発動

 目覚めると、天井の端正な木目が目に入った。

 頭を横に動かすと、仄暗い灯りの中で瑞穂が壁際の文机に向かい、横に積まれた手紙や書物に目を落としている。


 ここ、瑞穂の居間か……? 今、何時だ?


 星の守の城からの帰路、垓の額で疲れが極限に達したらしく、どうやら予想以上にぐっすり爆睡してしまったようだ。多分、瑞穂にぐったりともたれかかって。

 みっともない様子を見られただろうか?……見られたよな、間違いなく。

 一気に込み上げる恥ずかしさにがばっと起き上がろうとするが、鋭い頭痛に思わず額を押さえた。 


「うぐ……」

「目覚めたか、旭?」

 瑞穂が書類から顔を上げ、こちらを向いた。


「ん……なんか頭痛い……」

「無理もない。星の守の城に満ちる気は強い圧を持っておる。こちらの世に馴れぬ生身の人間には相当な負担であろう。

 今は子の刻(午前0時)を少し過ぎた時分だ。夕餉も取らず眠っていたゆえ、空腹ならば何か用意させよう」

 そう言いながら瑞穂は枕辺に歩み寄り、旭の表情を窺うように静かに座る。

「んー……夕食は、いいや。あんま食べられなそうだし」

「そうか。

 ここに梔子くちなし茶を用意した。そなたが大層気に入ったようだと鴉から聞いてな。まずは疲れを癒すと良い」

「……瑞穂が、用意してくれたの?」

「鴉ほどうまく香りを出せるか不安だがな」

 素焼きの瓶から急須へ湯を注ぎながら、瑞穂は静かに微笑む。

 香り高い湯気がふわりと立ち昇る。


 柔らかな香りの茶を器に注ぐ瑞穂を見つめているうちに、胸や脳にごりごりと引っかかっていた強張った気持ちが、ほろほろと解れていく。

 そのまま、解放された言葉が唇から零れた。


「……瑞穂。

 星の守様との謁見のこと、屈辱的で不愉快なことばかりだったろうって、さっき瑞穂は言ったけど……そんなことなかった。全然。

 ってか、むしろ嬉しかった。

 あんな風に、瑞穂が本気で守ってくれたり、怒ってくれたりして」


「……」


 瑞穂が黙って旭に手渡した器を、口に運ぶ。

 優しいその味わいに、ふうっと一つ深い息が漏れた。


「瑞穂の入れてくれたお茶、めちゃめちゃ美味しい」

「そうか。しかしそなたはなんでも美味いと褒めてくれるからな」

「え、嘘じゃないって」


 何気なく眼差しを交わし、小さく笑い合う。

 旭は、意を決したようにすっと息を吸い込み、言葉を続けた。


「——あのさ。

 本当のこと、聞かせてくれる?

 俺って、たださよと似ていたから、こっちの世へ来ることになったのか?

 初穂から課せられた遺言をただ消化するために、瑞穂は俺を迎えに来たのか?」


「……

 それを聞いてどうする?」


「……」


 瑞穂の瞳にこれまでとは違う色がぎった気がして、旭は思わず怯む。


 けれど……これを聞かなければ、自分の気持ちは靄の中に立ち竦んだままだ。

 自分の立っている場所もわからず、先に進むことも後へ引くこともできずに、ただ窒息しそうに苦しい時間をこれ以上耐えるのは、きっと無理だ。


「……わからない。

 でも、それ知らなきゃ、なんていうか、自分の居場所が決まらないというか……

 だから、ちゃんと聞きたいんだ」


 瑞穂は、まっすぐに旭を見つめたまま、静かに口を開いた。


「旭。

 そなたに伝えておきたいことがある」


「……」


「そなたは、私が迎えに行ったあの日まで、雨神と雨宮家の関わりのことを、何一つ聞かされてはいなかった。

 何一つ納得する時間などないままに人の世を離れる辛さを、私はそなたに背負わせた。

 だから、この城では何一つ憂うことなく、そなたの思うまま過ごして欲しい。叶えたきことがあれば、何なりと私に話してほしい。

 そなたが望まぬことを、これ以上そなたに無理強いする気は一切ない」


「……だから……望まぬことって、何だよ……それ、さっき俺が聞いた質問の答えになってないじゃんか。

 それに、俺が来る前に綺麗な精やら女神やらといろいろ付き合ってた話とかも、俺全然知らなかったし!

