母の酒

 廊下を歩く足音が近付いてきた。

「鴉、変わったことはないか」

「はい、旭様のお召し替えも、滞りなく済みましてございます」

 襖の外で、瑞穂と鴉の話す声がする。

 旭は先程鴉に教わったことを脳内に繰り返しつつ襖に向いて正座し、姿勢を正した。この世界へやってきて最初の仕事だ。失敗はできない。


 さらりと襖が開いた。

 爽やかな水の気配が部屋へ流れ込む。

 それに合わせ、旭は畳に両手の指を揃えてつき、深く額を伏せた。

「御公務お疲れ様にございます、旦那様」


 室内へ一歩入った瑞穂は、旭の挨拶と佇まいの変身ぶりに一瞬ギクリと身体を硬直させ、大きく目を見開いた。


「——……」


「……あれ? なんか今、間違ってた?」

 無言の瑞穂に、旭は慌てて顔を上げ、あわあわと戸惑う。

 朝方とは打って変わった凛々しくも匂やかな化粧と、慌てるその表情のギャップに、瑞穂は笑みの漏れ出す口許を思わず袖で覆った。


「……いや、間違えてはおらぬ。ただ、少し驚いてな。

 ——まばゆいほどに美しい」


 瑞穂の言葉に、旭は一気にぶわっと頬を赤らめた。

「っ! あーー、そういうのナシで!!」

 目を細めるように自分を見つめる視線を濃紺の袖で遮りながら、旭はますますわたわたと取り乱す。ガチな神にこんなふうに愛でられるとか、むしろ寿命が縮むっての!!

 その時、襖の外から鴉の声がかかった。

「昼餉のお支度が整いました。御膳をお運びしてよろしいでしょうか」

「ああ、頼む」

 瑞穂の柔らかな声に、襖がすいと開き、小袖姿の美しい女房が二人、昼餉の膳を捧げて部屋に入ってきた。黒の漆で塗られた美しい膳が、向かい合わせに座った瑞穂と旭の前に静かに据えられた。

「本日の献立は、白飯、野菜の汁物、菜の花の胡麻和え、川魚と木の芽の揚げ物、里芋の煮物、甘夏の葛寄せにございます。

 お食事の際はお人払いを致しますが、ご用の際は襖の外へお声をおかけくださいませ」

 そう告げると、鴉は指をついて頭を下げ、すいと襖を閉じた。


「……すごく、綺麗だな」

 目の前の料理の美しさに、旭はまじまじとその一品一品を見つめる。

「料理人達が腕によりをかけて作る品だ。満足してもらえたら良いが」

「いや、もう、料理に込めた思いが伝わってくるというか……この食材はどれも、神の世でとれたものなのか?」

「そうだ。

 これらは皆、下界で生を全うした生き物たちの『精』だ」

「精……?」

 旭の問いかけに、瑞穂は優しく頷く。

「精とは、言い換えれば、魂だ。

 下界で穏やかに命を終えた生き物たちの魂は、こちらの世へ来てからも迷うことなく川や野山に棲みつき、静かに過ごしておる。食うことにも食われることにも疑問を持つものはおらぬ。それらの魂たちを必要な数だけ貰い受け、こうして日々の我々の糧にさせてもらうのもまた当然のことだ」

 料理の盛られた皿を見つめ、瑞穂は静かな表情でそう話す。


「——……そうか。

 食べることって、当たり前すぎて、今までそういうのちゃんと考えたことなかったな……」

「こちらの米は、大層美味いぞ。清らかな水で育ったものだからな」

 黒い漆塗りの美しい器には、白飯が形よく盛られ、米の一粒一粒が瑞々しい輝きを放ちながら柔らかな湯気を上げている。その横には、色鮮やかな野菜を具にした澄んだつゆの汁物。長方形の美しい焼き物の皿に盛られた、ふわりと黄金色の衣を纏った揚げ物。胡麻和えの美しい緑と、艶やかに煮上がった里芋。甘夏の葛寄せの唾液を誘う橙色。空腹も相まって、旭の食欲が猛烈に刺激される。


「では、冷めぬうちに。頂きます」

「頂きます」

 瑞穂の声に続けて、旭も祈るように食事に感謝を捧げ、美しい膳に向き合った。


「…………うま……」

 どの料理も、言葉を失う旨さだ。米の甘味の澄んだ深さは、まさに驚愕の一言だ。汁物の出汁は香り高く、川魚や木の芽の纏う美しい衣はサクサクと軽く、和え物も煮物も深い滋味に溢れている。無駄な香料や調味料の一切使われていない、材料そのものの香りや旨みの豊かさ。あっという間に器が綺麗に空になり、デザートの葛寄せの爽やかな酸味に、あろうことか膳のおかわりを申し出たくなる。

