幕間1『見送るものたちの話』

 朝早くに、その歌声が聞こえた。

 まだうすぼんやりとしている意識のなかに、流れ込んでくる声。

 彼は薄目を開けて、それがたしかに自分の最も愛する伴侶のものであることを確認した。


 鍾乳洞のあらゆるくぼみのうち、自分の長躯にしっかりとはまる場所が常に毒で満たされた己の寝台である。なぜこのような体に生まれ変わってしまったのか、転生させた当人でもわからないらしい。

 常に毒が染み出すこの体を厭わしいと思ったことはなかった。半身が触手であることも最初こそ驚いたが今もうほとんど便利に使うことができる。手数が多いのであらゆることが一気にこなせ、寧ろとても便利だった。

 加えて、ずっと水に浸かっていても皮膚がふやけることはないし、濡れた体を放置して風邪を引くこともない。必然引きこもりにはなるけれど、それはもともとの性質だった。

 ――畢竟、この生活は性に合っている。


 ゆっくりと身を起こし、鍾乳洞の一部を改造して作った部屋のほうを見た。

 まるで下手くそな合成のような有様の違和感満載で置かれた和室。そこが伴侶の自室である。月と薔薇が描かれた襖に四方が囲まれており、なかには水滴など入らないよう工夫がされていた。だから紅壽は彼女の部屋に入ることができない。あちこち溶かしてしまうからだ。

 声は和室からしていた。良い夢でも見たのか、ご機嫌な彼女の歌はまだ続いている。心地良いアラームだな、と思いながらゆっくりと寝台から降りた。


 降りる、といってもその先にあるのは水溜りだ。

 大きな泉のようになっている部分が中央にあって、その周囲に伴侶の部屋と自分の寝台、その他諸々が置かれている。鍾乳洞を改造してあるのは伴侶の部屋だけで、それ以外は自然に出来上がっているくぼみをうまい具合に活用していた。

 黒いスラックスに包まれた足を水溜りに突っ込む。控えめな音と波紋が広がった。水底は見えないから、どれだけ深いのか見当もつかない。けれど触手を蛸のように動かせば足が水底につかなくても問題はなかった。

 水溜りの中央に出張った岩の小島を掴んで体を前進させ、寝台のあったくぼみと反対側のへりへ向かう。へりに着くと腰を下ろし、彼女が出てくるのを待った。

 和室の襖が開くと同時に、銀色の髪をした伴侶と目が合う。彼女は三日月と薔薇の浮かんだ瑠璃色の双眸をすこしだけ見開かせて、何度かぱちくりと動かした。それから、


「……起きていらしたんですね」


 と言った。彼女は袖の割れたワイシャツに黒いネクタイ、なのだが今日は趣向を変えたのか赤いブローチのついた黒のスカーフだった。いつも白と黒でまとめているのに珍しいことだと思った。下半身はいつも通りのタイトなスカート。スリットの位置が際どいうえに丈もずいぶん短いから正直違うものにしてほしいと常々思っている――が、それは胸の内に留めておいている。似合っているかどうかでいえばとてもよく似合っているし、なにより彼女の好みの問題だ。そこまで己が口を出してよい権利はない。たとえ、夫婦であろうと弁えているつもりだった。


「……なんです?」


 伴侶は首を傾げて問うてくる。どうやら無意識のうちに彼女を観察していたらしい。首を振って「いいや、ネクタイじゃないんだなと思っただけだ」と当初見て思ったことを口にした。

 すると彼女は「……ええ、たまには」と笑った。


「……綺麗な赤色だ」

「ありがとうございます。きっと、この子も喜びます」

「この子……?」

「ああ、これ。……火の精霊が宿っているものでして」

「……ほう」


 そういう返事しかできない。資格がないので仕方がないのことなのだけれど。

 伴侶はブローチの表面を指の腹で撫でてから、はたとなにかに気付いたように目を瞬かせた。

 そして、


「そういえば、紅壽こうじゅ。……あなた、いつから?」


 と訊ねてきた。およそ歌声を聞かれていたのではないかと勘ぐっているのだろう。その通りだと言うのに、「ああ。とても心地良い目覚ましが聞こえたからな」と答えると「やっぱり」と伴侶は少々頬を膨らませた。その頬は赤い。怒っているわけではなさそうだった。