 ぶっちゃけ、俺って瑞穂にとってどういう立場だよ? 仕事上止むを得ず世話することになった厄介な生き物とか、そういう感じ?」

「頼む、旭。そのような物言いは止めよ。そんな思いでそなたをそばに置いているはずがないであろう」

「じゃ、俺は一体何だよ!? はっきり聞かせてよ!!」


 強い語調でそう言い返し、旭はぐっと瑞穂を見据える。


 瑞穂は、額を指で覆うようにしてふっと小さく息をつくと、静かに旭を見つめ返した。


「——旭。

 体調に無理がなければ、少し、外を歩かぬか。

 私だけの庭へ案内しよう」


 瑞穂はすいと立ち上がると、旭へ淡く微笑んだ。









 居間から回廊へ出ると、月の光が静かに廊下を照らしていた。

 廊下を歩き、欄干に立つと、瑞穂はすっと左手を空へ翳した。

 すると、目の前の空気がぶわりと歪み、何か小さく光る粒がキラキラと無数に出現し始めた。大気中から、水の粒子が凄まじい力で集められているようだ。

 水の粒は見る間に結合し、いくつもの透明な板を連結してみるみる足元に道を作っていく。

 水の道はやがて幅の広い橋となり、城を包む森の奥へと輝きながら伸びていった。


「……うわ……すごい……綺麗だ」

 言葉を失ったようにその風景に見入る旭を微笑ましげに見つめ、瑞穂は橋に一歩踏み出すと旭を誘った。

「丈夫な橋だ。決して落ちたりせぬ故、安心せよ」

 言われるままに、橋に足をかける。足元の板も太い手摺りも、澄んだ水の透明さでありながら硬く、月の光を受けて神秘的な輝きを放つ。

「怖くないか」

「んーー……足の下の景色が丸見えでかなり怖い」

「はは、ならば手を貸そう」

「いやそれはいいから!」

 緩い下り坂の長い橋を渡り、だんだんと天守から地上へ近づく。足元の心細さにも次第に慣れ、旭は静かに渡る夜風に吹かれながら満天の星空を仰いだ。


 鬱蒼と茂る木々の間に伸びた橋が尽き、二人は柔らかな芝生に足を下ろした。目の前には、水面に月を映した池が穏やかに佇んでいる。


「この庭は、私だけしか立ち入れぬよう、常に結界を張ってある。この場所の存在は誰にも気づかれることはない。自分の好きなように時々手入れをするのも楽しみの一つでな」


「……気持ちいい……こんな澄み切った空気、初めてだ」

「喜んでもらえたならば良かった」

「星も、怖いくらい大きくて、ちかちか瞬いて……降るような星空って、本当なんだな」

「四季それぞれに美しい景色が見られる庭だ。梅雨が過ぎれば、夏には青葉の木陰が涼しい風を運ぶ」


 瑞穂も、旭の横で大きく息を吸い込み、空を仰ぐ。

 旭はその美しい横顔を見つめた。


 やはり、この人は、神だ。

 ただの人間には、あまりにも遠過ぎる。


 ——ついさっきまで何だかムキになっていた自分が、やっぱり何か大きな勘違いをしていた。

 瑞穂は、尊敬できる神だ。

 この神に、守ってもらえる。それだけで、十分なのに。

 旭は、最近ずっと忘れていた穏やかな思いに身を任せた。


「……済まなかった。

 何も話せぬままで」


 不意に星空から顔を戻し、瑞穂は旭を見る。

 視線が真っ直ぐに結び合い、旭の心臓が思わず跳ね上がる。

 目を逸らしてしまいたいのに、まるで縛られたかのように逃れることができない。


「……」


「そなたがこの城へ来る以前に、花々の精や女神たちといくつか関わりを持っていたことは、まことのことだ。

 それでも、彼女たちと共に歩もうという気持ちになったことは、結局一度もなかった」


 ふうっと息を一つつくと、彼は一度ぐっと奥歯を噛むようにして、言葉を続けた。


「——そなたを、待っていたからだ。

 そなたが、ここへ来る日を」


「…………」


「私は、初穂の遺言により止む無くそなたをここへ招いたのではない。

 初穂の遺言を叶えるのは、私でなくとも良かったのだ。こちらへ招くにふさわしい者が雨宮家に現れないと思えば、敢えて招かずとも済んだことだ。 

 そなたより前に、そなたよりさよによく似た者が雨宮家に生まれたことも何度かあった。

 それでも、私はそなたを選んだ。

 他の誰でもなく、そなたを自分の傍へ招きたかった。

 初穂の遺言を叶える者をそなたと定め、初穂のやしろにて願をかけ、遺言の縛りを発動させたのは、私だ」


 瑞穂の瞳が、深い水の色を湛えて旭を見つめた。



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