05『サラマンダーの火酒』

 早朝。綺光きみつはトランクを手に、あるところに向かっていた。

 太陽がようやっと顔を出し始めた空のもと、大通りをそれて坂をのぼる。銀色の髪が白い光に煌いていた。恰好はいつのモノクロのそれではなく、くすんだピンク色の、ニットのワンピースだった。足元は相変わらず黒い厚底ブーツであったけれども。

 坂の途中には斜めに建った家屋があった。入り口と思しき場所には頭上に手書き文字で『だがしや・からくれない』と書かれた看板がかけられていた。

 綺光は引戸を軽くニ、三度叩いた。引き戸はがしゃんがしゃんと甲高い金属音で喚いた。数秒後、引戸ががらりと開いた。

 なかから出てきたのは二本の赤い角を生やした男だった。黒髪に赤と金の双眸。白目の部分がすべて真っ黒だった。着物を素肌に二枚羽織って、下半身は色褪せたジーンズだった。足元は下駄を履いている。

 見知った男によく似ているが別人だ。彼は〝虚食うろはみ紅蓮こうれん〟と呼ばれている。


「ごきげんよう、蓮兄さん」

「――ああ、綺光」


 綺光を見て紅蓮が微笑んだ。


 なかは駄菓子を売る場所と居住区が一緒になっている。三和土たたきのような盛り上がった場所で区切られていて、ちょうどその区切りの部分に綺光と紅蓮は腰を下ろしていた。

 紅蓮にはひとの腕というものがない。二の腕あたりから黒い羽毛にびっしりと覆われていてそれが背中のほうに回っている。この翼は繊細な動作が――手の指でやるようなことがなにもできない。だから代わりに無数の空中に浮かぶ手がある。


「蓮兄さん、こちらが事前にご連絡していたものでございます」

「朝早くからすまんな……ありがとう――ああ、いい香りだ」


 綺光がトランクから取り出したのは酒瓶だった。紅蓮は空中に浮かぶ手で瓶の蓋を開けて鼻を近づけた。


「蓮兄さんは安いお酒のほうがお好きだと……以前にお聞きしましたが」


 綺光が心配そうに言うと紅蓮は空中に浮かぶ手を左右に振った。


「安い酒のほうが気持ちよく酔えるというだけだよ、安い酒も高い酒もどちらも好きだ」

「あら……くれぐれもお体にはお気を付けくださいまし」


 紅蓮は酒瓶に蓋をして自分の真横にそれを置いた。

 それからぐっと上体を前に倒して綺光を覗き込む。綺光が首を傾げて「なんでございましょう」と問いかけた。紅蓮が彼女の三日月と薔薇の浮かんだ瑠璃色の目を見てにやっと笑った。ニヒルな笑みだった。


「これを手に入れるいきさつを、俺に話してくれないか?」


 彼の言葉に綺光は目をみはって、


「あら、土産話でございますか?」


 と更に訊ねた。


「ああ、つまみがほしいんだ。美味い酒にはつきものだろう?」


 いたずらっぽく紅蓮はウインクした。


「蓮兄さんの満足行くお話でしょうか。心配でございます」

「愛しい義妹いもうとのする話ならなんでも美味いぞ」

「ほんとうに口がお上手でいらっしゃる。私まで口説かないでくださいな」


 綺光がそう言って笑うと、紅蓮は口角を吊り上げたまま、浮かぶ手で懐から煙草を取り出した。

 そこにべつの手が現れて煙草を持つ手に近づき、火をつけた。苦い草のような香りがただよう。


「口説きたくなるほど、お前は美しいからな」


 冗談のように紅蓮が言うものだから、「まったくもう」と綺光は肩を竦めた。

 それから、


「それではこの〝サラマンダーの火酒〟をいかにしてお返しして分けていただいたか、お話いたしますね」


 と言った。


 ◇◆


 事の発端はいつも同じでございます。ええ、まったく、いつも通り。

 母が精霊の夢<異世界>から奪った<宝物>をどのようにして返すか算段をつけているときのことでございます。

 場所を取るので大きなものから返そうと思っていたのですが、最近だと目に留まったものを返すようになりました。理由はどうせすべて返すのだからそういう些細なきっかけを大切にしたほうがいいと思ったからでございます。

 今回、目についたのは酒瓶でございました。茶色の硝子でできた、よくある一升瓶でございます。コルク栓で蓋がされておりました。


「これは」

『〝サラマンダーの火酒〟でございます、愛しい子』


 私が手に取ったとき、カグヤが巻物で確認してくださいました。

 蓮兄さんはご覧になれませんけれど、カグヤは私にそっくりなのです。――いいえ、どちらかといえば『姫綺ひめあや』に。金色の髪で翡翠のような目をしております。十二単を纏っておりますね、重くないのかと聞いたら『美しさにそんな質問は野暮ですよ』と怒られたことがございます。ふふ、これは余談でございます。聞き流してくださいまし。

 そう、私はお酒ですかとカグヤに問うたのです。


『ええ、火の根幹を担う精霊でございますがとんでもない酒豪でございまして』

「はあ」


 酒瓶が珍しいのか、お酒だということが珍しいのか、絹夜きぬやさんがちょんちょんと前足でつついておいででした。そう、赤くて鱗模様の赤い猫の姿で。可愛らしかったですよ。

