圧力

「よう来たな」

 ごわつくような黒い髭に囲われた口元をにっと引き上げ、星の守は自らの茵にどかりと腰を下ろした。

 一段低くなった座敷にいる瑞穂と旭をギロリと見下ろすその眼差しに、旭は思わず目を逸らしそうになるのを必死に踏みとどまる。そういう僅かな粗相すら命に関わるのだ。


「そなたのことだから、また何度も催促せねば登城せぬであろうと思ったが、瑞穂?」

「——滅相もございませぬ。

 この度は星の守様のご招請に従い、取る物も取り敢えず馳せ参じました次第にございます」

「ほう、今日はまた随分と殊勝だのう。

 ああ、そうか。そなたの振る舞いによっては、大切な姫君にもお咎めが及ばぬとも限らぬからのう?」

「……」


 その会話を、旭は微かな違和感を持って聞く。

 これほど上位の神から何度も催促されるまで、普段の瑞穂は登城の招請に従わない……そういうことか? 

 公務にこれほど真摯に取り組んでいるはずの瑞穂が?

 ……で、星の守の言った「大切な姫君」って……俺か?? 

 一気にいろいろな感情が脳内に散らかるが、今は取り敢えず自身の所作に全力集中しなければ。旭は一つ小さく息を吸い込み、気持ちを切り替える。


「まあよい。

 書状にも書いたが、此度こたびそなたを呼んだのは、人の世より召し上げたくだんの姫君に、是非一度お目にかかりとうてな」

「星の守様。姫ではなく、おのこにございます」

「ああ、わかっておる。

 そち、名を何と申す」

 腹の底を振動させる太い声と深紫こきむらさきの眼差しが、こちらを向いた。

 旭は鴉とのリハーサルを必死に思い出しつつ、背筋に真っ直ぐ芯を保たせながら膝の前に両指をつき、深々と額を伏せた。

「——雨宮 旭にございます。この度は御目通りが叶い、恐悦至極に存じます」

「旭殿か。良き名だ。

 顔を上げられよ」

 言われるままに、頭を上げる。たおやかに、凛々しく。どれだけ恐ろしくても、怯えてはいけない。


「……」

 旭をじっと見つめた星の守は、おもむろに立ち上がった。黄金色の袴の歯切れ良い衣擦れの音が、静まった広間に響く。

 おおいなる神が、真っ直ぐにこちらへ歩いてくる。

 まさか。鴉とのリハーサルでも、こんな予定はなかった。上位の神が上段の座敷を降りることはまずないと、そう言っていたのに。

 隣に座る瑞穂から発せられる険しい気配をビリビリと感じつつ、旭は小さく肩を震わせる。


 星の守は、旭の目の前まで来ると無造作にしゃがみ込み、旭の顎に指を掛けてすいと上向けた。

「——美しいのう。

 瑞穂が雲上から下界のそなたに狙いを定めたのもようわかる」

 間近で見つめる底なしの瞳に、意識が吸い込まれそうになる。

 その瞬間、旭の顎に小さく鋭い気配が走った。微細な電気が走るような。

 同時に、何かに強く弾かれたかのように星の守の指が旭の顎からスッと引かれた。

 そして、旭を捉えていた深紫の眼差しは、今度はゆっくりと瑞穂に向けられた。

「……瑞穂、何を怒っておる?」

 瑞穂は、深く額を伏せて星の守に答える。

「恐れながら申し上げます。

 この者は、生身の人間にございます。星の守様の強い気が直接触れては、そのものにとってさわりになる場合があることは重重ご承知のはず」

「ふふ、大袈裟だのう。

 はっきりと申せば良いものを。この者に触れることは許さぬ、と」

 星の守はなぜか楽しげにそう呟くと、再び旭を向いて柔和に微笑む。

「旭殿。このような堅苦しい者のそばに居っても、息が詰まるだけであろう? 雨神の城などでて、わしの城へ来ぬか? さすれば、そなたに千年命の延びる酒を進ぜよう。どうだ?」

 ふっと、星の守の息から、強い香りが漂う。

 ——酒……?

 ひのきの香を濃縮したような、かぐわしくも脳の奥深くを刺す香り。

 絡みつくような甘い芳香に、旭は一瞬強い眩暈を催す。


「——……旭!」

 旭の様子の変化に気づいた瑞穂が、狼狽を露わにして呼びかける。

 その声にふっと意識を引き戻した旭は、顔を上げると真っ直ぐに星の守を見つめた。


「星の守様。

 せっかくのお誘いではございますが、私は貴方様のお城へは参りませぬ。

 私が雨神の城を出ることなど決してないと、貴方様は百も承知でございましょう?」


「——……」

 凛と揺るがぬ旭の言葉に、星の守も瑞穂も呆気に取られる。


「……はははっ……!!

