水の匂い

「御目見の儀、大変お疲れ様にございました。

 こちらに焙じ茶をご用意いたしました。夕餉まで一刻ほどございますので、それまでお休みくださいませ。夕餉の支度が整いましたらお声をおかけいたします」

 本殿の大広間での御目見の儀を終え、天守の間へと戻ってきた瑞穂と旭がそれぞれの茵に落ち着いたことを見届け、鴉は静かに額を伏せて部屋を出て行った。


「疲れたであろう、旭」

「ん、大丈夫。ってか緊張がすごくてまだ体が強張ってる感じがする」

 首をギシギシ左右に倒しながら苦笑いする旭を、瑞穂はじっと見つめた。


「——そなたの先ほどの熊への言葉は、鴉から指示があったものか?」


 瑞穂の問いかけに、旭の表情は再び微かに硬くなった。


「……違うよ。

 自分で言いたくなった言葉だ。リハーサルにはなかったけど、一言お礼を伝えたくて。

 ——もしかして、予定外のことを口にしたりするのはNGだった?」

「そうではない。

 そなたの労いの言葉は、私にとって何よりも嬉しかった。心から、礼を申す」

「そっか。失敗じゃないならよかった。

 あの時の広間の空気、微妙にひんやりしちゃった気がしてさ。一瞬かなり焦ったんだ」


「……」


「まあ、でもよく考えれば、あんな大勢集まった大事な儀式で俺が変なアドリブ入れたりしたのがまずいよな。あの元締役の熊さんも、急に予想外のこと言われて困った様子だったし。やめればよかった、ごめん」

「それは違う。そなたが反省することではない」

 思わず口を突いたように、瑞穂は強い語調で旭にそう返す。


「旭、済まぬ。

 そなたの優しさに、あのような答えしかできぬ家臣たちを、許してやってほしい」

「え、神様に頭下げられるとか、俺どんだけよー」

「私は本気で謝罪しているのだ、旭」

「……」


 真摯に頭を垂れる瑞穂に、旭は戸惑いながらもぽつぽつと答える。


「…………瑞穂が最初に言ってたことの意味、だんだんわかってきたよ」 


「……」


「いきなり俺の部屋に来た日の夜、『私を信じて欲しい』って、瑞穂言ってたよな。

 実際にここの空気を吸ってみて、その意味がはっきりしてきた。

 この世界で、自分が一体どんな存在か、少しずつ理解できてきたんだ。

 かつてさよがここにやってきて何を残したか……それを思ったら、俺だって新たな人間を笑顔で受け入れる気には多分なれない。

 やっぱり、俺はここで瑞穂だけ信じて、瑞穂の傍にいれば安心なんだって、素直にそう思うことにしようかな」


 何とか笑顔を作ってそう言い終えた途端、旭は強い力で大きな袂の中に引き寄せられた。


「旭。

 天守の外がたとえどうであっても、ここでだけは——この天守でだけは、今までと変わらぬ旭でいて欲しい。

 いつも笑顔で、誰に対しても分け隔てなく温もりを分け与える、そのままの旭でいて欲しい」


 自分を胸に抱き寄せているはずの雨神が、何故か必死に願いを訴える少年のようで、旭は目の奥に突き上がるものをぐっと胸へ押し戻した。


「大丈夫だって。こういう単純キャラは治せって言われたって治らない」


 瑞穂の白銀の羽織の胸から顔を上げ、旭はいつもに増して明るく笑って見せた。

  






 定刻通り夕餉が運ばれてくると、疲れでぐったり気味のはずの旭の食欲はまたしっかり元気を取り戻した。メニューはツヤツヤの白飯に大根の味噌汁、猪肉の味噌焼き、じゃがいもの煮転がし、胡麻豆腐、胡瓜と柚子の酢の物など、相変わらずどれも目の覚める美味さだ。わふわふとひたすら料理を平らげる旭を楽しげに眺めながら、瑞穂は小さな土瓶から透明の酒を朱塗りの猪口に注ぎ、静かに口に運ぶ。