 そうして動かれる度に、零雨れいうさんが差し上げた鈴のついた組み紐の首輪が彼が動くたびにりりんと唄うのでございます。まるで絹夜さんを守っていらっしゃるようで微笑ましく思っております。


「お酒……でございますか、まあ」


 私はそのとき、ふと蓮兄さんのことを思い出したのでございます。

 お酒がお好きだったでしょう? 紅壽こうじゅもあまり飲まないし、お父上様方もそんなに飲まれません。

 知り合いで飲まれる方がずいぶんと少のうございましたから、きっと蓮兄さんのお顔が思い浮かんだのでございますね。


『愛しい子? どうされました?』

「……いえ、蓮兄さんがお好きだなあって」

『ああ、あの――赤い角の鬼でございますね』

「……蓮兄さん、喜ぶでしょうか」

『あら』

「……いえ。申し訳ございません。欲をかくとロクなことにはなりませんもの」


 精霊の持ち物を勝手にどうこうするのはよくない、と思ったのでございます。

 けれどカグヤはとてもやさしい顔をしておりました。


『うふふ、大丈夫ですよ愛しい子』

「え?」

『大変物分かりの良い善き隣人ですから、お願いすればきっと分けてくださると思います』

「……ほんとう、ですか」

『ええ』

「……!」


 お恥ずかしいお話ですが、私はこのとき子どものようにはしゃいでいたとだと思います。

 カグヤの目も絹夜さんの目もそれはそれはとても――やわらかいものでしたから。


『でも、<四属しぞく>を担うひとり……。愛しい子。一筋縄では参りません』

「ええ、心得ております――さすがに、もう」


 精霊は皆一癖も二癖もございまして。大変なのでございます。けれどさすがに慣れましたから。

 一升瓶をマッドの腹に納めて――ええ、マッドの腹はなんでも溜め込むことができますからね――私たちは<精霊の戸>を開くことにしたのでございます。


『――導け、あるべきところへ。――開け、善き隣人の深き戸を』


 唱え終えると同時に虚空に炎の扉ができあがりました。ドアノブも炎の塊から生まれたものですから、私はすこし怖くなって、指先でドアノブをつついたのです。熱くはございませんでした。

 炎、というと先日――フェニックスに卵を返しに行ったとき、とんでもない場所に出てしまったのでそれもまたちょっと心配で。

 カグヤに確認いたしました。


「……なかがサウナのように熱いなんてこと……ありませんよね?」

『……』

「カグヤ?」

『……あなたにとってはすこしだけ、いやなところかもしれませんね』


 カグヤが苦しげに言うので、私は深呼吸をしてからドアノブを握って押しました。扉はびくとも致しませんでした。

 ええ、そうです。扉は引いて開ける扉でした。


「……!」


 扉の向こうは――ネオン煌く夜の街でした。

 あちこちで着飾った女や男たちが手招きしておりました。

 背の高いビルが立ち並び、空の星よりも主張の激しい看板たちがぎらぎらと輝いておりました。

 たしかに私の、いえ、これも。『姫綺』の、と言った方が正しゅうございますね。その、かつての故郷によく似ておりました。でも、もう過去ですから。

 いやな気分というよりも私は意外だと思ったのです。口からこぼれた言葉にその感情がのっていたのでしょう、カグヤが訊ねる前に言いました。


「……これは……」

『サラマンダーは一見厳かで思慮深そうに思われますが、実際は相当酒豪で夜遊びがひどいのでございます。表がきちんとしている分、裏が激しい典型例でございますね』

「なるほど……」

「……う。……目が。……痛い」


 絹夜さんがそう言って目を細めて辛そうでございました。私も目が痛くて……。

 とにかく<夢見主>を見つけて酒を返さなければならないわけでございますが。しかし、裏表の激しいサラマンダーがその大事な酒を分けてくれるのか、私には心配でなりませんでした。

 <異世界>を見る限り、物分かりは良さそうに思えなかったから。

 カグヤを見つめて私は訊きました。


「カグヤ、あなたの言うことで間違いなどほとんどございませんが……その」

『ええ、大丈夫ですよ愛しい子。ただ――』


 カグヤがトランクを見ました。マッドの寝床でございます。


『マッドは起こしておいたほうが良いかもしれません』


 と真面目な顔をして言うので、私はなにかあるのだろうなと思っておりました。


 ◇◆


「――なにかあったンか?」


 聴衆はいつの間にひとり増えていた。

 プラチナブロンドの髪に紺碧の海を映した青い瞳、素肌も透き通るように白いのに腰から生えた羽は真っ黒だった。頬の羽に似た形の痣が浮いている。

 彼女は紅蓮が心臓を託す相手、夜鴉よるからすだった。朝の早い頃合いだが、話し声がして降りてきたらしい。腹が減ったと一言告げ、彼女は自分で米櫃から握り飯をこさえて頬張っていた。


