花圃ちゃん先生が大切にしていること


 ――この花園保育園が、一番大切にしていることってなんですか?



 しゅー君が言った言葉に、私は思考停止してしまった。考えれば考えるほど、思考が追いつかない。


 この保育園が好きだ。

 それは間違いない。


 でも、この保育園がどうして「好き」なの? そうしゅー君に尋ねられた気がした。


 生まれてから、ずっとこの保育園を見てきた。

 街の人たちに愛されていると実感する。


 これまで見てきた保育士さんのように――お母さんのような保育士になりたい、ってそう思った。この花園保育園の保育士になる、それが当たり前のことだと思っていたけれど。


(こんなの、全部……私のエゴだ)


 花園保育園が、大切にしてきたことを、私は言葉にできない。その事実に愕然としてしまった。


 しゅー君のことなら、まだ言える気がする。


 秋田朱理君。紅い髪、鋭い目、陶磁器のような白い肌。その見た目から紅い悪魔レッドデビル紅い鮫レッドシャークって――いや、それは違う気がする。周囲が勝手に作りあげた先入観。そこには、嫉妬がかなり強く含まれていた……今ならそう思える。


 雑誌に載っていてもおかしくない。


 それは保育士雑誌「ほい★たま」に掲載されたしゅー君を見て思った。保育士の卵、保育課程の学生さんから届いたダイレクトメールは、私で止まっているけれど。


(ズルいよね、って思うけれど)

 自分の独占欲に自覚した。なにが鉄の聖母様か。

 好きな人を独り占めしたい。

 他の人に、簡単に笑わないで欲しい。


 私だって、しゅー君を偏見で見ていた人間の一人だった。そんな人間ヤツが何を言うのだって、思うけれど。


 ――でも少なくとも私は、しゅー君に救われた。


 この人は目の間に映る誰かのためだったら、まるで妥協をしない。たとえ、誰かに何を言われたとしても。後悔しないように行動する。それは、間違いなくしゅー君の理念だった。


 そんな彼に救われた。

 大変な毎日が。

 義務感で続けた保育士業務が。

 最近、ワクワクして止まらないのだ。

 子ども達が笑顔で。

 お母さん達はそんな園児としゅー君を見せて、唇を綻ばせる。


『秋田君、格好良いわよね』


 声を揃えて言う。

 その度にモヤモヤする。


 知っている。


 しゅー君の格好良さを知ったのは、朱梨ちゃん以外では、多分きっと私が初めてだ。黄島君と湊ちゃんは、あえて外させてもらう。


(私が先)


 藩宮さんより、私が先だから。

 ぐっと、拳を握ってしまう。


 そつなくて。

 優しくて。


 料理も上手で。


 同年代の男の子に比べて、オシャレもさり気ない。


 何より、ドアを開ける時も。椅子に座る時も。バスの段差から下りる時も。さり気なくエスコートしてくれるのだ。


 ――あれはね、ママの直伝だから。


 アイルランド人のお母様。サーシャ・ギャラガー・秋田。


 話のなかでしか、私はしゅー君のお母様を知らない。しゅー君が思い出を辿ろうにも、火事で写真も思い出の品も、何もかも焼けてしまった。誰にも優しく、手を差し伸べるのはご両親の影響なのだと思う。


 火事現場で、観月ちゃんを救った時も。

 火花君との時だってそうだ。駆けつけてくれたしゅー君の姿が、今も目蓋の裏側に焼きついている。

 本当に格好良かった――。


(……本当にズルい人だよ)


 気にしない素振りを見せながら、ここぞという時に一切の妥協なく動くんだから。

 私はもう、諦めていたのに。


 火花ファイアーワークエンタープライズとの交渉は勿論、お母さんから聞いていた。


 しゅー君は呆れるかもしれないけれど、私が我慢しらたこの保育園を救えるかもしれない。そう、自分の気持ちを飲み込もうと思ったのに。


「花?」


 きょとんと、しゅー君は私のことを覗きこむ。

 その顔だよ。


 人との関わりを諦めた、達観した表情カオを普段はするクセに。近しい人にはそんな無防備な笑顔を漏らすのだから。


(無理だったんだよね)