「……君の歌声はきれいだ」


 フォローしたつもりだったが伴侶はなぜか困ったように眉をひそめたままだった。どうしたんだ、と訊ねると「……下手くそな歌を聞かれて恥ずかしゅうございます」と小さな声で言った。

 まさか、そんな。思ったことをそのまま口にした。


「……下手なんてことはないぞ。……とても、上手だった」

「それは私があなたの妻だからでしょう。ご機嫌取りでそう言われるのは少々気分が悪うございます」

「べつに……そういう訳じゃない。これは本心だ」

「……さようでございますか」


 ご機嫌取りなんてことを今の今までしたことがないだろうに。時折伴侶は妙なところで疑り深い。

 伴侶はちょっと黙って、それから「……冗談でございます」と笑った。からかわれたのかもしれない。

 けれどいやな気分はしなかったから、「随分と可愛い真似をする」と返した。

 伴侶はぽかんとして、それから「……あなたの感性はよくわかりません」と言った。


「……まあ、わかりにくい男とよく言われるからな」

「まあ、開き直って」

「それくらい長く生きたさ」

「……そうですね」


 繰り返したこの命に、もはや終わりはないだろう。不老不死――言葉にすれば陳腐だが、けれどいちばんこの言葉がしっくりくる。怪物となり果てた己には明確な死は設定されていないのである。

 けれどそれでも構わない。漠然と燃え続けるこの命の灯は、彼女の傍にずっとあるのだから。


「……今日も、か」

「ええ」


 彼女が両手に持つトランクを見る。あのなかに閉じ込められたたくさんの<宝物>。<異世界>――精霊たちの夢。夢という名の、精霊たちが生み出した彼らのための世界。伴侶はそこにいって自分の母がしでかした罪を清算している。彼女は義務だと言った。そして、エゴだとも。