「ええ。なにもないなんてことはございませんから」

「ふうん。……で? なにがあったンだよ?」


 わくわくしながら身を乗り出して訊く夜鴉に綺光は微笑んだ。

 口の端にご飯粒がついている。綺光がちょんちょんとその部分を指し示してやると一瞬目を大きく見開いてからべろりと舌で舐め取った。


「うし、へーきだろ。んで、はやく続き続き!」


 夜鴉が握り飯の最後のひとかけらを口に放って催促した。

 紅蓮はすこし離れたところで煙草を吸っていた。飯に匂いがついていやだから、と夜鴉に追い立てられたのである。


「ええ、それから――」


 ◇◆


 <夢見主>を探さねばなりませんから、とりあえずいろんなお店を回りました。

 どこもかしこもお酒と香水の匂いに満たされていて具合が悪くなりそうでございました。

 室内も外と同じでぎらぎらしていて――精霊たちはどうにも輝くものですとか楽しいものですとかそういうのが好きなのでございます、だから<異世界>もやたらと眩しくて。

 三十軒ほど回ったあたりで、声をかけられました。ええ、客引きではなくふつうに。

 そこにおりましたのは、とかげ頭の――おそらく、ですけれど、女性でした。とかげの頭をしているのです、そのまま。

 つやつやのうろこと大きな目、ちろちろと覗く舌は青かったのでアオジタトカゲかもしれません。私は生き物博士ではございませんから、あっているかどうか自信はございませんでしたけれど。

 その女性はこうおっしゃいました。


『ランダ様をお探しですか』


 見た目から、というと失礼ですね。とかげの鳴き声とは聞いたことがなかったものですから、少々驚きを禁じ得ませんでした。透き通る、きれいな声でした。爽やかな風のような、澄んだ声音だったのでございます。

 私はそうです、とお答えしました。これを返したい、とも。

 酒瓶を見ると女性は『ああ、それはランダ様のものです』とおっしゃいました。


『ランダ様が熟成させていたお酒です。ずっと探していました』

「その、ランダという方のもとへ連れていっていただけませんか?」

『ええ、もちろん』


 精霊と魔女の間には約定がいくつもあって、『様』や『殿』などを敬称をつけないというのもそのひとつです。

 呼び捨てをするのは毎回なんとなく良心が痛むのですが、ここでへりくだってしまうと精霊たちが一気に私たちを舐めてかかります。ですから、極力つけてはいけないのです。やむを得ない場合などはありますけれども。

 連れて行かれた先にはその街のなかでも一等大きなお店でした。けれど装飾はほかのお店よりもずっと上品で、きれいでした。もしかしたら周囲の光景のせいで感覚が麻痺していたのかもしれませんね。

 女性の名前はアルハジャイムとおっしゃいました。


 ああ、そうなのでございます。名前は存在を定義する――特にサラマンダーなどの〝自然属〟に類する存在らはそれはそれはたくさんおりますので、個々を識別、いえ、区別するために名を持ちます。

 しかしそれらはあくまで精霊たちの間のみで通用する名前でございます。魔女に力を貸す、いわば契約を交わす際には私たち魔女、或いは契約をする側から彼らに名付けます。そうすることで契約は成立するのでございます。しかし、精霊側から魔女の名を呼ぶことはございません。それは〝縛り〟だから。


 すこしだけ説明いたしますと――精霊は自らの<宿木やどりぎ>をとても大切に致します。

 縛られてしまうと二度とその宿木に還ることができません。契約者と永劫を共にするという覚悟があるのならべつですけれど――これは極めて稀なことです。どんなに慕い敬っていようが、ほとんどの場合それを望むことはない。母も一度たりとも精霊から名を呼ばれていたことはございませんでした。


 失礼、本筋に戻りましょう。


 アルハジャイムに連れられて店の奥へ案内されました。なかはとかげ頭とそうでない者とでひしめきあっておりました。皆私たちの姿が珍しいのでしょう、たくさんの視線を感じました。

 宝石でできたのれんを五回ほどくぐったところで、ランダという方のもとに辿り着きました。

 そこで私たちはとても、ええ、すこぶる驚きました。とんでもなく。


 ランダはとても大きかったのでございます。

 筋肉の山にひとの頭と手足をくっつけたような見た目でございました。ええ、とかげではございませんでしたよ。ひとの姿でございました。短い黒髪で目鼻立ちのはっきりとした方でした。

 身長が高いというよりも巨大で、大仏様のようでございましたね。直接はさすがに言いませんでしたけれど。


 真っ赤な肌にチューブトップの服を着ていて、ミニスカートでございました。

 私はまさか、と思いましたので小声でこっそりカグヤに聞きました。


「……カグヤ、あの」

『ええ、愛しい子。あなたはほんとうに察しが良い。――あれは、雌です』


 カグヤに言われてやはりそうかと思いました。

 よくよく見ればお化粧もしておりましたし、胸も――胸は脂肪でできておりますから鍛えるとなくなってしまうと小耳に挟んだことがございます――あるようでしたから。それも男性のものではないような。


