまう。

 自分の中の、この熱が綺麗に消え失せるとしたら……俺はきっと、ここではもう生きられない。心臓も、脳も肺も、そのうち全部止まってしまう……!」


「——……

 私が愛しているのは、さよではない。

 そなただ。旭」


 その言葉に、旭は小さく肩を揺らした。


「……」


「さよへと変わり果てたそなたを、私は愛することができない。——それだけは確かだ」



 さよに取り憑かれ、この強烈な熱に浮かされた自分は、このまま現実を味わわずに生きられるかもしれない。

 けれど、さよに憑依された自分を、瑞穂が愛することは決してない。

 自分の中にどれだけ熱が滾っても、その熱を満たして欲しい相手は、決してこちらを向かない。


 そういうことなのだ。


 その時、瑞穂の両腕が、旭をきつく胸へ引き寄せた。

 神らしからぬ苦しげな鼓動の速さが、旭の全身へ響く。


「そなたが、旭のままでいてくれるならば——私の全てを捧げて、そなたを愛そう。私の命が続く限り。

 それでは駄目か、旭」


「…………」


 気づけば、瑞穂の白い寝衣の袂を、自分の指がこれでもかと握り締めている。

 目から温かいものがぼろぼろと頬を伝い落ちる。


 今、自分の胸に満ちている、この気持ちは——さよのものではない。

 誰が何と言おうと、俺自身のものだ。



「——瑞穂。

 除念、してくれるか」


 引き寄せられた肩から顔を離し、旭は瑞穂の瞳を間近で見つめ返した。









 その深夜、丑の刻(午前二時)。

 純白の装束に着替えた旭は、仄明るい蝋燭を両脇に灯した瑞穂の祭壇の正面へ向いて正座をし、背筋を整えた。


 瑞穂が手ずから縒った細い注連縄を首にかけ、瑞々しい葉の繁る玉串を胸の前にしっかり握る。

 どれだけ苦しくても枝を手放してはならぬと、先ほど瑞穂が旭の両手に握らせ、固く結え付けたものだ。

 

「——これより、除念の術を行う」

 祭壇へ祈りを捧げ終え、旭に向き合うように立った瑞穂の厳粛な声に、旭は静かに目を閉じた。


 術を念ずる低い呟きが、耳に届き始める。

 瑞穂の手にした翡翠の玉飾りが、呪言に合わせて鋭く擦り合わされる音が響く。

 その響きは、次第に旭の耳を強烈に刺激し、胸を強く圧迫し始めた。


「……っ、く……」

「出でよ」


 低く、かつ空間を激しく振動させるその喝に、旭の意識はすっと遠退いた。

 閉じかけた瞳は、突然違う色に見開かれ——その唇が、勝手に動き始めた。


「——随分と冷ややかな仕打ちにございますね」


 たおやかな動きで瑞穂へ顔を向けると、艶やかに目を細め——さよは、その口元を美しく引き上げた。


「旭の心身は、そなたのものではない。即刻出てゆけ」

「この縄を、解いてはくださらぬのですか? 首も両手も、苦しゅうてかないませぬ。

 縄を解いて、積年の私たちの望みを、今すぐ存分に叶えましょうぞ。——のう、初穂様?」


 甘くしなだれかかるようなその声を、瑞穂は強かに跳ね返す。

「さよ殿も存じておるはずだ。初穂は、もうここにはおらぬと」

「ふふ。さように強がらなくてもようございましょう。あなた様の中の初穂様が、我慢しきれず苦しんでおられますよ」


 さよは、すっと立ち上がる。

 瑞穂の強固な術の僅かな隙間に身を擦り寄せ、結界の中へと入り込もうとする。

 瑞穂は、手にしていた玉飾りを両手の親指に掛け、両腕を怨念へ向けて押し出しながら渾身の力を込めた。


「離れよ。旭の身体より退け。結界に触れてはならぬ!」

「怨念ですもの、そう容易には祓えませぬよ。

 それに、貴方様の大切なこの旭の身体に、傷をつけたくはないでしょう?」

 そう言いながら、さよはじりじりと瑞穂へ近づこうとする。

 旭の纏った白装束が、結界に触れて少しずつ焼け焦げる。

 予想をしなかったさよの念の強さに、瑞穂の術が微かに怯んだ。


 その隙を破って、何百年も力を蓄え続けた美しい怨霊は猛烈な勢いで雨神に飛びかかった。



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