 これは天晴れじゃ! このまま人間にしておくのは勿体無いのう」

 星の守は心底楽しげに笑いながら、勢いよく旭の前から立ち上がった。

 その空気の変化に、旭ははっと己を取り戻す。

「かように物怖じせぬ剛気ごうきな姫君は、全く以て初めてぞ。尻に敷かれぬよう気をつけよ、瑞穂」

「——……かたじけなきお言葉にございます」

 大股に自らの茵へと戻っていく星の守へ向けて、瑞穂ががばりと大きく額を畳へ伏せた。

 その肩が、小刻みに震えている。

 旭も慌てて手をついて深く頭を伏せながら、ひたすらに考える。

 ——ってか、何やってんだ俺!? 

 もしかして今の、どう考えても完全にアウトな言動だったろ……!?

 瑞穂も、あんまりやばい振る舞いで俺がどうなるか、心配だったんじゃないのか……だから、あんなに肩が震えて?


 ぐるぐると激しい渦を巻く旭の脳内にストップをかけるように、再び前方から星の守の声が響いた。

「良い。双方とも、顔をあげよ。

 ——ところで、瑞穂。そなた、例の娘とはその後睦まじく過ごしておるか」


「……」


「あの大層美しい、何の精であったか……」


「——百合の精にございます」

「おお、そうだ。確か、かのこと申したな。

 穏やかだが芯のある娘で、そなた好みではないかと思うて引き合わせたのだが……息災にしておるか?」


「——……

 のお方は、既に私の元をにましてございます」


「なんと?」

 星の守は、大袈裟なほどに驚いた表情を作った。

「また、素っ気なく捨てたと申すか。

 これで何度目と思うておる。そなたに密かに想いを寄せる精や女神が山ほどおると言うに、相変わらず冷淡な男よの。

 そなたもそろそろ世継ぎのことを考えねばならぬよわいであろう?

 ……それとも、ようやく城に迎えた美しい男姫に生まそうと申すか?」


 ぎり、と、瑞穂の奥歯が音を立てた気がした。

 雨神の発するただならぬ怒りの気配に、旭は思わず青ざめる。

 その気配を察してか、星の守は俄かに声音を和らげた。

「……まあ、ここでそなたを急き立てても、どうにもならぬの。雨神という重責を担う世継ぎのことじゃ、じっくり考えると良い。

 今日は大層楽しかったぞ。またいつでもお越しくだされ、旭殿。

 ああ、それから」

 広間を出るために立ち上がりながら、星の守は瑞穂へぐっと強い眼差しを向けた。

「今後、梅雨の間の公務は毎日我が城に登城して行うように。

 良いな、瑞穂」



 大股な足音と共に、彼の気配が広間から遠ざかる。

 金縛りを解かれたかのように、旭の全身から力が抜ける。額をまだ伏せたまま、ふうっと長い息を吐いた。城の従者にその気配を感づかれないよう、ほぼ無音で。

「城門までお送りいたします。こちらへ」

 まだ気は抜けない。従者に促されて茵を立った瑞穂に続き、旭もカクカクと力の抜けそうな膝に鞭を打ちつつ何とか立ち上がった。







 従者につき、磨き込まれた長く黒い廊下を静かに歩く。

 城の中はひんやりと薄暗く静まり返り、家臣の気配などどこにも感じられない。それなのに、城を出るまでは僅かも隙を見せてはならぬという警告音が自分の中で絶え間なく鳴り続ける。迷路のような廊下は、果てしなく続くかと思われるほどに長い。前を行く瑞穂のサラサラと揺れる銀髪をひたすら見つめ、旭は底知れぬ恐怖心を紛らわせた。


「——待ちなされ」


 ふと、通りかかった襖の奥で、声がした。

 小さくしわがれた声が、なぜか耳元にはっきりと響いた。

 瑞穂にもその声が聞こえたようで、旭と同時にふと足を止めた。


「……」

 瑞穂と旭は、僅かに視線を合わせる。

 少しでも不審な行動をすれば、二人を先導する家臣に間違いなく怪しまれる。

 なのに、鋭い目をした抜け目なさそうな家臣は、全く何事にも気づかないかのようにそのまま廊下を進み、やがて廊下を折れて歩き去ってしまった。どうやら、先ほどの声の主により何かの術にかけられたようだ。


 二人だけになった廊下で、声のした部屋の襖が音もなく開く。


「ようお出でなさった」


 襖の奥は、廊下の暗さとはまるで別世界のような明るく暖かい日差しに満ちていた。

 その温もりに包まれるように、一人の小さな老婆が座敷の茵にちょこんと座っている。


「さ、お二人とも。入りなされ。茶と菓子でも差し上げましょう」


 優しい眼差しで二人を見つめ、老婆はにっこりと微笑んだ。



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