『よぉ』


 ランダは言いました。威圧感のある物言いでしたが、怖くはございませんでした。


「ごきげんよう、ランダ。これをお返しに参りました」

『ん? ああ、そいつぁ――魔女があたしから奪っていった酒じゃあないかい。いちばん上等なやつだ』


 そうおっしゃったので、私は怒られると思いました。

 ですから先んじて謝ったのです。


「申し訳ございません。母の非礼は娘たる私が謝罪致します」


 こうべを垂れると同時に、頭上からランダの陽気な声が振ってきたのでございます。


『え? あっはっは! 非礼だって? いやいや、魔女はちゃんと礼儀に倣って持っていっただけさ。まさか返ってくるたぁ思わなかったけれどね』


 あんたは良い子だねえ、と言いながらランダは差し出した酒瓶を受け取りました。

 蓋を外してなかを嗅いで『ああいいねえ』とおっしゃいました。

 私は彼女の言っていることがわからなくて数秒ばかり、ぽかん、としておりました。


「礼儀……」

『ああ。あたしだってタダじゃ持っていかれないさ。そりゃあ四属を使える魔女だってんでもね、こっちにだって流儀があるよ。ここはあたしらの領域だからねえ』


 四属というのは、火、水、風、土のことを言いまして、これをすべて操れる魔女は生きているうち母ひとりだけでございました。いずれも反する属性ですからね、仲を取り持つのが大変なのでございます。

 ランダはずいと前のめりになって言いました。


『あたしの酒がほしいなら、あたしと勝負をするんだよ。以前の魔女はそれに勝ったからくれてやったのさ。ああ、約定かい? 気にしなくていいよ――こいつぁ、火の精霊だけの〝血統特例けっとうとくれい〟だからね』


 にやりと不敵に笑いました。<血統特例>というのは力ある精霊たちが設けることのできる追加の約定のことでございます。

 なるほど、とすれば。私は申し上げました。――私も、分けてほしかったものですから。


「でしたらお酒をほんのすこし分けていただくのも、その――勝負というのを受けなければならない、とそういうことでございますか?」


 ランダはへえ、と感心したような、嘲笑うような声を出して、


『あたしの酒を分けてほしいのかい? 魔女の娘』


 と言いました。

 ええ、分けていただきたいです、と私は答えました。

 ランダはまたへえ、と言って、


『構わないよ。あたしと勝負して勝ちさえすればねえ』


 と笑いながら言うのでございます。

 ほんのわずかに――すこしだけ、勝気な私が顔を出しました。

 母とは違う魔女ですけれど、魔女は魔女でございます。舐められては敵わないとそう思ったのです。


「その勝負、受けて立ちましょう」


 私が言って、カグヤが言っていたマッドの刀にしておけという忠告を思い出しました。

 あれはそういう意味だったのでございます。

 マッドは寝坊助ですからすぐに起きないので。私はトランクを開けてマッドを叩き起こしました。

 マッドはやっぱり寝坊助でしたが、腹を三度叩くと置きました。


「ん~ にゃ? ヒヒッ? なんだァ? ダイブツサ……ふぎゃ!」


 私が言わなかったことを起き抜けに言おうとするので口を塞ぎました。

 ほんとうに心臓に悪い……。

 マッドに黙って刀になれと命じると「キャハヒヒッ」と相変わらず甲高い声で笑ってから、大人しく刀になりました。

 月の光を凝縮した刀――名前はございます。『月下美人』と申します。


『へえ、きれいな刀じゃないか。どれ、あたしの炎の美しさに見劣りしないかねえ』


 明らかな挑発でした。カグヤは押し黙っておりましたが、耐えきれずぼそっと、


『――うるさい、この筋肉女』


 と罵っておりました。

 存外口が悪いのでございます。マッドに命を吹き込んだ張本人ですから、ね。


 ◇◆


「へええ! バトったンか! マジか!」

「……ねえさま、たいへん」


 またひとり、聴衆が増えた。

 中華服を着た愛らしい少女である。身の丈は綺光の半分もない。見た目こそ十代前半に見えるが、彼女は立派に大人だった。藍色がほんのわずかに混じる黒い髪。前髪は眉のうえで切り揃え、後ろの髪は左右で団子に束ねている。

 ひとの耳が生えているであろうところからは、ふさふさとした垂れ耳が下がっていて、彼女の臀部には毛玉のような白い尻尾がついていた。

 彼女は藍明ランメイという。藍明はトイレに起きたようだったが、綺光の姿を見て話に混ざる気になったらしい。

 綺光の膝のうえでちょっとご機嫌だった。

 紅蓮は藍明の登場で完全に煙草をしまった。彼女は煙草の煙が大の苦手なのである。


「大変、というかなんというか。まあそういう展開もありだなあ、くらいには思いましたよ」

「でもま、勝ったんだろ? じゃなきゃここに酒がねェもなァ」


 夜鴉はちらりと紅蓮の横に置かれた酒瓶を見た。


「完勝、というまではいきませんね。辛勝でございました」

「ほほう?」


 夜鴉の目が爛々と輝いていた。彼女は体を動かすことが好きだった。とりわけ戦うことが。

 彼女とて平和が嫌いだから壊してやろうなんてそんな破壊的で乱暴な考えはしていないけれど、ここはいささか刺激が少なすぎる。だからこそ綺光の話にわくわくしているのだろう。

 うまく話せるかわかりません、と綺光は前置きをして言った。


 ◇◆


 ついておいでと言われましてそのように致しましたら、到着したのはドーム状になった広場でございました。コロシアムを想像を頂ければ問題ないかと存じます。

 周囲にはすでに観衆がおりました。いつこんなに集めたのだろうかと思いましたが、いかんせんランダのところまで来るまでに私はずいぶんといろんなお店を回りましたものですから、きっとわかっていらしたのでしょうね。

