真実

「……俺を、待ってたって……なんで」


 ふと、縛られたように動けなかった眼差しが解かれた。

 激しく混乱する思考に、旭は視線を不安定に彷徨わせる。

 その様子に、瑞穂は寂しげに小さく微笑んだ。


「——やはり、そなたは何も覚えていないのだな」


「……」


「そなたが、まだ小さな子供の頃だ。

 大きなランドセルを背負い、小学校へ通い始めて間もなくの秋だった。

 そなたが傘を学校に置き忘れて下校する帰り道、生憎そなたの街に雨を降らさねばならなくてな。

 ぽつりと額に当たった雨粒に、そなたは額を手で押さえながら天を見上げて、言ったのだ。

『神様、泣いてるの?』と」


「…………」


「その頃の私は、周囲に勧められ、いくつかの花の精や女神と関わりを持ち始めた頃だった。

 彼女たちは皆類い稀な美しさを持ち、そして皆よく似ていた。誰もが、自分自身の持つ美貌と魔力を高く掲げ、その魅力で自分の欲しいものを手に入れることだけを望んでいた。自らは何一つ相手に与えようともせず。

 そのような関わりに向き合えば向き合うほど、寂しかった。

 どれだけ望まれても、私から彼女らに与えたいものなど、何一つなかった。

 何も得られないと分かった途端、彼女らは冷ややかに去っていった。

 孤独ばかりが、どうしようもなく募った」


 無表情に響く、瑞穂の声。

 少しづつ、遠い記憶が旭の脳に蘇る。

 そうだ。

 雨が降るたびに、空にいるだろう神様に、いろいろ話しかけていたことがあったっけ。その空の色が、とても悲しそうに見えて。

 いつの間にか、そんなことはすっかり忘れてしまったけれど。


「さよという人間に出会えた初穂が、私は強烈に羨ましかった。

 初穂の寵愛を妬む女神や精たちからどれだけ心ない仕打ちを受けても、怯む事なく耐え、初穂の手を離さなかったというさよ。

 初穂のそんな昔語りを繰り返し聞く内に、私の中にも、いつしか人間の情が棲みついたのだろう。

 神の世では、情や温もりを求めるなどただの厄介な感情でしかない。こんなつまらぬ思いに振り回される神など、愚かでしかないのに——

 恐ろしいほどに深い愛を身の内に宿す人間という存在の温もりを、私もいつしか探し求めるようになっていた。

 そんな私に、幼いそなたの声はあまりにも深く響いた。

 心配そうに天を見上げるそなたの瞳は、それまでに感じた何よりも温かかった」


 幼い日の帰り道、額に落ちてきた雨。

 旭は、その時の感触をはっきりと思い出した。

 その雨粒には、どうしようもない寂しさが籠もっていた。冷たい悲しみが、額から全身に染み入るようだった。

 それで、空を見上げて、思わず聞いたんだ。

 泣いてるの?と。


「雨宮家の、さよと似た瞳をした幼子おさなごが、遠い下界から自分の寂しさに気づいてくれた……それが、あまりに嬉しくてな。

 そなたがいれば、寂しくないと——気付けば、小さいそなたに向けてそう答えていた」


 こんなにも綺麗に、俺は忘れてしまっていたんだ。

 瑞穂にとって、それほどに大切だったことを。


「それからも、そなたはしばしば私に話しかけてくれた。大きな紙に太陽やひまわりや、そなたの好きな食べ物を描いたりして、空へ掲げて見せてくれた。『今日の夜ご飯はね、唐揚げだよ!』などと言ってな」


