目を開けると、美しい木目の天井がぼんやりと視界に映った。

「——お目覚めですか、旭様」

 横を見ると、鴉が枕元で微笑んだ。

 今の自分の状況を漸く把握し、旭は慌てて上半身を起こした。

「……え! 俺、寝ちゃった……?」

「はい、半刻ほど眠られました。

 無理もございませぬ。全く見知らぬ世界にお越しになり、こちらの世の空気にもまだお身体が慣れていないのですから。加えて緊張やお疲れもあり、わずかの酒でも酔いが回ってしまったのでしょう。

 ご気分は如何ですか?」

「うん……もう大丈夫みたい」

「この後御目見の儀がございますが、もしもご気分が優れぬようであれば……」

「んー、そういう大事な仕事はどんどんやっちゃった方がいいよな? 頭痛や怠さもないし、予定通りやれそうだ」

「そうですか。ならば安堵いたしました」


「……瑞穂は?」

「瑞穂様は、午後の御公務に戻られました。先ほどまで私と一緒にここに付ききりだったのですが、諸々のお役目を容易に反故にはできませぬゆえ」

「そっか……」


 どこか虚ろに眼差しを宙に浮かべた旭の様子を窺い、鴉は静かに指をついて額を伏せた。

「こちらに、梔子くちなしの花の茶をご用意いたしました。気分が和らぐ効用がございますので、よろしければお召し上がりください。

 御目見の儀までには、あと一刻いっとき(2時間)ほどにございます。私は別室に控えておりますので、ご用の際は何なりとお声をおかけくださいませ」

「うん……いろいろ、ありがとう。鴉」

 鴉は少し驚いたような顔になり、嬉しそうに微笑んだ。

「従者として当然の仕事をしているだけにございます。

 ですが、そのような労いのお言葉をかけていただけるのは、やはり嬉しいものですね」


 ひとりになった静かな部屋で、旭はぼんやりと枕辺に目を向けた。美しい絵付けの施された急須と湯呑みが、黒い漆塗りの盆に乗せられている。

 急須を手に取り、湯呑みに傾けると、ふわりと柔らかな湯気が立った。山吹色をした茶から、爽やかな花の香りがいっぱいに立ち上る。

「……すごい、いい香り……」

 一口茶を口に含み、その香りの高さに驚愕する。まさに天上の味わいだ。

 ふうっと、思わず大きな息が一つ胸から吐き出された。体内の淀みの排出を促すデットクス効果などもあるのかもしれない。


 意識が少し冴えたようだ。改めて室内を見回す。広さ的には8畳ほどだろうか。こじんまりとした部屋で、午後の外光が障子越しに柔らかく入り込む明るい一室だ。壁際には小さな黒い文机が置かれている。この部屋のサイズ感とシンプルな調度品に、なんだかほっと心が安らぐ。

 ふと、外の空気が欲しくなり、旭はとこから立ち上がった。和装の布は重く動きにくいが、先程の目眩はもう治まっている。

 美しい和紙のぴんと貼られた障子の木枠に指をかけた。す、と滑らかな感触と共に、静かに障子が開く。

 その外に広がった風景に、旭は思わず目を見張った。

 

 朝方は靄に包まれていた遠景が、よく晴れて澄んだ空気の中に今は遠くまで見渡せる。城はかなり高台にあり、城の周囲は深い森に包まれている。森を抜けた先に見渡す限り広がる、瑞々しい田畑。苗の植わった田の水面が日差しを受け、キラキラと細やかに輝く。簡素な茅葺かやぶきの小さな家々が、其処此処に穏やかな佇まいで建っている。

 梅雨の晴れ間の爽やかな風が、頬を心地よく撫でていく。


「……瑞穂の言った通り、本当に最高の見晴らしだな……」


 その美しい風景に一つ深呼吸をしながら、旭は先ほど起こった出来事を再び思い返した。


 ——突然脳内に響いた、あの声。


 自らの生い立ちを語りながら俯く瑞穂に囁きかけるかのような、澄んだ美しい声。

 あれは、一体誰のものだったのか。


 あなたには、私がいる。

 やっと、ここに戻ってこられた——。


 あの声の主は……


 囁きの内容を考えれば、一人しか思い浮かばない。

 さよだ。

 同時に襲ってきた、どうしようもない切なさ、悲しみ……胸の底から溢れ出るような愛おしさ。

 これまでの自分自身の感情とは全く違う、喉を掻き毟るほどの甘い渇望。


 あれは……

 自分の中で目覚めたさよが、瑞穂を——瑞穂の中の初穂を、探し求めているのか?