 ランダはもともと戦う気でいらっしゃったようでございました。いかなる提案にもすべて戦いでのみ応ずるという気だったのでございます。


『嬢ちゃんとそこの猫も戦うのかい、さっきから鬱陶しい気配をさせているね』


 絹夜さんのほうを見てランダは言いました。

 彼の〝ご友人〟は水の精霊ウンディーネ。火の精霊とは相容れぬ存在でございます。絹夜さんは猫の姿のままこくりと頷き、空中に飛び上がりました。

 ひとの姿になるのと同時に、彼は足元にそれを顕現させました。水の精霊ウンディーネでございます。美しい女の姿を象ることが多いですが、絹夜さんの傍にいる彼は猫と魚を組み合わせたような、神秘的で不思議な姿をしておいでです。ただこの方はとても恥ずかしがり屋さんなので、あまり表には出ていらっしゃいません。ふだんは絹夜さんの足首をぐるりと一周囲んでいる刺青の姿に形を変えております。


『ふうん、あんた……ウンディーネに力をもらっているんだね?』

「……ん」

『――相変わらずの筋肉ダルマだナ』


 私も絹夜さんもぎょっといたしました。ああ、そうでございました。ウンディーネは『コハク』という名を絹夜さんから賜っております。お名前の由来はお菓子の琥珀糖からだそうで。

 コハクの声は、幼気な少年のような声をしていて、よく通るものでございました。


『ふん、そっちこそなんだい。なよっちい女の姿じゃなくて今度はひ弱な畜生の姿かい』

『あー、ハイハイ。いいヨ、そういうの。飽きたからサ』


 コハクは耳の裏を後ろ脚で掻きながらつまらそうにおっしゃいました。

 ランダが徐々に気分を害しているのは見て明らかでございました。――まさに火を見るより明らか、というところでございますね。ふふ、失礼。

 それで、――そうですね、もう始まるまで時間もなかろうと思いまして私は申し上げたのです。


「この戦いの勝敗はいかように?」


 ランダはにやり、と笑いました。自然と柄を握る手に力がこもったのは覚えております。

 ええ、火の精霊ですもの。その苛烈さは知っておりますから。


『――倒れるまで、さ』


 ごお、と音がして視界が一気に真っ赤に染まりました。


 最初はかわすので精一杯でございました。

 なにせ炎で視界が不良でございましたからね。ランダは炎を吐き出しては視界を奪い、その隙を狙って攻撃をしてくるのでございます。

 ランダの吐く炎はたちの悪いことに毒を含んでおりますから、広範囲に炎が及ぶと一時的にその土地には足を踏み入れることができなくなります。しばらくすれば炎も毒もなんともないようになるのですが、ランダは絶えず炎を吐くものですから活動領域は徐々に狭められるわけです。

 毒に関しては抗体をつけさえすればこちらのものなのですが、ランダの攻撃速度がとても速くて……。

 困りました、あの大きな体なのに俊敏なのでございます。


『どうしたんだい!? 逃げてばかりじゃ、あたしを倒すことなんざできないよ!!』


 炎を吐きながら、その手にいつの間にやら持っていた斧を頭上から振り下ろすのでございます。なんとかよけつつ、いかに彼女の背後に回るかを考えておりました。

 とりあえずは足元を狙おうと思っておりました。態勢を崩したほうがよかろう、と。

 しかしその隙がいつまで経っても来ません。さて、と思っておりますところで、絹夜さんが動きました。


「――<群集ぐんしゅう鉄砲魚てっぽううお>」


 絹夜さんが空中に飛び出し、足を薙ぎ払いました。コハクの力を得ているその蹴りからは無数の魚の群れが見えました。それが大粒の雨のようにランダが燃やした大地に降り注ぎ、炎が消えたのでございます。代わりに蒸気が立ち上って白く視界を覆いました。

 私はランダは悔しげにしているのを確認しながら、煙のなかに飛び込みました。

 精霊の力ははっきりと格差が現れますから、ランダの炎を消せたということはコハクの力はランダと同じくらいということになります。その事実がランダには悔しかったのでしょう。

 地面を蹴って、私は彼女のアキレス腱のあたりを狙いました。


「<月光げっこう一閃いっせん>〝三日月〟」


 三日月に弾けた光が彼女の太くて真っ赤な足を傷つけました。――表面だけを。

 表皮が非常に硬いのです。私は身を引きました。ランダの目がこちらを捉え、口からは炎が漏れ出ておりました。


「――<瀑布ばくふ更紗さらさ>」


 ランダの視線がこちらに注がれたタイミングで、絹夜さんが再び空中に跳躍しておいででした。

 ぐるぐると体を縦に回転させたその勢いのまま、ランダの眉間あたりに踵落としをなさいました。

 瀑布とは滝のこと、更紗は金魚の種類でございますね。巨大な金魚が二匹ほど、水の幻影となって現れておりました。

 ばしゃんと水の弾ける音がして、すこしだけランダがぐらつきました。


 すこしだけ、でした。


 眉間には額を弾いたようなくぼみができておりましたが、決定打ではございません。ランダは大きな手で絹夜さんを払いました。弾丸のように絹夜さんの体が飛んでいって、壁に激突しました。