「果てしないな……俺が助けてやれることがなにもないのが、悔やまれる」

「あら、仕方がないことですよ。こればかりは、どうしても」


 でもその気持ちがとてもうれしいです、と伴侶はその美しいかんばせで笑った。

 それじゃあ、行って参りますと丁寧にお辞儀をして去っていく背を見送る。彼女の姿が見えなくなるとほぼ同時にその声がした。


「――ほんっと、嘘つくの上手いなあんた」


 からかうような口調だった。薄く背景を塗り替えるようにして徐々に声の主が現れる。

 黒髪に黒の眼帯、片袖だけ着物のように広がった真っ黒な服を纏った少年だった。闇をたたえた黒の瞳が今しがた去っていった伴侶のほうを見つめている。


「……穂鬼ほぎ


 穂鬼と呼ばれた少年は眉間に皺を寄せた。


「月の精霊の目はいつまでも誤魔化せねえぞ、旦那。ここはいっちょ腹ぁ括って話しちゃどうだい」

「お前のことを、か?」

「俺のことじゃねえよ、あんたのことだ」


 見た目は少年だったが、声は低く穏やかな大人のそれだった。

 穂鬼はその場にあぐらをかくと、気だるげに首を回した。


「……必要ない。すくなくとも、今は」

「必要になったら言うって? ……そんな瞬間、なかったら」

「……そのときだ。……お前には悪いがな」


 赤と金の瞳がちらりと穂鬼を見て、それからゆるりと口元が弧を描いた。

 なにゆえかを知る穂鬼は「……ほんっと、いい性格してんな」と悪態をつく。


「……べつに俺だっていいさ。……知られなくたって」

「……へえ。あんなにも恋い焦がれているのに、か?」

「黙れ。べつにお月さまに手ぇ届かなくたって、悔しくねえ。……あれは、そのまんまでいてくれりゃあいいんだよ」

「……健気なことだ」


 穂鬼は再び舌打ちをした。

 それからすうと消えていなくなった。

 静かになったその場所で、彼は目を閉じ伴侶の無事を祈った。


 ◇◆


 引戸を開くときょとんとした星の瞳とかち合った。

 だぼだぼの上着に、くるぶし丈のズボン。肌のあちこちに金魚の鱗が浮かんでいて、髪は真っ赤。その頭にひっついた猫の三角の耳にはたくさんの金属が光り輝いている。あれはピアスだ。彼が自傷行為でつけたものである。いつしかお洒落に変わってくれていたから心の中で安堵していた。

 自分の姿を見つめていた伴侶がニ、三度ゆっくりと目を瞬いてから己の名を呼んだ。


「……零雨れいう

「やあ、おはよう」


 朝の挨拶をすると、伴侶は「……ん。……はよ」と吐息のような返事をした。口下手、というよりやさしさに起因にするしゃべり方だ。――感情を表すのは不得手ではあるようだけれど。

 履いている革靴を脱いで三和土たたきを上がると伴侶の瞳がじっと一点を見つめていた。なんだろうかと視線を追うと、そこにあったのは染みだった。羽織っているだけの夜明け色の着物の、その裾の端がほんのりと泥に汚れている。


「ああ……大丈夫、洗えば落ちるさ」

「……そう、か」


 そう言う伴侶の首元を見ると、いささか紐が緩んでいるようだった。

 本人は気付いていないようだったから、すこしだけからかうように言った。


「きぬさやちゃん、お前も」

「……え?」


 再び、きょとんとした顔をする。

 表情がわかりにくいなんて言われもするけれど、およそ原因は長い前髪であろう。顔のほとんどを隠している前髪は、彼の意識が変わった頃からすこしだけ目が覗くようになっていた。

 愛らしいくりっとした瞳は、どこか庇護欲を駆り立てる。万人に見られると思うと胸の奥がむかむかするので前髪に関して、言及は避けていた。片目が隠れているくらいがちょうどいい、なんて自分勝手だと言われるだろうか。


「直してあげるからそこ、座って」


 座る場所を指差して指示をするとおずおずと膝をそろえた。


「……あ。……すま、ない」


 申し訳なさそうに耳も、ついで尻尾も垂れた。だから言う。


「ありがとう、でいいのだけれど?」

「……んん」


 むにゃむにゃと口を動かし、「……ありが、とう」とぎこちなく感謝される。

 愛らしいと思いつつ、彼の首にかかった鈴のついた紐を解いた。りりんと歌声がこぼれる。

 お守りだよ、と渡したこれを彼は大層気に入ったらしく年がら年中身に着けている。起きている間は勿論のこと、寝るときも風呂に入るときも肌身離さない。いちおう特殊な加工は施しているので鈴の部分も紐の部分も水に濡れても問題はない。けれど、