 火花君が本当に無理だった。

 しゅー君なら全然、大丈夫なのに。


 火花君に触れられようとした瞬間、吐き気がこみ上げてきたのだ。本当に吐いてしまわないように、あの時は胃液を飲み込むことに必死で。


 元父親と、あの笑顔が重なる。

 あんな笑顔を浮かべながら、私の背中にタバコを押しつけて――。


「そんな難しい話じゃないからね?」


 しゅー君はふんわりと、そう言った。私が投げかけた質問に、ずっと悩んでいたと思ったらしい。


 彼の声が耳に飛び込んでくるだけで、元父親の薄っぺらい笑顔を吹き飛ばしてしまう。と、職員室の奥。張り紙が貼ってある壁面。その1枚1枚を丁寧にしゅー君は取り除いていった。





■■■





【花園保育園理念】

花園保育園は街のキーステーションとして、笑顔と安心と健やかさをお届けします。





■■■






「あぁ……これは先代の。爺さんが作ったヤツだね。もう亡くなったけれど。爺さん――つまり、私の父だけれどね。あの人、ラジオの司会DJを目指していて。本当に、何を言っているんだ、って感じでしょう?」


 お母さんは、照れくさそうに言う。そう言いながらも、拒絶した様子は見えない。懐かしそうに、その理念に視線を送っていた。

 その一方で私は呆然としてしまう。


(……知らなかった)


 ずっと、この職員室で過ごしてきたのに。まるで記号の一つとでも言わんばかりに、私はこれまで見逃してきたのだ。自分が大好きだった保育園なのに――。

 でも、と思う。


「これ花園保育園らしい……」


 思わず私は、そんな言葉を漏らしていた。


「そうだね。俺もそう思ったよ」


 にっこり笑って、しゅー君は言う。


「これはね、父さんからの受け売りなんだけどさ」

「あっきーが?」


 いつもクールなお母さんが、前のめりで食いつくのが不思議だった。しゅー君は、その言葉を受け止めてコクンと頷く。


「チームが迷ったら、理念に立ち返るのが大事なんだってさ。ま、父さんの病院時代の話だけどね。ほら、お医者さんって偏屈な人が多いから、色々面倒くさかったらしいよ?」


 しゅー君はおどけて言う。受け売りって言うけれど、今相談をするお父様は傍にいない。しゅー君が、花園保育園のために一生懸命、考えてくれた証拠が今なんだと思う。


「この保育園ってさ、地域の人に愛されているって感触があるんだよね。これから失言を言うけど許してね? 設備は新しくないし、独自の取り組みがあるわけでもないけど、みんながこの保育園のことが好きで。それって、大きな強みだと思うんだよね」


「……でもさ朱理、理念が分かっても、結局は問題の解決にはならないんじゃ――」

「キャプテン、どうして水を差すようなことを言うの!」


 マネージャーさんにぐいっと、キャプテンさんは引っ張られた。でも、私もそう思う。理念を改めて知ったところで――。


「理念って大事なんだぜ、キャプテン? キャップテンがマネージャーのこと大切に想ってブレないのと同じくらいに――」

「ちょ、朱理?! いきなり何を……」

「もう、イヤだ。みんなの前でそんな風に言うの、恥ずかし過ぎるから、秋田君っ!」


 恥ずかしがるマネージャーさんに、キャプテンさんはどんと突き飛ばされる。ものの見事、空いているソファーに、前のめりに突っ込んだキャプテンさんだった。






■■■





そして。もう一回、仕切り直し――。





■■■





「お前ね……」

「ごめんねなさい、あ・な・た」


 マネージャーさんはキャプテンさんの「お前」に反応したらしい。すっかり夫婦めおと漫才だった。


 でも羨ましいと思ってしまうくらい、二人は本当に仲が良い。バスケ部では、チームの和を乱さないために、自重しているとは本人達の弁。しかし実際はまるで自重できていないだろうな、と思ってしまう。黄島君と湊ちゃんの呆れた表情を見れば、安易に想像できてしまう。