 ――私は、一瞬思考を持っていかれました。長く戦っていなかったせいかもしれません。敵から一瞬でも気を逸らしたのです。


『――愛しい子!!』


 カグヤの鋭い声で我に返ったとき、丁度振り下ろされる斧が見えました。巨人のサイズなので、断頭台の刃のように思えました。私はなんとか体を転がしてそれをかわしました。

 斧が地面を砕き、わずかにコロシアムを揺らしました。


『ははは、なんてザマだい。あんたの母親はもうすこしうまくやっていたよ』


 笑うランダの声に、私は悔しいと思いましたが――不思議と、屈辱には感じませんでした。

 母のような魔女にはなりたくないと常々そう思っているからです。こんなときでもそう思うのか、と我ながら呆れましたけれど。

 私は土ぼこりを払いながら、立ち上がりました。


「……ええ、私は母とは違いますから」


 私は刀を構えて、気を集中させました。


『キャハヒヒヒッ!! 言われてンぜェ、キミツ。マ、あのクソババアとは違う……オレサマたちはひとりじゃねェからなァ、ヒヒッ!』


 マッドながら良いことを言ったと思いました。

 刀身が淡く光り出すのを見ながら、私は放つ剣戟けんげきの形を思い浮かべました。


「<月光一閃>――〝三日月・大極光だいきょっこう〟!」


 振り下ろした剣戟が三日月――それも特大の形になって地面を削ってゆきました。けれどランダにとってそれはさきほどよりも大きいというだけで、威力として変わらないと思ったのでしょう。

 鼻で笑いました。


『ふん、お月さまの力なんて押し潰してあげるよ!』


 笑っていられるのも今のうちですよ、と思いました。

 なにせ私は彼女の油断を誘いたかっただけでございますから。

 彼女が私の剣戟に気を取られている隙に、背後ですでに事は終わっておりました。

 大津波がコロシアム上に発生していたのでございます。


「<海呼び・鯨>」


 水でできた鯨の群れがランダに向かっていきました。

 絹夜さんのお顔はきりりとしていて精悍でございましたが、その肌に浮いている金魚の鱗は数枚剥がれておいででした。

 ランダに鯨の群れが体当たりをして、彼女の体がぐらりと傾ぎました。そこに私の放った月光の剣戟が直撃致しました。


『ッ!』


 ランダの体から初めて血――ではなく、火花が散りました。

 けれどランダは倒れませんでした。堪えると再び絹夜さんに向かって手を伸ばしました。


『この――!』


 しかし絹夜さんは捕まりませんでした。素早く猫の身に転じてその巨大な手から逃れたのでございます。いかんせん大きすぎますから、小さなものを掴むのに難儀致します。絹夜さんは軽やかにぴょんぴょんとランダの手から逃れました。ランダが苛立っていくのを感じておりました。


『ちょこまか! と! おい、ウンディーネ! お前というやつはほんとうに! 流れに任せてばかりで! 腹の立つ!』

『――知らないヨ』


 涼やかなコハクの声が聞こえました。

 私は猫に翻弄されるランダに再び目標を定めました。そして空中に飛びました。


「<月光一閃>〝月光燦々げっこうさんさんみだれ〟」


 縦に刀を振り下ろすと、ランダの硬い皮膚にわずかばかり切っ先が刺さりました。場所は――おそらく、肩のあたりだったように思います。火の精霊だというのに、皮膚はとても冷たかったのを覚えております。

 ねずみ花火のように月光に力があちこちで弾けました。散弾銃のそれと同じでございますね。

 ひとつひとつの痛みはさほどなくても、集合ともなれば違いましょう。ランダもかゆいのか痛いのか今度は私を捕まえようと大きな手をこちらへ寄越しました。私は皮膚を蹴り上げて空中へ再び飛び出でました。


『ちまちまと腹が立つねえっ!! ――ぐっ!』


 ランダが苦しんだのでどうしたのかと視線を下のほうへ動かすと絹夜さんがなにやら魔法を展開していらっしゃいました。すべて終わっていた後のことでしたので、なにをなさっていたか、わかりません。

 けれど私が表面を傷つけた部分に、再度攻撃をなさっていることだけは理解できました。


『この、――この!!』


 ランダが傷ついたほうの足を持ちあげました。

 ああ、やっとチャンスが巡った――とこのとき思いました。

 絹夜さんと目配せをして、私たちは行動に移りました。


「カグヤ! マッド!」

『ええ』

『キャハヒヒヒッ!』


 きっと絹夜さんもコハクを呼んでいたかと存じます。


「<月光一閃>」「<海呼び>」


 こういうとき、遠く離れているはずなのに近くに声を感じるのでございます。

 共鳴――というのでございましょう。

 私はその場で剣舞を始めました。

 精霊はともかく、楽しいことが好きですから強い力を発現するには踊ることが一番なのでございます。

 うふふ、そうなのです。ずいぶんと緊張感がないように見えますでしょうね。私も踊りながらいつもそう考えております。


「<浮世月うきよづきまとい>」「<竜巻たつまき和邇わに>」


 <浮世月・纏>は直接攻撃をする魔法ではございません。舞い踊るその動きの通りに、剣戟を顕現させる魔法でございます。その剣戟は体に纏わりつくように動きますから、纏、とついております。