 懐かしげに微笑む瑞穂の表情が、微かに翳った。


「だから、そなたはやがて必ず私を呼んでくれると、そう思った。

 遥か下界から私を見上げた瞳を、すぐ間近で見つめたかった。

 そなたが長ずるごとに、その思いは募った。その日が、待ち遠しくてならなかった。

 他の人間にそなたを渡すことなど、無論許せなかった。一歩間違えば、そなたの隣にいた少女たちを水に沈めるところであった」


「——ごめん。

 全部、忘れちゃって……ごめん、瑞穂」


「そうではないのだ、旭。

 私は、ある時ふと気づいた。

 幼いそなたの空への呼びかけは、私へ向けたものではなく、ただ幼子の無邪気な遊びに過ぎなかったのかもしれない、と。

 それでも、私はそなたを手離そうとは思わなかった。

 そなたが、幼い日のことを全て忘れていたとしても——私はそなたの眼差しと優しさを、自分だけのものにしたかった。

 だから、初穂の遺言の縛りを発動させ、力尽くでそなたを自分の傍へ招いたのだ」


 瑞穂の水の瞳の奥底が小さく波立つ。


「私は、花々の精や女神達よりも遥かに傲慢だ。

 自分の望みを満たす為に力を振るい、そなたの人としての生を、無理矢理引きちぎった。

 これが、そなたの知りたかった真実だ。——だから、聞いてどうすると申したのだ」



「——……」


 そういうことだったのか。

 目の前にいるのは、自分の欲に任せて人の世での生を奪った神。一度きりの生を。


 ——それを知って、今俺は、絶望してるだろうか?


「……あ」


 その瞬間、旭は弾かれたように顔を上げると、瑞穂の袖を強く引いた。


「瑞穂。

 部屋に戻ろう。今すぐ」

 






 水の橋を全速力で戻ると、旭は自室に駆け込み、神の世へ来る際に荷物を詰め込んだリュックに手を突っ込んだ。

 ごそごそと中を漁り、目的のものをやっと探し出し、袖でその埃を拭った。

 息の整わないまま瑞穂の元へ戻り、旭は手の中の物を彼に差し出した。


「……旭、これは?」

「小さい頃、神様にあげたいと思ってたものだ」


 旭の掌には、小さな巻貝の貝殻が乗っていた。白の中に微かに桃色を溶かしたような、美しい色の貝だ。


「瑞穂。

 昔、俺に虹を見せてくれただろ。何度も。

 思い出したんだ。そのこと」


「……」


「親に叱られたり、友達と喧嘩したりして泣きながら空を見ていると、不思議といつもそこに虹がかかった。

 薄かった色が、だんだん鮮やかに、濃くなって……

 大丈夫だ、って言ってくれている気がして。嬉しくて、また涙が出た。

 神様が、いつも俺を見ていてくれてるんだって、はっきり感じた」


 瑞穂は、おずおずと手を伸ばし、旭の掌から貝殻を受け取る。

 自分の掌に乗せたその美しい貝を、じっと見つめた。


「小学校の遠足で海に行った時、見つけたんだ。綺麗だろ?

 何か大事な貝殻だったと、それしか思い出せずにいたんだけど……俺を見ていてくれる神様に、これを渡したかったんだ。空を飛べたらいいのにと、あの頃何度も思った。

 昔のことを、すっかり忘れていたとしても……あの時の思いは、真実だ。

 だから、今こうして願いが叶っているのが、嬉しい。心から。

 瑞穂に会いたいと願っていたあの気持ちを、思い出せて良かった」


 瑞穂は、その小さな貝殻の感触を確かめるように指でそっと撫で、掌に固く握りしめた。


「旭。

 そなたは、まことに優しい心根の持ち主よの。

 この上なく身勝手な神にさえ、これほどに温かいとは」


「…………」


 これは、「優しい」などという気持ちじゃない。

 この感情は、そんな種類じゃない。

 勝手に的外れな分類をして片付けて欲しくない。

 そんな奇妙な感情が、旭の胸に突き上げる。


 旭の本心に気付かぬのだろう、瑞穂はすいと眼差しを旭に向けるとどこか悪戯っぽく微笑んだ。


「かように清らかな心では、悪意あるものに容易にたぶらかされぬか心配だ。私のように強引な者に、意に染まぬ物事を強要されるやも知れぬのに」


 瑞穂が俺にそれを望むなら、いくらでも誑かせばいい。

 強引に、強要すればいい。望まないことも、意に染まない事も。

 本性を剥き出しにして、力尽くで奪えばいい。この心も、身体も。


 瑞穂に対し、自分は今、そう思っている。はっきりと。


 唇をきつく噛み、旭はただ瑞穂の静かな微笑を見つめた。




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