「若者の食べっぷりは大層気持ちが良いものだな」

「……あ、ごめん。食べるのに集中し過ぎてさっきから一言も喋ってない……」

「はは、それで良い。こうして美味そうに食べてくれるそなたの姿に、私も幸せをもらっているようなものだ。

 まあしかし、そんなに慌ててかき込まずとも良かろう。酒もあるぞ。これは水のように澄んだ飲み口の米の酒だ」

「え!? いやあーちょっと酒は当分やめとこうかな!」

「ん、昼の酒で懲りたか?」

 小さく微笑んだ瑞穂が、微かに酔いを纏った眼差しで旭を見る。

 酒の話題とその艶めいた表情に、不意に旭の脳に昼間のことが鮮明に蘇った。

 堪らなく甘い感情に絡みつかれた、あの瞬間。

 突然、このとろりと仄明るい夜の空間に瑞穂とふたりきりでいることが強烈に意識される。


 ——もしもあの瞬間、激しい感情の流れに身を委ねていたとしたら……

 もしも今、さっきのように、彼の温かい胸に引き寄せられるとしたら——


 い、いや何で急にそうなる??

 パニクるな! あれは酔いが原因の脳のバグだってば、もう忘れろ!!

 そんなことを思えば思うほど、目の前の男神は妖艶に美しい。


「……っ、誰のせいで酔ったと……」

「いや、済まぬ。昼間は私の不用意であったな。もう無理に酒は勧めぬゆえ安心せよ」

「……」


 どうやら内心の動揺は気づかれずに済んだようだ。

 そうだ、早く遠ざかれこの錯覚!

 心臓の暴走を鎮めるべく、旭は味噌汁の残りを一気に喉へ流し込む。


「ところで、そなたに話しておかなければならないことがあってな」

 ことりと猪口を膳に置き、瑞穂は懐に手を差し込むと、大きく立派な封筒らしきものを取り出した。

 和紙を美しく折り畳んだ封筒の表書に、見事な筆の文字がしたためられている。


「今朝、私の元に届いた書状だ。我ら諸々の神を統括する立場の者からだ」

「え……神を統括?」

「そう。大きな力でこの星を支配する神だ。星のもりと呼ばれておる」

「星の守……」

「彼の城へ、そなたを連れて参上するようにとのお達しだ」

「え……そんな強力な神様が……なんで?」

「今回のような重要な事柄は即座に報告せよとのことだろう。さよの時は、初穂はそのことを公にしなかったのでな」


 先ほど大広間で味わった寒々しい感覚が、旭の背を再び駆け抜ける。

「……そんなにも偉い神に会うなんて……

 もし、また今日みたいな空気になったら……」

「案ずるな。

 そなたのことは、私が守る。どんなことがあっても」


 事もなげにそう言い、瑞穂は真っ直ぐに旭を見つめる。

 その眼差しに、旭の心臓が再びおかしなリアクションを開始する。

 頭の芯がじわりと熱くなるようなこの不可解な感覚を、今すぐ何とかしなければ。苦し紛れに、思わず掌でバタバタと頬を仰いだ。

「……あ、うん。

 ってかなんか暑いよな?」

「この時期は、とかく蒸すからな。

 ああ、そうだ。この扇をそなたに贈ろう」

 ふと思いついたように、彼は懐から美しい濃緑こみどりの扇を抜き取り、旭に差し出した。

 細やかな彫りの施された白木の親骨を開いてみると、瑞々しい野山に静かに雨の降る美しい絵柄が現れた。


「重宝な扇だ。夏場に軽く煽げば涼風が吹き、冬場には温もった風を運ぶ」

「……綺麗な扇……こんなに立派なもの、いいの?」

「そなたのそばに置いて貰えるならば嬉しい」


 軽く煽ぐと、ふわっと優しい香りが頬を撫でた。

 瑞穂の纏う、水の匂いだ。


 その香りに一層乱れる心拍をもはやどうにもできないまま、旭は見せられないものを隠すように顔の前ではたはたと扇を煽ぎ続けた。

 


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