花圃ちゃん先生はワルい子

「すっかり、遅くなっちゃったね」


 隣で言うしゅー君の言葉に、私はコクンと頷く。

 里梨花ちゃんにバイバイと手を振った後――ようやく、私は満たされた気がしたんだ。


(……私ってワルい子だ)


 しゅー君は私に合わせて、歩幅をあわせてくれる。あれ? って思って、歩くペースを意図的にゆっくりにしてみたら。しゅー君は歩くリズムを崩すことなく、自然と私にペースを合わせた。


 ――あぁ、あれはお兄のクセみたいなモノだから。ママが女の子にはしっかりエスコートするようにって、口酸っぱく言っていたからね。


 朱梨あかりちゃんは、カラカラ笑うけれど。いやいや、普通、そんなに自然にできないからね?


 今、こうして一緒に歩くだけで、私は充足感に包まれていた。でも、しゅー君の振る舞いが、私だけの特別じゃないって知ってしまったんだ。


 しゅー君の良さを、他の子に――梨々香ちゃんに知ってもらって、むしろ嬉しいはずなのに。


(……私、本当にワルい子だ)


 紅い鮫レッドシャーク


 みんな、そう言う。ずっと、そう言っていたら良いのに。

 目が少し鋭いだけ。髪が紅いだけ。そんな男の子だ。でも、彼の本質を知ったら。むしろ全然、怖くない。こんな優しい目をする人を、どうして怖がっていたんだろう?


 紅い悪魔レッドデビル


 バスケットボール部時代、下河君がしゅー君のディフェンスを称して名付けた。


 みんな誤解しているけれど、敵チームにとっての「悪魔」は、味方チームにとっては守護神だ。しゅー君は信頼を寄せてくれる人には、一切の妥協をしない。


 そういう意味では、私も湊ちゃんも、黄島君も、キャプテンさん達にも、そして里梨花ちゃんに対しても、そのベクトルは一緒だって気付いてしまう。


(……それはイヤだ)


 そう思ってしまう。しゅー君を独り占めしたい。妹の朱梨あかりちゃんに敵わないって思うけれど。それでも、誰よりも私を見て欲しい。しゅー君と一緒の時間を過ごせば過ごすほど、そう思う。

 だから、学年主任の提案が腹立たしい。


 ――秋田や藩宮だけが、花園保育園でボランティアをするのは不公平という声があがってね。家庭科の先生とも話をしたんだけれど、期間限定で、ボランティアとして受け入れてくれないかって、打診したいんだ。ほら、感染症の流行で現場保育体験ができていなかっただろ?


 思い返したら、さらに腹がたってきた。

 独身50代の学年主任は、20代の泰田先生に片想い中。なんとかポイントを稼ぎたいらしい。もともとの体験授業も、泰田先生は何も言っていなのに、いきなり花園保育園に提案してきたのだ。


 お母さんの入院中。保育園の行事や、保育士さん達のシフトもあるのに、考慮せずに。


『できるよな?』


 学年主任のねっとりとした視線。

 泰田先生を。それから私を見る目が気持ち悪い。


 この感覚を、どう表現したら良いんだろうか。

 まるで、頬に虫を這うような感覚すら憶えた。

 そういえば……あの人も同じような視線を送っていたことを思い出す。


 ――花圃かほ、君はワルい子だ。


 ねっとりと。

 喜色を滲ませて。


 それから、下着を下ろされた。

 そして、笑顔で臀部を平手で打つ。乾いた音が、あの部屋に響いた。


 何度も、何度も。

 竹定規でも叩かれた。

 何度も、何度も。何度でも。


 ――花圃かほ、パパはね。君のことが心配なんだ。


 何度、打たれただろう。反抗しようとすれば、頬も打たれた。背中にタバコを押しつけられた。お母さんがいない時間を狙って、あの人は私を《《教育》」い続けた。


(……私は、ワルい子……)


 何度、その言葉が自分の口から漏れただろう。男の人は、あの人と同じようにネバネバした視線で、私を見る。


 ――流石、聖母様だよね。

 ――花園さんに任せたら、安心だね。

 ――花圃ちゃん先生、本当に頼りになる!

 ――男の子を誤解させるような行動をしちゃダメだ。花圃、君は本当に悪い子だ。


 幾つもの勝手な声が、重なって。反響して。


(……もっと良い子にならなくちゃ)


 私は、しゅー君から距離を置く。

 もっと、しっかりしなくちゃ。


 私もっと、良い子にならなくちゃ……。

 そう何度も、自分に言い聞かせる。


 と、誰かに視られている様な錯覚を憶えて。その視線に、足下を掬われたような気がした。


(え?)


 目をパチクリさせる。

 歩道の縁石に、私は躓いて。そして、ふらついた。

 すっかり薄暗くなった、夕暮れ時――車のヘッドライトが燦々と輝くのが見えた。思考に囚われた私は、足が竦んでしまう。


 ――花は頑張っているよ。でも、一人で頑張ったら辛くなるから。日本語って不思議だよね? がんばるって「頑なに張る」って書くでしょ? でも、そんなに張り詰めたら辛いから、俺にも手伝わせて?


