傷
「私は、明け方には城へ戻るが、それまではここにおる。瑞穂殿が気がかりであろうが、まずは休むが良い。
瑞穂は神だ。余程のことがなければ、深刻な状況も回復していくはずじゃ。そなたが心労で倒れるなど、ゆめゆめあってはならぬぞ」
「……はい」
刻の守の穏やかな言葉に、旭は濡れた頬をぐしぐしと拭って頷いた。
「今年の梅雨は、これを以てしまいじゃ。瑞穂殿への星の守のあの振る舞いも、本日を梅雨の最終日と定めてのことであろう。雨神が傷つき、暫く動けなくとも、星の営みが滞らぬようにな。
この上なく忌々しい
許してくだされ、旭殿」
刻の守は、改めて旭に向かい、畳に額を擦るかというほど深く頭を下げた。
*
気づけば、枕元が既に明るい。
刻の守が傍にいる安心感からだろうか、深く眠っていたようだ。
朝の光が、障子を通して部屋に満ちていた。
身を起こし、周囲を見回すが、刻の守の姿はない。言葉通り、夜明けと共に城へ戻っていったのだろう。
尊い神の温もりが、今も自分を包み込んでいる。
旭は床から立ち上がり、障子を開けた。
この上なく明るい陽射し。突き抜けるような青空。さらりと乾いた風が頬を撫でる。
こうして太陽が空を満たすのはいつぶりだろう。
夏が来た。
待ち望んだ夏が。
こんなに悲しい夏は、あっただろうか。
昨夜の、瑞穂の瞳の色が瞼に思い出された。
異様に発光するライトブルーの瞳。
余程深刻な状況でなければやがて回復するはずだと、刻の守は言っていたが——「深刻な状況」というその一言が、胸をしつこくかき乱す。
強力な神が注ぎ込む凄まじい衝撃を全身に受け、それでも屈するどころか全力を振り絞り天に稲妻を集結させ……星の守から解放されたと同時に、崩れ落ちた瑞穂。
本当に、大丈夫なのか。
もし、もう二度と、あの笑顔を見られないとしたら。
自分を呼ぶ声を、聞けないとしたら。
彼の瞳が、再び自分を見つめることがないとしたら——
不安と恐怖でおかしくなりそうな心臓を、思わずきつく抑え込む。
「旭様。
お目覚めでいらっしゃいますか」
その時、襖の外で静かな声がした。
鴉ではない。落ち着いた女性の声だ。
「は、はい、起きてます」
慌ててそう返す。
「襖をお開けしてもよろしいでしょうか」
「えっと、大丈夫です」
静かに襖を開け、伏せていた顔を上げたのは、蒼鷺だった。
彼女は、旭を見つめて小さく微笑む。
「ただいま、朝餉の膳をこちらへお運びいたします」
「……」
「我が夫——熊より、今朝、瑞穂様のお話をお聞きしました。
本日は、瑞穂様のお手当にお忙しい鴉様に代わり、私が旭様の身の回りのお世話にあがりました次第にございます」
「え……
熊……って、あの御目見の儀の際に挨拶した、元締役の……?」
蒼鷺は、表情を固くして再び額を伏せた。
「過日は、夫が旭様へ大変ご無礼な物言いをいたしましたこと、どうぞお許しください。
夫も、城の従者を取りまとめる者として厳しい言葉を発せざるを得ない立場にございます。されど、私を含め、あの時の旭様の労いのお言葉を心から有り難く受け止めた女房たちも大勢ございました。
女は日々どれだけ忙しく立ち働けど、労いの言葉を聞くことなど一切ありませぬゆえ」
そう言うと、蒼鷺はすっと額を上げ、旭を見据えた。
「旭様のお立場は、自ら選ばれた訳ではございませぬ。貴方様は、人の世を去る辛さを断ち切っていらっしゃったのだと——それを承知している従者もおることを、どうぞ忘れずにいてくださいませ。
本日は、そのこともお伝えしたく、僭越ながら旭様のお世話を申し出ましてございます」
蒼鷺の誠実な眼差しに、旭の胸がじわりと暖まる。