「……話を戻すけどさ、やっっぱり保育園の理念が分かったくらいじゃ、何の解決策にもならないと思うんだけど?」


 そう言ったのは黄島君だった。


「ま、実際には園長先生が一番、何が大切にしてきたのか。そっちの方が重要なんだよね」

「……私?」


 お母さんが目をパチクリさせる。しゅー君は、小さく頷いた。

 花園保育園が大切にしているもの。


 目を閉じる。


 子ども達の笑顔。

 積極的に関わってくれる、お母さんやお父さん達。

 そして、すでに卒業した園児や、町内会の皆さんがこうやって今も。今日だって――。



「やっぱり、地域の人達かな。保育園単体じゃ成り立たない。園児を育むには、地域の人と一緒じゃないと、無理だから」


 そうお母さんは、言葉を慎重に紡いでいく。

 周りを見る。

 そんなお母さんの言葉に、みんなが嬉しそうに笑顔を溢しているのが見えた。


「朱理――」


 ぐっとキャプテンさんが拳を固める。


「俺達の卒園した保育園だから。やっぱり、俺も協力したい」


 キャプテンさんと彩翔君、そしてしゅー君は視線を交わす。それからごく自然に、コツンと拳を突き合う。


「……それはやっぱり、園長先生が初恋の人だから、想い入れがあると」

「なに言っているの、湊?! これは純粋に――痛い、痛いっ! 邪な気持ちはこれっぽっちっも無い! だから翼、耳を引っ張らないでっ!」


 キャプテンさんの大絶叫。そして、さらに笑いが渦巻く。

 と、しゅー君も苦笑して――でもすぐに、切り替えて。真っ直ぐにお母さんと、それから私を見やる。


「今の最大の問題は、保育士さんが足りないってことですよね」

「そう、ね」


 お母さんは、コクンと頷いた。現実を改めて直視して、苦々しいその表情は隠せない。


「花園保育園が大切にしていることは、地域との共生なんですよね?」

「保育が、保育園単体で成立するなんて、あり得ないからね。社会全体で、子ども達をバックアップしないといけないって思ってる」


「……それじゃ、地域の人が協力してくれたら、年齢は問いませんか?」

「え――」


 お母さんは、言葉をつまらせる。それから、コクンと頷いた。


「そりゃ、労働基準法に抵触しない限りは。でも、未成年はダメだよ? そもそも、君らに保育士資格はないから。あくまで保育ボランティアって位置づけにしかならなくて――」


 お母さんの反論を、しゅー君は笑顔で受け止めた。


「梅さん?」

「あいさ?」


 顔をあげたのは給食先生こと、厨房担当の高樹梅さんだった。御年、70歳を超えてなお、町内会副会長を担いながら、花園保育園の厨房まで担当してくれるバイタリティーには、本当に頭が下がる。

 でも間もなく後期高齢者である梅さんに何かができるとは――。


「梅さんのお知り合いに、元保育士さんっていませんか?」

「そりゃ、いるけどさ。朱理坊……あんた。彼女達、だいぶお姉さん――いや、婆さんだけど、良いのかい?」

「良いも悪いも、地域のサポートに年齢は関係ない。そうですよね、花奈さん?」


 しゅー君はにっこり笑う。

 私は唖然として、しゅー君とお母さんを見やる。

 お母さんは、口をパクパクさせてばかりで。想定外の提案に、声にすることもままならない。






■■■





 保育園に勤める保育士は、国家資格である保育士を取得していることが、必須条件。


 現在、保育士登録者数は150万人以上。


 実際に働いている保育士は約60万人。ただし、この数字には、認可保育園以外――いわゆる託児所等は含まれない。それにしても、資格を取得した後働いていない。もしくはリタイアした潜在保育士が6割にものぼる。


 お母さんと一緒に、保育士の求人を模索しているなかで、どうしても目を背けられない数字だった。でも、だからと言って実際に打てる手があるはずもなくて――。



「そりゃ、あの人達は喜ぶだろうさ。家に閉じこもってもボケるだけだしね。私だって声をかけてもらった時は、そりゃ嬉しかったものさね」

「というコトみたいなんですが、花奈さんどうですか?」


 ニッコリ、しゅー君はそう微笑んだのだった。








「意外におばあちゃんの知恵袋って、バカにできないと思うんですけどね?」

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