瞳の色

「瑞穂様——!!」


 鴉の尋常ならぬ声に、旭は弾かれるように広間へ駆けつけた。

 そこには、がいの角の間からずり落ちるように回廊へ倒れ込む瑞穂を支える鴉の姿があった。


 瑞穂の身体を肩に担ぎ、主の居間へと向かいながら鴉は険しい声で侍医を呼ぶ。

まむし、おるか、蝮!!」

「はい、参っております、鴉様」

「今すぐ旦那様の居間に床を。御容態を至急調べよ」

「かしこまりました。助手に急ぎ湯と手拭いをこちらへ運ばせ、薬湯を用意させます」

「急ぎ頼むぞ」


 その光景に呆然と立ち竦みながらも、旭は鴉の肩にぐったりと凭れかかる瑞穂に思わず呼びかけた。


「……瑞穂……」


 瑞穂が、一瞬その声に小さく反応した。

 銀の髪の乱れた頭が、微かに上がる。

 酷く絡み合う長髪の間から、眼差しがゆっくりこちらを向いた。


「——……」


 その瞳の色は、まるで濃度の高い蛍光塗料を流し込んだかのような異常なライトブルーに発光していた。

 焦点が定まらない目には、とても旭が見えているようには思えない。

 そして、その頬や額、鴉の肩にかかった腕——至る所に、蚯蚓腫みみずばれに似た傷や火傷のような炎症ができている。


 何があったんだ。

 瑞穂に、何が。


「瑞穂……瑞穂!!!」

 鴉が緊張した表情で旭を遮る。

「旭様、ここはどうか私共にお任せください。傷の状態もお身体の内部の状態も、急ぎ子細を調べる必要がございます。このような状況を目にしたご経験のないお方にお立ち会いいただくわけには参りませぬ」