「ねえ、きぬさやちゃん。寝る時はさすがに外さない? これ」

「……え」


 彼はなんでそんなことを言うんだ、と目で訴えてきた。だから答えた。


「一度俺が踏んづけてお前の首が締まって大変なことになったろう? 紐がとんでもなく余ってしまっているし、やっぱりすこし短く」


 ひらひら靡いて可愛いと思ったから長く余らせたのだが、それが仇になった。

 隣で寝ているときに余った紐を体で踏みつけて、彼を危うく窒息死させそうになったのだ。


「っ、だ、めだ!」


 結び途中にも関わらず彼は大きく首を振って抵抗した。するりと紐が手から抜けていく。

 彼の形相は必死だった。たからものを取られまいとする子どものようだった。


「……絹夜きぬや

「……だめ、だ。……な、なにも。……しないで。……くれ」

「紐を短くするのもだめ?」

「……ん」


 こくりと頷く。

 彼はどうやら貰った当初のままが良いらしい。可愛いと込み上げる感情にふっと頬が緩んだ。


「わかった、なにもしない」


 降参だよ、と両手を万歳すると彼は再び口を動かしてから、吐き出すように、


「……ん。……んん、……あり、が……とう」


 と口にした。


「よくできました。――はい、座って絹夜。紐、まだ結べていないから」

「……ん」


 再び同じところに行儀よく座った。

 うなじのあたりで蝶結びにする。「きつくない?」と訊けば「……問題ない」と答えが返ってきた。

 結び終えて「できたよ」と終了を伝えると彼は新しく結ばれたその部分を確認するように触った。りりんりりん、と鈴が再び唄い出す。


「……零雨」

「うん? なあに」

「……ありがとう」


 まるで花が咲くように。

 彼は笑った。


「……っ!」


 思わず顔を背けると伴侶はとてもふしぎそうな顔をして首を傾げた。

 察した猫数匹がにやっと笑ったのが目に入った。睨んで黙らせた。


「……それじゃあ。……俺は」

「ああ、そうだね」


 立ち上がって玄関のほうへ向かい、靴を履いたあと、くるりと振り返る。余った紐がふわりと空気を含んでやわらかくしなった。


「……ん。いって、くる」

「行ってらっしゃい、俺の一等星」


 引戸を開き、そして閉じると彼の体はきゅうと縮んだ。赤い猫になった彼のその背がすりガラス越しに薄れていくのを見ていると、不意に後ろから声がした。


『――感心せんな』


 それは長老と呼ばれている猫だった。毛の長い種類の猫で、顔を覆うそれがまるで髭のようだった。たしかに彼はここにいる猫のだれよりも年上だった。化け猫であるから老いも若いも本来あまり関係がないけれど、その知識量はほかの猫を圧倒するから尊敬の意を込めて長老と呼んでいる。


「……おや、長老。おはよう」

『白々しい坊主だなあ。きみ、またあの紫陽花のところに行ってたんだろ』


 おはように返しもせず、長老は教師のような言いぐさで詰め寄った。


「……なんのことかな」

『ぼくに白を切れると思わないほうがいいよ。紫陽花のたもと……。いるんだろう、赤猫くんの友人と同じモノが』


 長老の、その白く濁った目が細くなった。

 ――彼の視力はほとんどない。だから彼は配達には携わっていない。けれどその優れた知恵と鋭敏な聴覚はとても役に立つからここにいる。

 目の見えない長老だからこそ、視えるものがあるのだろう。


『なぜ隠しておくんだい? 言ってしまえよ。きっと彼はそれをうれしく思うはずだぞ』

「……」

『おい』


 長老が答えを急かす。なんとなく裾についた泥を見遣った。

 この正体を知ればあの子はどんな顔をするだろうか。喜ぶだろうか驚くだろうか。

 見てみたい気もしたけれど、それよりもずっと大切なことがある。


「いいんだよ」

『……なぜ?』

「俺はあの子の幸せだけを願っているからさ」

『……』

「あの子が幸せでいてくれさえすれば、いいんだ」


「それだけでいいんだよ」と後押しするように付け足した。長老は目を細めて黙っていた。

 それは本心だった。紛れもない自分自身の心の声だった。

 しばらく双方黙っていた。そこにやってきた黒ぶち模様の猫のゴマが静かなふたりを見て首を傾げた。


『おはよう、主、長老。――えっと、どうしたの?』


 不思議そうなゴマの問いに「いいや、なんでもないよゴマ。おはよう」と答え、彼を抱き上げて腕のなかにおさめた。ゴマはうれしそうにごろごろ鳴いて二の腕あたりに頭をこすりつけていた。


『……気障キザな事を言う』


 長老の呆れた声。それにゴマが、


『……主が気障なのは今に始まったことじゃないよ?』


 と言った。驚いてゴマを見ると彼は琥珀色の目を丸くさせて『どうしたの、主』と訊いてきた。

 長老が『くっ』と笑いを堪えた声が聞こえた。

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