「——嬉しいです。蒼鷺さん。
今の言葉を聞けて……なんだか一つ、胸のつかえが楽になった気がします……」
「旭様、どうぞ敬語はおやめくださいませ」
「ああ、そうだった、ごめん。これからも敬語はちゃんと治らないかもしれないけど、許してください。
蒼鷺、ありがとう。今日は俺の世話を申し出てくれて。
でも、せっかくの申し出だけど、俺の世話はいらないんだ。自分でできることは、自分でやるよ。
だから、城の中のことを、俺にもっといろいろ教えてくれる?」
「……は? それは一体どういう……」
「俺も、やりたいことができたから」
首を傾げる蒼鷺に、旭は静かに答えた。
蒼鷺の運んだ朝餉を済ませ、身支度を整えると、旭はすぐに自室を出た。
天守内のいくつもの間を、鴉の姿を探して歩く。
広間から廊下へ出ると、急ぎ足でこちらへ向かってくる鴉の姿を見つけた。
「鴉!」
「旭様、おはようございます。
昨晩は、旭様のご意向に添えず、大変申し訳ございませんでした。旦那様を案ずる旭様のお気持ちは承知の上で、止むを得ぬ判断でございました。
しかも今朝は何一つお世話もできず、どうぞお許しくださいませ」
硬い顔つきで礼儀正しく頭を下げる鴉に、旭はもどかしげに問う。
「そんなことはいいよ。
それよりも、瑞穂の様子は……」
「瑞穂様は、居間でお休みにございます。
昨夜から依然お目を覚まされてはおりませぬが……侍医の迅速な処置で、傷の炎症の進みは止まり、今は呼吸も穏やかに安定しております。
昨晩は心拍も呼吸もこの上なく乱れ、一時危うい状況にございましたが、今朝はお命が危ぶまれる状況は脱しております。
——まずは、ご安心くださいませ」
鴉は、自分自身もその言葉を噛み締めるかのように、旭に現状を伝えた。
いつも涼やかに冷静なその黒い瞳が、一瞬じわりと滲んだように見えた。
「…………そうか。
良かった……」
旭も、緊張が切れたように崩れかける膝を必死に保たせる。
良かった。
瑞穂。
「星の守様の居城での公務は、実は我々も大層案じておりました。あのご気性のお方の監視のもとでご公務に当たるなど、何事もなく済むわけがないと……
それにしても、これほどに惨いことになるとは……瑞穂様に、一体何が……」
鴉は眉を深く寄せて俯く。
瑞穂を危険な目に遭わせたのは、俺だ。
そんなことは、言えるわけがなかった。
苦しい息をひとつ吐き、旭は鴉を見つめて問いかけた。
「……鴉。
瑞穂の居間に、俺も入っていいか?
できるなら、俺も、瑞穂の手当てを手伝いたいんだ。
……だめかな」
鴉は、微笑んで答えた。
「むしろ嬉しゅうございます、旭様。
旦那様のご容態も落ち着かれましたし……目覚めた時に旭様がお傍にいらっしゃれば、どれほどお喜びになるでしょう」
*
旭は、瑞穂の居間の襖を静かに開けた。
瑞穂は、純白の
額や頰の傷はまだ剥き出しの色を呈し、この上なく生々しい。乱れた長い銀髪が、白い床の敷物に広がる。
だが、その寝顔は穏やかだ。
旭はその枕辺に座り、疲れ果てた雨神を見つめた。
目を逸らしたくなるような、左手首の爛れ。
蒼白く
その頬に、恐る恐る指を伸ばした。
冷たい。
まるで滑らかな陶器に触れたようなその感触に、抑えようもなく涙が込み上げた。
瑞穂。
戻ってきてくれ。
頼む。目を開けて。
あの恐ろしい色の消え去った水の瞳で、見つめてほしい。
名前を呼んで欲しい。
必死に自分の故郷を守ってくれたその左手を、静かに握る。
瑞穂の広い胸に顔を伏せ、旭は声を上げて泣いた。
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