老婆

「さ、ゆるりとされよ。瑞穂殿、旭殿」

 老婆に勧められるままに、旭と瑞穂は躊躇いつつも座敷に用意された茵へ座る。

 その様子を静かに見つめた老婆は、皺深い両指を小さな膝の前でついて、二人へ向けて静かに額を伏せた。

「私は、星の守の祖母じゃ。ときと申す」


「——!

 なんと……星の守様の、おばあさま……『ときもり』様であらせられますか!」

 瑞穂は、大きく驚愕した眼差しで老婆を見つめ、がばりと額を深く伏せた。

「こ、この度は、思わぬ形で御目通りが叶いましたこと、この上なく有り難き幸せにございます……!」

「ほほ、そう改まらずとも良い。この通り、なんの力もない老婆じゃ」


「旭。このお方は、刻の守様だ。時の流れを司る尊い神だ」

 瑞穂にそう説明され、旭も改めて目の前の老婆を見つめる。ふわりと浮かんだ優しい微笑に慌てて思い切り深く頭を伏せ、何度となく覚え込んだ挨拶を述べた。

「は、初穂様の遺言を受け、この度雨神の城へ参りました、雨宮旭にございます。御目通りが叶い、恐悦至極に存じます!」

「ほほ。なんとも愛らしい若様じゃ。そう堅苦しゅうされず、膝を崩されよ」

 どこまでも温かく、優しい声。

 ふと、夏休みによく遊びに行った母方の祖母の笑顔を思い出し、旭の目の奥が一瞬熱く込み上げた。


 穏やかな佇まいの侍女二人が、茶と菓子の乗った盆を旭と瑞穂の前へ静かに据えた。

 熱い茶の香ばしさに、旭の緊張がほっと溶けていく。

 瑞穂は相変わらず硬い表情を崩さぬまま、茶の器を一口口に運んだ。


「——星の守の振る舞い、許してやってくだされ」

 不意に深く頭を下げてそう謝罪する刻の守に、二人は意表を突かれて顔を上げる。

「刻の守様、どうかお顔をお上げください」

 半ば青ざめる瑞穂に、刻の守は小さく呟いた。

「——あの者も、苦しんでおるのじゃ」


「……」

「年を経るごとに、酷くなってゆく。暑い暑いと、昼夜を問わず苛立ってな。侍医にも何ら手立てがないようなのじゃ。

 体の病なのか、心の病なのか——それすらもわからぬ。

 だから、あのように昼間から酒で苦しみを紛らわせては、乱暴な振る舞いばかり……その様子を黙って見ているしかないことが、歯痒くてならぬのだ」


 沈んだ声で俯く刻の守に、二人ともかける言葉を探しあぐねる。


 星の守を苦しめる病。

 暑い、暑いと……

 それは、もしかしたら——


 脳に浮かんだ一つの可能性に、旭の背筋がすうっと寒くなる。

 その恐怖感に、旭はひたすら唇を噛んで俯いた。


「そなたたちに話してもせんなきことじゃな。済まぬ。

 今日は大層疲れたであろう。そこに用意した菓子は、私の庭で採れた金柑きんかんを甘く煮詰めたものじゃ。召し上がれ」

 重い空気を切り替えるように、刻の守は朗らかに茶菓子を勧める。

「金柑……うわ、これ美味しい……とろっとして甘くて、めちゃくちゃ美味しい……」

 思わず漏れた旭の素直な言葉に、刻の守は心から嬉しそうに微笑んだ。

「そうか。それは良かった。

 ほんに心根の真っ直ぐな、愛らしいお方じゃ」

 そう呟くと、刻の守は表情を改め、瑞穂へと向いた。

 

「——瑞穂。

 もしもそなたが本当にこの若様をこそと望むならば、方法はなくはないのだぞ。

 それは、承知しておるな?」


「……

 承知しております」

 瑞穂は一言そう答えると、再び深く額を伏せた。







がいを、この障子の外へ呼びなされ。あと一刻ほどは、家臣たちは誰ひとりこの部屋には意識を向けぬ。安心なされよ」

 すいと障子を開け、刻の守は柔らかに微笑んだ。

 障子の外は、見渡す限り薄雲がたなびく夕闇だ。外から流れ込んだ空気の開放感に、旭は思わず大きく息を吸い込んだ。


 姿を隠す術を身に纏い、垓は刻の守の部屋の外へ音もなくその長い身体を寄せた。

 旭と瑞穂は、こうして漸く星の守の城を発った。



 垓の額で帰路の光に包まれながら、旭は今日星の守の城で起こった事について、少しずつ思考を巡らせ始めていた。

 それらの情報はあまりにも多いのだが、あまりにも強い緊張が続いたせいか、旭の脳はなんだかうまく回らない。


 ——この者に触れることは許さぬ。

 自分の顎を上向けた星の守の指が、何か強い力で弾かれた、あの瞬間。

 世継ぎを男姫に生ませるつもりかと問いかけた星の守へ、激しい怒りが放出された瞬間。

 美しい百合の精の存在と、これまでに多くの精や女神のアプローチが断られてきたらしい気配。

 そして……ついさっき、刻の守により告げられた言葉の意味。


 ……瑞穂は、俺のことをどんな存在と捉えているんだろう?

 初穂の遺言に従い、こなすべき仕事の一つとして俺を神の世へ迎えざるを得なかった……んじゃないのか?


 すぐ隣に座る瑞穂に、聞きたいことが山ほどある。

 なのに、どうにもうまくまとまらない。


「——今日は、済まなかった」


 ぐるぐると思考を混乱させる旭の横で、不意に瑞穂が呟いた。


「……え?」


 旭は、その端整な横顔を思わず見つめる。

 瑞穂は、視線を前方へ向けたまま、小さく言葉を繋いだ。


「星の守様との謁見のかんに起こった事、全てだ。

 そなたにとって、その一つ一つがどれほど屈辱的で、不愉快であっただろう」


 ……屈辱的?

 不愉快?

 屈辱的で、不愉快……だっただろうか?


 そんなことは、思わなかった。これっぽっちも。

 むしろ——


 むしろ、何だよ、俺?


 どうしよう。

 今、瑞穂に何と答えて……何を問いかけたらいいんだろう?


 今の気持ちを言葉にしてしまうのが、怖い。

 瑞穂からどんな言葉が返ってくるのかが、怖い。


 今、自分が何を考えているのかが、怖い。



「——……嫌じゃなかったよ、別に。

 ごめん、ちょっと疲れちゃって、少し眠い」


「……そうか。

 まだ到着まで間がある。私に凭れて眠ると良い」

「……ん」


 実際に、酷く疲れていた。

 彼に体重を預けてしまうのが一瞬躊躇われたが、その感情を維持する気力も結局尽きた旭は、重い瞼を下ろしながらその広い肩におずおずと頭を預けた。



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