「——……」


 すっと背中が寒くなる感覚に襲われ、旭は何かを追い払うように頭をぶんぶんと左右に強く振った。


 そんなはずはない。そんなこと、あるわけがない。

 いや、やはり、疲れと酒のせいだ。

 神の世界の酒なんて、よく考えればある意味やばい飲み物じゃないか。少しの量で何か幻覚や幻聴みたいな現象が起こることだってあるかもしれない。

 それに、俺は人の世でさえ酒などまともに飲んだことなどなかったんだから。

 初めて飲む酒が神の酒で、しかもあんなに美味いのを一気に呷ったら、誰だって正気を失う。そう、あの梅酒のせいだ。


「あーー、さっきのことはもう忘れろ!! 今後一切酒を飲まないことにすれば、もうあんなことは起こらないって!!」


 自分の中に沸きかける不安を必死に打ち消しながら、旭はもう一度澄んだ外気を思い切り肺に吸い込んだ。







 申の刻。人の世の言い方をすれば、午後四時。

 城内の大広間にて、御目見の儀が行われた。

 瑞穂の後について大広間へ入った旭は、前方の一段高くなった座敷に敷かれた二枚のしとねに瑞穂と並んで座った。この儀式でやるべきことは前もって鴉に全て教わり、一応鴉を相手に何度もリハーサルをやってはきたが、とりあえず緊張でガチガチである。


「皆の者、大義である。

 これより、御目見の儀を執り行う」

 瑞穂のよく通る声が、静まった広間の隅々まで届く。

 青や紺、鳶色などの羽織袴の男達と、とりどりの小袖姿の女達が約半数ずつ、合計百人程だろうか。皆礼礼儀正しく畳に指をつき、深く頭を下げて主に敬意を表する。


「面を上げよ。

 この者は、先々代雨神である初穂の遺言を受けてこの度人の世より参った、雨宮旭と申す。かつてのさよとは違い、人の世では男子として過ごして参った。それ故、こちらの世でも男子として過ごすことを望んでおる。今後は私同様、この城の主と思って仕えるように」


 大勢の家臣たちの眼差しが、一斉に旭へ向けられた。

 ビリビリするような強烈な緊張感が全身を走る。旭は必死に鴉の指示通り肩の力を緩め、瑞穂の言葉に続けて挨拶を述べるべく息を吸い込んだ。

「初穂様の遺言を受け、これからこの城で過ごすことになりました雨宮旭にございます。どうぞよろしくお願いします」 

 鴉から教えられた言葉遣いはなんともたおやかで優しげだ。城内での自身のポジションを明確にする最重要の儀式ともなれば、底力的なものが出るのだろうか? 自分の唇から出たそれらしい声に我ながら驚く。広間に集まった家臣たちの空気が微かに変わった。

 広間の静けさを破り、最前列の中央に座っていた大柄の男が、太く響く声を放った。

「旭様。この度は晴れて御目通りが叶いましたこと、恐悦至極に存じます。

 私は、この城の家臣の元締役の熊と申す者にございます。御用の際はなんなりとお申し付けくださいませ」

 壮年という年頃の、たくましい体つきをした男だ。意志の強そうな眼差しを真っ直ぐに向けられ、旭の背筋は一層ギリギリと垂直に立ち上がる。

 どれだけ緊張しても決してたじろいだ気配を出してはなりません!という鴉の厳しい助言が脳内に蘇る。

 泳ぎそうな視線に力を込め、旭は真っ直ぐに熊を見つめ返して小さく微笑んだ。

「熊、お役目ご苦労様です。この城のことはまだ何も知りません。色々と教えてもらえれば助かります。どうぞよろしくお願いします」

 どうやら大きな粗相なく返事ができたようだ。リハーサルで教わった通り何とかやれてるじゃんか! 心の中で小さくガッツポーズを作る。

「旭様。私どもは、貴方様がこの城で瑞穂様と共に恙無つつがなくお過ごしになれるよう、日々力を尽くしてまいります。どうぞ末長く、お心安くお過ごしくださいませ」

 熊の礼に続き、広間の家臣たちが再び深く額を伏せた。


 熊の言葉に、旭の心がふと動かされた。

 今朝からの心のこもったもてなしの礼を、ここで従者たちに伝えたい。今言わなければ、従者全員に感謝を伝えるチャンスなんてそうそうないだろう。鴉と繰り返したリハーサルを少し外れるが、思い切って旭は口を開いた。

「今朝この城に参りましたが、和装への着替えや化粧、食事、どれも深い心がこもっていることに驚き、その心遣いがとても嬉しく思いました。この城のために私にもできることがあれば、何か少しでも役に立てればと思っています」


 熊は、暫し額を伏せたまま押し黙ったが、再び顔を上げ、旭に向けて徐に言葉を発した。

「——旭様。そのようなお心遣いは一切無用にございます。

 我々の最も大切な仕事は、かつてのさよ様のような惨いことにならぬよう、貴方様のお命を守ることにございます。我々へのお気遣いなどよりも、旭様におかれましては、瑞穂様のお力で幾重にも守られた天守の最上階のお部屋をできる限りお出になりませぬよう、ひとえにお願い申し上げます」


 広間の空気は、しんと静まりかえり、どこか冷ややかなほどだ。


「……」


 返す言葉を選び兼ね、旭はただそのまま黙すしかなかった。


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