 主に自分よりもはるかに大きい相手に使う業でございますね。


 足を置こうとして剣戟に纏わりつかれたランダはさすがに堪えたようでございました。足の裏にも攻撃が及びますから、大層痛かったのでしょう。

 遅れた数秒で絹夜さんの魔法が現れます。足元からその名の通り竜巻がごとく勢いで大きな鮫が現れました。ランダの宙に浮かんでいる足に食ってかかり、牙で破砕してゆきました。火花がばちばちと飛び散っておりました。線香花火のようでございましたよ。


『ぐ、うぅ……!!』


 ランダは――倒れませんでした。


 ◇◆


「すげえ……マジか……」


 夜鴉は興奮気味だった。

 紅蓮がふうむと言って顎に手をやり、静かに言う。


「斧があるからだな。それが支えになるから倒れんのだろう?」


 綺光が「その通りでございます」と笑った。紅蓮は続けた。


「――しかし。消耗も相当、しているのだろうな」

「ええ、始めからそのつもりでございました。火を吐き出し続けていれば多少なりとも消耗してくださるだろう、と。精霊とて疲弊は致しますもの」


 藍明が「ねえさま、頭いい」と称賛したが綺光は首を振った。


「いいえ。私たちも魔法を使えば使うほど疲弊しますから……最初からほとんど根比べのようなものだと思っておりましたよ。特に絹夜さんは大技を連発してらっしゃいましたから、足を奪った時点でだいぶ息が上がっておいででした」


 綺光はそのときのことを思い出しながら言う。

 絹夜はもう大技を出せる状態ではなかったし、綺光も絹夜ほどではなかったが相当体力を持っていかれていた。カグヤたちは全く問題なかったのだろうけれど、助力を得ているほうがへとへとだった。


「精霊の力を借りること、それ即ち魔法と言いますが……これにはリスクが伴います。自分の持ち得る以上の力を顕現させるわけですから、集中力を欠けば目測を誤り味方や周囲の無関係のひとびと、自分自身を攻撃したり致します。本来魔女とはこういった危険性とは無縁であるべきなのですが……母は私に魔女としての教育を致しませんでしたから、まだまだ未熟で」


 魔女は、である。本来呼吸をするように使えるようにするべきところなのだが、綺光は母親から〝魔女のいろは〟というものをほとんど教わっていなかった。くわえて長い期間<魔法>に頼らない生き方をしてきたせいで、綺光自身魔女の自覚は薄かった。精霊たちが無条件に友好的な態度を取る、そのことでなんとなく感じている程度である。

 ――けれど綺光はそれで良いと思っている。母のようになんでもできる最強の魔女――なんて、いたところで何の得にもならないと己が見て実感しているから。


「って! そいで! どったの? そこから」


 黙り込んだ綺光を見かねて、夜鴉が話の先を促した。「ああ、そうでございました」と綺光は言った。


「申し上げたでしょう――根比べでございますよ。片足だけで斧を振るうランダの攻撃を避けながら体のバランスを崩す。至ってシンプルでございます。絹夜さんも猫の姿で逃げ回ることで相手を苛立たせ、私はその隙に何度か魔法を使いました」

「ほげえ……」

「こんなに長時間戦ったのは久しぶりでしたから……無我夢中でほとんど、その――記憶が飛んでいるのでございます」


 疲れたように綺光が微笑む。

 藍明は心配そうに綺光を見つめた。それにやはり、笑みだけを返す。


「ようやっと倒れてくれた頃にはもうふたりとも立っているのがやっとでした。絹夜さんは猫の姿のまま戻ることもできず、私はマッドをトランクにしまうこともできずにその場に放り出しました」


 ◇◆


「……っは、ぁ……は……は……っ」

「……んぅ……に゛……うご、け……な……」

『……やられたね』


 空を仰いだままランダが言いました。

 周囲から歓声が上がったのを聞いてそういえばこれは見られているのだった、と今更ながら思い出した次第でございます。


『約束は守るよ、魔女の娘』


 仰向けのままランダが申しますと、コロシアムの扉が開いて酒瓶を持ったアルハジャイムが出てまいりました。私の傍にきて酒瓶を渡してくださいました。


「……どうも、ありがとう――ございます」

『ふん、あんた……あの魔女とはまったく違うね。あの……強欲の魔女はあっという間にあたしを引き倒して〝大きいだけで無能なら、大仏様のほうがマシだね〟なんて言っていたよ』