「……なんで、こんなに美味いんだ?」

 もはや茫然とする旭の表情に、瑞穂は嬉しそうに微笑んだ。

「喜んでもらえたならば良かった」

「毎日こんな美味いもの食べたら絶対太る……」

「はは、太ることはない。精を食しておるのでな。

 そうだ。旭、これを飲んでみよ」

 瑞穂はふと立ち上がり、祭壇の奥に置かれた白い首長の壺と漆塗りの杯を手にして膳へ戻ってきた。壺の栓を取り、中のものを杯二つに静かに注ぐ。明るい琥珀色をした液体だ。


「これは?」

「酒だ」

「え、酒って二十歳までダメだろ?」

「そなたは先日十七歳になったであろう。こちらの世では、十七が一人前の区切りでな。酒も十七歳から許されておる」

「……本当にいいの?」

「安心せよ。そう強くはない酒だ」


 美しい朱塗りの杯を、旭は恐る恐る口に運ぶ。

 なんともふくよかで芳しい香りが、鼻と口にふわりと広がった。絶妙なバランスの甘みと酸味の心地よさに、ふっと心が和らぐ。

「……梅……」

「そう。梅酒だ」

「……」


 その滑らかな口当たりは、これまで経験したことのない甘い幸福感を運ぶ。もはやその感想を述べることも忘れ、旭は杯を飲み干した。


「それは、私の母の酒だ」

「え?」

 瑞穂の言葉に、旭は思わず顔を上げた。


 杯を一口口に運び、瑞穂は静かに言葉を続ける。

「私の母は、薄紅うすべにという名の、梅の花の精だ。

 多くの神々は、子をなすべき齢になると、山野に生きる精たちから相応しい相手を選び、夫婦めおとのように過ごす。母も、私の父が選んだ美しい精だった」

「……薄紅……さん……お母さんは、今は?」

「精たちの命は、そう長くはない。神に比すれば瞬く間だ。

 母のことは、幼い頃の記憶にしか残っておらぬ。だが、その温もりや微笑みの記憶は、今も私の宝だ。

 母が世を去った後も、私は城の女房や従者達に愛情を注がれ、不自由は何もなかった。しかし、寂しさは拭えなくてな……その度に、珠の中に母の面影を呼び出しては、じっとその姿を見つめた。そうしていると、寂しさが溶けて消えていくのだ」

 瑞穂は、どこか寂しげに微笑み、静かに盃を口に運んだ。

 家族との絆の切れた自分自身の寂しさと重なり、旭も俯いて口をつぐんだ。


「私の父——芳穂よしほは、親の愛情を充分に身に受けずに育った。そのせいなのか、父の生き方は自ら孤独を選ぶかのようだった。

 自分自身のことを愛さず、家族さえも深く愛さず、自らの神の任務にも真剣に向き合おうとはしなかった。私も、父との思い出は数えるほどしかない。

 母は、この城の中で一人で私を育てながら、どれだけ孤独な時間を過ごしたか」

 瑞穂の瞳が、夕闇の中の湖のような暗い色を湛える。


「……瑞穂のお父さんが、親の愛情を充分受けずに育ったって……なぜ?」


「芳穂の父親である初穂は、さよを失った後も、さよの面影を忘れることができなかったのだ。

 その後、初穂と夫婦となって芳穂を産んだ母親は、神の山に咲く藤の木の精だった。だが、初穂は妻を深く愛することも、自分の息子に深い愛情を向けることもしなかった。藤の精は、芳穂を産んで間もなく、孤独に枯れていくように命を終えたという」


 さよという人間が、雨神たちに及ぼしたもの。

 その大きさと重さに、旭は息を呑む。


「芳穂は、父に抱きしめられることもなく、女房たちに日々の世話をされる以外は、この広い城の中で一人きりだった。酒ばかりを飲み、信頼の置ける従者を側に置くこともしなかったようだ。

 芳穂は、私が十の齢を迎えて間もなく、何も告げずこの城から姿を消した。

 不在となった雨神の任は祖父の初穂が行う他なく、私は十七になるとすぐに神の座を引き継がざるを得なかった。今から百年程前にな。

 ——父は今、この城から遠く北に位置する山中の沼の底にいる。沼の主の大鯉となってな。

 もう二度と、水面に浮かび上がってくることはないであろう」


「……」


 俯き気味に言葉を紡ぐ瑞穂の話を聞き終えた旭の脳と胸の奥が、不意にじわりと熱を持った。


 ——もう、大丈夫。

 あなたのそばには、私がいる。


 脳内に不意に満ちた声に、旭ははっと顔を上げた。

 酒のせいか、視界がふわりと回る。


 なんだ、今の声は?

 誰の声だ?


 鈴を振るような、澄んだ声。

 周囲を見回すが、誰がいるわけでもない。

 再び、同じ声がした。


 ——やっと、ここに戻ってこられた。


 激しく混乱する思考をどうすることもできず、旭は目の前の瑞穂を見つめた。

 自分を包むその懐かしい眼差しに、理由もわからないまま涙が溢れ出ようとする。


「……あ……」


「旭?

 済まぬ、酒が効いてしまったか?」

 目眩を覚えた旭に、瑞穂が慌てたように腕を差し伸べた。


 その腕の中に身を投げ出し、我を忘れて縋ってしまいたい。

 強烈なその衝動を、旭は必死に抑え込んだ。


「——い、いや、大丈夫……なんでもないから……」

「本当か?

 とにかく、少し休むと良い。御目見の儀式までにはまだ間がある。

 鴉! 鴉!!」

 瑞穂は旭の肩を支えるようにしながら、襖の外へよく通る声を放った。

「お呼びにございますか、旦那様」

「旭が少し酒に酔ったようだ。御目見の儀まで休ませてやりたい。とこの仕度を頼む」

「かしこまりました。

 あの、床のお仕度は、どちらへ?」

 顔を上げ、鴉は主にそう問う。


「——無論、別室にだ」

 瑞穂はぐっと睨むように鴉を見返した。


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