異変

 障子から入る淡い外光を腕で遮りながら、旭は重い瞼を開けた。

 つい今し方眠りについたばかりだったような気怠い感覚が、意識をぼんやりと覆っている。

 もそりと身を起こし、居間を見回す。昨夜瑞穂の向かっていた文机には、もう彼の姿はない。眠りは浅かったはずなのに、彼が部屋を出たことには全く気づかなかった。


「旭様、おはようございます」


 襖の外で、鴉の声が響く。


「……ん……おはよ」

「襖をお開けしてよろしいでしょうか?」

「うん、なんかまだ頭重くて起きたくないけど……」


 襖をすいと静かに開け、鴉は爽やかに微笑む。

「もしまだお休みになられるのであれば、ご無理をされる必要はございませぬ。朝の茶をお持ちいたしましたので、よろしければお召し上がりくださいませ」


 熱い焙じ茶が香ばしい湯気を上げる。茶を一口口に運び、旭は一つ深く息を吸い込んだ。

「瑞穂は……もう、仕事行っちゃったんだよな?」

「はい。本日より梅雨が明けるまでは星の守様の居城で公務を行うよう仰せ付かったとのことで……案の定、先程から雨が降り出しました。星の守様の厳しいご指示を受けられてのことでしょうか。

 今後は星の守様のお城まで毎日長時間の移動も必要になりますし、これまでにも増してお忙しさを極めるのではないかと」

 

 障子を少し開け、外気を部屋へ取り入れながら、それでも鴉は何やら上機嫌に言葉を続ける。

「それにも関わらず、今朝の瑞穂様はこれまでになく晴れやかなお顔をしておられましたゆえ、内心仰天いたしました。あの城へのご登城は、この上なくお気が重いはずなのですが……

 旭様についても、今朝はお疲れであろうから無理に起こさず休ませてやってくれと、眩いほどの笑みで仰って……

 ——もしや、昨夜、何かございましたか?」


 表情の変化を窺うように自分を見つめる鴉の眼差しに、旭は一気にドギマギと狼狽える。

「え、いや、何かって別に……ただちょっと、夜中瑞穂の庭に案内してもらったり、少し話したりしただけで……」

「……それだけにございますか?」

「な、なんだよ? 鴉が何考えてるか知らんけど、特別なことは何もないからな!? 実際瑞穂は昨夜は眠らず仕事してたみたいだったし……!」

 そうなのだ。自分が寝付けなかったのは、そこに大きな理由がある。だって仕方ないだろ!? 彼がこの後いつ、どこに床を敷くかとか、そういうあれこれが気にならないわけないじゃんか!?


 旭は昨夜、自分の部屋には戻らず、瑞穂の居間に伸べられた床に戻った。

「今夜は、このままこちらで休まぬか。この深夜に敢えてそなたの部屋に床をしつらえることもなかろう?」

 初めて見る穏やかな表情を湛えた彼の言葉に、抗うことはできなかった。

 文机で仕事を続ける瑞穂に背を向け、何とか眠ったふりを続けつつも、瑞穂の微かな衣擦れの音がするたびに心拍が跳ね上がり、布団の中で握りしめた手汗の量は半端ではなかった。

 結局瑞穂が自分のそばで眠る気配はなく、昨夜は机で文書を書いたり紙を捲るような気配がずっと続いていた。ああそうか、神様は人間のように睡眠時間にこだわる必要もないのか……などとモヤモヤ考えながらいつしか眠りに落ち、夜が明けてしまったのだ。


 昨夜のそんなバクバクモードを回想しているうちに、鴉もふと自らの思いを改めたように、旭へ向けてきりりとした真顔を向けた。

「思えば、瑞穂様も今は一年のうちで最もお忙しい時期。そのようなひとときはまた改めてゆっくりとお考えやもしれませぬ。とんだ早合点をいたしました。お許しくださいませ」

「だ、っだからそういうんじゃないって!!」

「何はともあれ、瑞穂様にも旭様にも、昨夜は大変喜ばしいことがあったご様子。この鴉もまことに祝着にございます」

 そう言いながら、鴉はひたと畳に座ると、心から嬉しそうな笑顔で深く額を伏せた。



 今日は歴史と古語、武道の日課もお休みにいたしましょう、朝餉をお召し上がりの際はお声をおかけください、などとウキウキ付け加えながら鴉は部屋を出て行った。


 再び静まった部屋で、旭は小さく息をついて立ち上がり、障子のそばへ歩み寄る。

 城を包むように降り頻る雨。

 熱を含んだ湿気は、夏がすぐそこに来ていることを思わせる。


 昨夜の、瑞穂の告白。

 瑞穂が、ただ初穂の遺言を実行するために自分をここへ招いたわけではないこと。むしろ瑞穂自身の強い希望で、他の精や女神達との関わりも全部切り捨てて自分を傍に招いたこと。

 とんでもなく、驚いた。

 ——嬉しかった。

 信じられないほど。


 少し前の自分だったら、どう感じただろう。

 自らの身勝手な望みのためだけに遺言の恐ろしい縛りを発動させ、人の世での生を奪った非情な神。

 彼に対し、どれだけ怨みや憎しみを抱いたことだろう。

 この城に閉じ込められ、自分の運命に絶望し、気が違ってしまったかもしれない。


 この不運が、今、むしろ歓びにすら思えるのは——


 障子にかけた手の甲に額を擦り寄せ、旭はふうっと胸に溜まった熱を吐く。


 男神に恋をする男子高校生なんて、アホにも程がある。

 けれど、心臓の鼓動がこれほどに苦しくて、その高揚こそが今の自分を生かしている。

 自分へ向けられた残酷な仕打ちさえ、ひたすら甘い喜びとしか感じられない。

 正気の沙汰とは思えない。


 でも——この気持ちが正しいかおかしいかなんて、もうどうでも構わない。

 この想いが実ろうが、砕けようが、それすら構わない。

 この熱に狂わされている自分自身が、幸せなのだから。


 早く、夏が来ればいい。

 木々の青葉が日差しに輝くあの美しい庭を、また見せて欲しい。


 天から絶え間なく落ちる雨を見上げ、旭はそんなことを取り留めなく考え続けた。







 それから約ひと月が経った、七月半ばの夜更け。

 梅雨明けも、もう目前だ。


 古語の講義で出された課題を進める筆を止め、旭は障子を少しだけ開けた。仄明るい障子の隙間から、湿った闇の匂いが部屋へ流れ込む。


 今日も、城の外は雨だ。

 梅雨明け直前の雨は、恐ろしいほどに激しく城の瓦を叩く。先ほどまでは激しい雷と稲妻が天を駆け、大気をビリビリと震わせていた。

 年々激しさを増す梅雨時の雨は、瑞穂の思惑によるものなのだろうか。

 ——母さんや父さんは、雨に悩まされていないだろうか。

 ほのかは、相変わらず脇目も振らずバレー三昧だろうか? あの色気のなさじゃ、彼氏なんて当分できそうにない。

 障子の外の雨音を聞きながら、旭はそんなことを思う。

 ——でも、雨神が守ってくれている。みんな元気にしてるはずだ。

 

 とにかく、このひと月間は城で過ごす時間もまともに作れなかった瑞穂も、梅雨が明ければようやく激務から解放される。これほど大量の雨を降らすのは、瑞穂にも負担にならないはずがない。


 瑞穂の顔が、見たい。

 声が聴きたい。

 無意識に、唇を噛み締める。


 その時、広間の方で大きな叫び声が上がり、静寂が破られた。


「——瑞穂様——!!」


 旭は、弾かれるように文机から立ち上がった。



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