「……」

『けどまあ……そうだね、楽しめたよ。楽しめるってのはあたしたちのなかじゃ一等大切なことだ』


 ランダはきっと、笑っていたかと存じます。

 顔は見えませんでしたけれど。


『あんた、なんだってあたしたちの力を借りようとしないんだい』


 火の精霊は戦いに特化しておりますゆえ、一等最初に助力を乞うることの多い精霊でございます。

 母も、そうでした。でも私が今助力を得ているのはカグヤ――月の精霊だけでございます。

 増やすつもりはございませんでした。


「……私は、善き隣人たちの友でありたいだけですよ」


 ランダは沈黙しました。それから、


『そう……あんたは、やさしいんだね』


 とおっしゃいました。

 私は返す言葉に窮し、なにも言いませんでした。

 ランダが<精霊の戸>を開きましたから、私はよくよくお礼を申し上げてこちらに帰ろうと致しました。そのとき、ランダは、


『待ちな』

「……はい?」

『ダチでいたいんだったらこれを受け取りなよ』


 そう言って渡されたのは紅玉のはまったブローチでございました。ほのかにサラマンダーの気配を感じました。


『あたしの分霊さ。必要なら呼びな、あんたなら付き合ってやる』


 簡単に説明すると火の魔法を得た、ということになります。

 私は断ることができませんでした。ほのかにあたたかいそれが好意の形であることはわかったから。

 無下にはできなかったのです。


「……」

『……あたしらは約束でダチやってるけど、だからって礼儀知らずってわけじゃあないんだよ』

「……それは」

『――あんたはいい子だ。あたし、あんたのこと結構好きだよ』


 ランダの言葉に私は「ありがとうございます」と礼を述べました。

 もう一度、深くお辞儀をして、私たちはこちらへ戻ってきたわけでございます。


 ◇◆


「――以上、でございます。ご清聴ありがとうございました」


 綺光がそう締めくくった。周囲から控えめな拍手が巻き起こる。もうとっくに日が昇っていて、外ががやがやと騒がしかった。

 聴衆に混じることがなかったもうひとりの住人はやってきた子どもたちの相手をしている。真っ黒な毛に覆われた背中がすりガラス越しに見えた。藍明は話の途中で二階に上がっていってしまったので、綺光の膝にはぬくもりしか残っていない。彼女は店が開店するといなくなるのである。


「んん~! とりま、おつかれアヤ! ……あ。今、アヤじゃない……、んだっけ?」

「アヤで構いませんよ。綺光の綺の字はアヤ、とも読みますもの」

「そか。じゃあアヤって呼ぶわ」

「ええ、そうしてくださいまし」


 綺光はトランクを手に立ち上がった。紅蓮は酒瓶を撫でながら言った。


「そんな苦労して持ってきた酒だ、大事に飲まないとな。紅壽と盃を交わしたいところだが、あいつは弱いからなあ」

「そうなン?」

「舐めただけで酔うぞ、酔うと泣き上戸になって……可愛いんだ」

「……ひえ」


 嬉々として語る紅蓮に夜鴉が顔を引き攣らせた。


「銀龍さんがお呼びできればいちばんなのでしょうけれど。あの方も今、すこしだけ忙しいですから」

「仕方がないさ、目覚めてすぐだ」


 綺光は入り口のほうへ足を向けた。刹那、ぽんと頭に軽い感触が触れる。

 紅蓮の浮遊する手が綺光の頭を撫でていた。


「……蓮兄さん?」

「またいつでもおいで。――ここはお前の家でもあるのだから」


 そう言われて綺光は口を噤んだ。気遣うように紅蓮の言葉は続く。


「気負うことはない。お前がどちらであろうとお前はお前、だ。何も変わらんよ」


 やさしげに笑う紅蓮に夜鴉が「げ」という声を漏らした。


「げ、とはなんだ」

「……いや。……オマエがそういう顔するとき、たいてーロクでもないことしかねェから」

「心外だな」


 紅蓮の返答に夜鴉が半眼になった。それから夜鴉も綺光のほうを向いて歯を見せて笑った。


「そーだぞ! あンま気ぃつかうじゃねェぞ!」

「……ありがとうございます、おふたりとも」


 綺光は深々とお辞儀をしてから引戸を開けた。

 さまざまな顔立ちの子どもたちの相手をしている番頭の狼男が、赤い目で綺光を見た。

 そして、


「――気軽に立ち寄ってほしい。藍明が喜ぶから」


 と言った。

 綺光はあちこちからかけられるやさしくあたたかい言葉たちに、破顔せずにいられなかった。


 ◇◆


『今日はお休みになるのですか、愛しい子』


 自室に布団を敷いて、寝る準備をしている綺光にカグヤがそう声をかけた。


「ええ、すこし……疲れたから。久しぶりにあなたの力を振るいました」

『とても優美な舞でございましたよ』

「……うふふ、ありがとう」


 綺光は布団に倒れ込んだ。

 すぐに睡魔がやってきて、心地良い眠りが訪れる。その手のなかにはランダから受け取った紅玉のブローチが包まれていた。ほのかに赤い光がこぼれて、それはひとの形を成した。

 ランダの分霊である。膨らみとくびれのある女性体だった。炎でできた瞳がじろりと月の精霊を見遣った。


『――飼い殺しはごめんだわよ』


 苛立っている様子の精霊に、カグヤはほうと息をついた。


『お前があのサラマンダーの分霊ならわかっておいででしょう。愛しい子はとても疲れているのです。名づけなら明日になさい』

『ふうん。あたしたちは名をつけられなきゃ元に還るだけ……この半人前がわかっているか知らないけどね、長を倒して力を得たらすぐにだって名づけをするのが筋ってものよ』


 炎の精霊の物言いに、カグヤが眉間に皺を寄せた。


『……愛しい子を侮辱するのはおやめなさい。私が許しませんよ』

『夜にだけ我が物顔で出てくる月なんかがあたしをどうしようっていうのよ。ばかばかしいわね』


 炎の精霊ははっと鼻で笑うとその身をブローチへ寄せた。

 一度閃いた赤い光をカグヤはじっと睨んでいたが、愛しい子の安らかな寝顔を見て、すぐその頬を緩ませたのだった。

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