「だって……そんな……!!」

「待ちなされ、旭殿」

 無我夢中で鴉に追い縋ろうとする旭を、嗄れた声が引き留めた。

 振り向くと、そこには小さな老婆が背をかがめるように立っていた。


「刻の守……様……」


「瑞穂殿に付き添うて、垓に乗って参った。

 他の者には私の姿は見えておらぬ。お出ましなどと騒がれては困るでの。

 瑞穂殿の御身体の手当ては、まずは侍医と鴉にお任せなされ。

 今宵は私がそなたの傍にいるゆえ、安心せよ」


「……」


 温かな刻の守の表情と声に、張り詰めた緊張が途切れそうになり——思わず目の奥がぐっと込み上げる。


「そなたに、話したきことがある。二人だけでな。

 そなたの部屋へ、案内してくれぬか」


 目頭を手の甲でぐいと擦り、旭は老婆の言葉に頷いた。







 旭の部屋へ入ると、刻の守の背後で襖がピタリと閉まった。少し開いていた文机の脇の障子も、節くれだった人差し指が微かに動くとすいと音もなく閉じた。

「この話は、旭殿だけに伝えとうてな。

 今日、星の守の城で、何があったか」

 茵に座ると、刻の守は袂からピンポン球ほどの透明な珠を取り出した。

 珠は、小さな掌からすいと空中に浮かんだ。

 ふっと、珠から強い光が放たれる。

 同時に、旭の部屋の空間は、一瞬で違う光景に変化した。


「……わ……こ、これ一体……」

「何が見えておる」

「——ひ、広い座敷の……前方の肘掛のようなものに、星の守様が凭れかかって座ってます……で、障子の外の欄干に、瑞穂が空を向いて立っていて——……」

「うむ。

 その光景は、今日の星の守の居間の様子じゃ。私はもうほぼ目は見えぬが、物音と気配で不穏な様子を感じての。私のこの珠を、密かに星の守の居間へ飛ばしたのだ。

 この珠が、今日あった事を全て記録しておる。

 私は、何が起こったかを感覚で概ね察しておるが……ここに映し出されるものを、そなたにも知って欲しいと思うてな」


「…………」

 瑞穂があれほどに傷つき、憔悴するに至った理由。

 それを目の当たりにするのは、耐え難く恐ろしい。

 歯軋りをしながら映像を見守るだけで、手も足も出ないのだから。

 ……けれど。


「……わかりました」


 旭の答えに、刻の守は静かに頷いた。

「そなたには大層辛いやも知れぬが……瑞穂殿の痛みを支えられるのは、そなただけだ。周囲にどれだけ優れた家臣が大勢いても、瑞穂殿の心までは支えることはできぬ。

 ——私の言っている言葉の意味が、わかるな?」


 刻の守の言葉は、波立った旭の胸の奥へ深く染み込んだ。

 不穏にざわめいていた波が、見る間に凪いでいく。


「はい」

 旭は、刻の守を見つめて強く頷いた。


 一つ大きく息を吸い込むと、旭は改めて自分の周囲の情景を見回す。

 さながら映画のスクリーンの中へ入り込んだような感覚で、旭は星の守の居間の一隅に佇んだ。




 聳え立つ城の欄干へ出た瑞穂は、天へ向けて左手を高く掲げ、絶え間なく術を唱え続けている。

 やがて、暗い雲がその指の上空で渦を巻き始めた。風が起こり、彼の長い髪を強く靡かせる。

 むくむくと不穏な力を蓄えていく雲から、堪えきれなくなったように雨が落ち始めた。まばらだった白い筋は、見る間に勢いを増していく。

 瑞穂は掲げた手の指をゆっくりと開き、その掌に力を込めるようにしながら、空の一方向へと狙いを定めた。

しん

 低く、しかし凄まじい力の籠った術の言葉が放たれる。

 大量の雨を落とす雲が、猛烈な流れを作って瑞穂の指し示す方向へと動き始めた。

 雨神の表情は、険しさを増す。両脚を強く踏み締め、大気の巨大な波動を全身で受け止める。


 その時、肘掛に凭れかかって座っていた星の守が、ゆらりと立ち上がった。

 瑞穂の背後まで歩み寄ると、瑞穂の肩に乱暴に腕をかけた。


「それでは足りぬ」


「——お止めください、星の守様。術の最中にございます」

わしに指図しようと申すか。足りぬと申しておる。

 それに、この雨雲の行き先も、儂の命じた方角から微かにずれておるではないか。何故じゃ」

 星の守の腕が、ぐいと一層強く瑞穂を引き寄せる。

「理由を申せ」


「——……っ」

「ああ、そういえば。その方角に、そなたの大切な姫君のさとがあったな? 

 彼の地へ、一頻り雨を降らせよ。今年最も激しい雨をな」

 星の守の手が、空へ掲げられた瑞穂の手首を激しく掴んだ。

 強大な神の口元が、歪むように引き上がる。

「儂が、力を貸そう。

 そなたと儂の力が重なれば、惚れ惚れするような豪雨となろう」


 星の守に握られた瑞穂の手首から、青白い電流のような激しい光の筋が周囲にビリビリと飛び始めた。

 雲はますます勢いを増して畝り、猛烈な雨を叩きつける。稲妻が空を駆ける。

 抵抗しようともがく瑞穂を、星の守は凄まじい力で押さえ込んだ。瑞穂の首を羽交い締めにするかのように抱きかかえ、異様な笑みを浮かべながらその耳元で低く唸った。

「儂に従え。瑞穂」

 手首から飛び散る光の筋が、瑞穂の頬や額を激しく傷つけていく。その衝撃に耐えながら、瑞穂は肩越しに荒い息を吐く星の守に低く懇願した。

「——お止めください。雲の方位は、もはや変えられませぬ」

「ちっぽけな人間ひとりのために、この儂の命に背くとは。到底許し難い」


 瑞穂の瞳の底から、不意にぶわりと異様なライトブルーの光が湧き上がった。

 星の守に握られたまま焼け爛れる手首を渾身の力で天へと向け直し、瑞穂はその指先で何か小さく印を結んだ。

 すると、空を走っていた稲光が、集合をかけられたかのように空の一点へと集まり始めた。

 稲妻は見る間に巨大な光の玉となり、その光の矢尻やじりが、瑞穂達の立つ欄干へと真っ直ぐに狙いを定めた。


『————やめよ!!!』


 その瞬間、脳内に強烈な喝が響き、旭は思わず耳を覆ってしゃがみ込んだ。間違いなく、刻の守の凄まじい念だ。

 目の前では——星の守が、瑞穂から引き剥がされるように座敷の奥へ吹き飛ばされていた。

 強烈な力から不意に解放され、瑞穂は同時にその場へ崩れ落ちる。

 空に出来上がった巨大な光の球は、寸前で矢尻を収め——やがて無数の稲妻となって、暗い空へと散らばっていった。




 目の前の空間は、元の薄暗い部屋に戻っていた。


 心臓が、破裂しそうに拍動している。

 脳内の衝撃が、いまだに体をぐわぐわと揺さぶっている。


 抑えきれない熱が、胸の奥底から目の奥へと強烈に突き上げた。


「——瑞穂」


 瑞穂は、俺のために——。



 刻の守の小さな手が、静かに旭の肩に置かれた。


「——……」


 茫然と、畳に膝をついた。

 膝の上で握り締めた拳に、涙が止めどなく落ちた。



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