 いつかの、しゅー君の声が響いた。

 覆い尽くしていた言葉を、たったその一言が吹き飛ばしてしまう――その瞬間だった。


 エンジン音が響く。

 私は目を大きく見開く。

 もうダメかも、そう思って目を閉じた瞬間だった。


「花っ!」


 しゅー君の声が現実に、私を引き戻す。

 自然と、私の手が伸びた。


 指先と指先が触れる。そして絡まって。力一杯、しゅー君に引き寄せられた。

 私の顔が、しゅー君の胸元に埋まる。


 どく、どく、どく、どく、どく、どく。

 しゅー君から聞こえてくる、その鼓動が早い。


 私達の横を、ヘッドライトが照らす。クラクションが鳴り響いて耳が痛い。そして、エンジン音とともに、通り過ぎていった。


「あ……」

「花?! 大丈夫だった?」


 しゅ-君の言葉に、コクコク頷くしかない。

 見回せば、誰もいない。


 しゅー君が、心配そうに私を見やることを除けば。


 とく、とく、とく、とく、とく、とく。

 私の鼓動が、しゅー君に聞かれないか不安になる。


(ワルい子……私はやっぱり、悪い子――)


 それなのに。

 男の子に、抱きしめられている。そんな状況シチュエーションなのに。いつもなら他の男子に触れられただけで湧き上がる嫌悪感が、やっぱり湧いてこなかった。


 しゅー君に呼ばれることが、日に日に嬉しく感じている自分がいる。


「良かった、花が無事で」


 心底、安堵したかのように、吐息を漏らす。

 しゅー君は、無意識だったんだと思う。私のことを強く、ぎゅっと抱きしめる。私は目を白黒させながら、自分の膝が震えていることに、今さらながら気付いた。


(暖かい……)


 震えが少しずつ、消えていって。

 イヤじゃない。


 しゅー君が、本当に私を心配してくれているのが、分かる。

 気付けば、私からも背中に手を回していた。


 薄明かり、街灯に照らされて。

 落ち着くのに、安心するのに。


 とく、とく、とく、とく、とく、とく。

 心臓の鼓動が、収まらない。








 ようやく、落ち着いて――。

 自然と、しゅー君の体が離れていった。


(あ……)


 いつもの距離感、いつもと同じ歩幅。頬――どころか体の芯まで熱い。今なお、心臓が〝とく、とく〟とリズムを刻む。今日の私はおかしい。自分でも、そう思う。誰もいないのに。今この瞬間も誰かの視線を背中に浴びているような錯覚を憶える。



「あ、あのしゅー君……」


 気づけば、声が出ていた。


「何?」


 しゅー君が、私の顔を覗き込む。


「あ……あの、あ――」

「うん?」


 しゅー君は、私の全てを受け入れてくれる。今だって、そう。いつだって、そう。良い子じゃない私を――ドジな私を見ても幻滅しない。ワガママを言っても、受け入れてくれる。もう鉄の聖母様って呼ばない。そう呼ばれることを、私が好きじゃないと察してくれているから。


 しゅー君だけが、私のことを「花」って、呼んでくれる。

 だったら。

 それなら――。


「しゅー君!」

「へ……?」


 彼は目をぱちくりさせる。ダメだ、もう止まらない。歯止めが効かない。バカみたいって思うのに。良い年をして、何をって思うのに――。


「子どもじゃないけれど、しゅー君に甘えるの、ダメですか?」


 言った。言ってしまった。彼は首を少し傾げて。それから、ふんわり笑む。


「頑張りすぎの花だからね。むしろ甘えて欲しいって思っているよ」


 頼ると甘えるを混同している気がした。でも、それで良い。しゅー君は私を拒絶しない。


「……それなら、手を。手を繋いでもらって良いですか?」

「了解ッ。この辺り、デコボコしているもんね。しっかりエスコートさせてもらうね」


 そうしゅー君は躊躇なく私の手を取った。

 恋人繋ぎとは、まるで違う。


 軽く、手の甲に指を添えて。それは本当の意味でのエスコート。背中に感じていた視線が気にならないくらい、私の心が軽くなる。求められたら、きっと梨々香ちゃんにも、朱梨ちゃんにも同じようにするんだろう。それは分かっているけれど――。




 今だけは、私が独占したい。

 そんなふうに思う私は――やっぱりワルい子だ。

 





■■■




 一瞬。

 それはほんの一瞬だった。


 街灯の当たらない場所で。

 また車が走り去る。


 ヘッドライトが眩しくて。

 瞬きしたタイミングで、カーブミラー越し。こちらを見る双眸を見た気がした。



 すっと、しゅー君が私の手を優しく引く。

 もうカーブミラーには、誰も写っていなかった。


「花?」

「あ、なんでもありません。大丈夫――」


 ギシッと歯軋りのような音が、鼓膜に響いたのは――きっと小石を踏んだから。

 私は、手に添えられただけじゃ、満足できなくて。自分からしゅー君の手を握ってしまう。


 しゅー君が戸惑っている。そんな彼の視線に、思わず頬が緩んだ。


(だって……甘えて良いって言ったの、しゅー君だもん)


 保育園の子たちのように、当たり前のように手を握って。その腕に抱きついてみた。


「は、花?」

「えへへ」


 頬擦りする。

 色々な感情が入り混じって、グチャグチャになっていたのに。

 今は全部、しゅー君でいっぱいだった。



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