じゅーいち!


 味噌の優しい匂いが、鼻腔をくすぐる。パン食も良いが、やはり和食は、活力が出る気がする。


 もうバスケットボールをしていないのに、どうしても栄養管理視点でレシピを考えてしまうから、習慣っておそろしい。


「ふぁ~ぁ」


 欠伸が漏れて、気が抜ける。眠りが浅かったのか、結局は5時には起きてしまったのだ。朝食作りとお弁当作りを考えたら、最適かと開き直る。


 洗いかごを見やる。焼きおにぎりを載せた皿が、ちゃんと洗われてソコに鎮座していた。ちゃんと、食べてもらったのなら、作り手としては、何よりだって思う。


 ――お兄、私はいつもの、このお弁当箱ね。花圃ちゃん先輩はこっちでヨロ!


 ヨロ! じゃないからな。思い出して、俺は脱力感を憶えた。


 朱梨あかりがバスケ部時代から愛用していた、大工が使うかのような無骨なステンレスの弁当箱。かたや、保育園児が使うかのような、国民的パンヒーローのお弁当箱。明らかに対照的で。


(おかずの量が違うと作りづらいんだけどなぁ)


 そう思いながら調理を開始する。とはいえ、昨日のパーティーで余ったおかずは、お弁当行き決定である。世の中には、昨日の晩のおかずや冷凍食品をつめこむことに、不満に感じるご主人様がいるようだが、天誅と言いたい。


 お弁当で一番、心を砕くべきは、冷えても美味しそうな彩りである。どれだけの主婦が苦労しているのか、察して欲しいものだ。最近の冷凍食品はバカにならないぐらい美味しいのだ。ただ、冷食には負けたくないという意地から、メイン食材は手作りにこだわる俺だけれど。


 ミニハンバーグをフライパンで焼きながら、コーヒーを啜る。

 どうせ、今日で最後だ。少し豪華に作ってあげよう。そんなことを思った。






 裏口から出ようとした時、事務室の方から賑やかな声が聞こえてきた。


(え? こんな時間から――?)


 そう言えば、と思う。早朝保育も延長保育もあるから、保育士さん、本当に大変そうなんだよね、と朱梨が言っていたのを思い出す。


「「おはようございます!」」


 母子の、そんな声が重なって、微笑ましいと思ってしまう。


「はい、おはようございます」


 花園の声がした。

 園長――花園の母親は骨折で入院中。他の保育士さんも退職して、人手が少ないとは朱梨からは聞いていた。でも、登校前、朝食も食べずに、お前が保育士の代役ピンチヒッターを務めるのはのは、ちょっと違うのじゃないのだろうか? そんな声が思わず漏れそうになってしまって、口元を塞ぐ。

 おかげで、キャリーバッグを倒しそうになって、コッチも慌てて押さえる。


「ところで、花圃ちゃん先生?」

「はい?」


 みんなから、花圃ちゃん先生って言われているのか。微笑ましいって思ってしまった。


「昨日から、高校生の子が来ているんでしょう?」

「あぁ、朱梨ちゃんのお兄ちゃんですね。縁があって、しばらくの間、お手伝いをしてもらうことになったんで」

「その子、確か……紅い悪魔レッドデビルって呼ばれているって、聞いたんだけれど――」


 そんな声が聞こえた。

 キャリーバッグを引く。


 結局、ココでもか。いや、ドコにいても、結局、人が見る目なんか変わらないのだ。


 モタモタしている時間なんか無い。

 このキャリーバッグを、まずは預けて。登校はそれからだ。


 砂利道だから、思うよに引けない。キャリーバッグが跳ねたるのも構わずに進む。俺は急ぎ足で保育園を出たのだった。





■■■




 気のせいじゃない。

 ずっと見られている気がした。


 久々の学校、好奇の眼差しを向けられるのは、覚悟をしていた。だいたい、忌避と恐れの感情は、一日何回か向けられるのは恒例行事だから、もう慣れている。でも、背中から感じる視線は、今まで受けたどんな感情よりもと思ってしまう。


 右斜め、2席ほど後ろを、チラリと盗み見すれば、にっこり笑顔で返された。紅い悪魔に臆すことなく返してくる人なんて、黄島達以外あり得なかったのだが。


 ――鉄の聖母様、花園花圃その人だった。


 いや、そこで手を振らなくていいからな?

 お前は男が苦手なのだろう? そう心のなかで呟いてみるが、もちろん花園に届くはずがない。やっぱり感じる視線に、授業を集中するどころじゃなかった。授業の終了を告げるベルが鳴っても、教師が授業を続けるのが、今日はなんともじれったい。


「よし、今日はココまでにしようか」


 そんな声で、教室内から一斉に、安堵の声が漏れる瞬間だった。

 終礼のかけ声も、耳に入らないくらい、脱力して。

 クラスメートの喧噪と、俺の欠伸が入り交じった。






朱理しゅり、一緒に食べようぜー」


 昼休憩、満面の笑顔でやって来たのは、黄島彩翔である。バスケ部にもう所属していない人間に、こうもマメに接してくるのだから、律儀なヤツだって思う。彼女と一緒に食べれば良いのに、と苦言を呈したことも、一回や二回じゃない。


 一方の海崎湊は、この時間は花園花圃と一緒にご飯を食べるのが日課で。そのルーチンを予測していたからこそ、授業終了のチャイムに安堵した俺がいたのだった。


「黄島……お前もいい加減、海崎と食べたら良いんじゃないの?」

「湊とは放課後イチャイチャするから良いの。友達との時間も、青春ってヤツじゃん?」

「黄島っておっさんくさいことを言うよな、本当に」


 半ば呆れ、半ば苦笑を漏らしながら、コンビニで購入したサンドイッチを取り出す。


「そうか……でも、本当に良かったのか?」

「え……あぁ、黄島も聞いたのか。ん、良いも悪いも、明らかにあんな拒絶反応をされたら、やっぱり考えちゃうから」

「親父さんとは?」

「連絡がつかない。多分、俺に連絡する余裕が無いんだと思う」


 前回の通話が、退院間際。それも短い時間で、強制的に通話が終了になった。銃弾が飛び交う市街地だ。悠長に通信もできないだろうって思う。何もできない息子としては、ただ無事を祈るしかない。国籍なき医師団ボーダレスギルドに父さんが所属した段階で、覚悟していたことではある。


「ま、仕方ないって思うけど。朱理は、ちゃんと花園さんと話し合った方が良いと思うんだよね」

「え?」


「話し合わないでフェードアウトほど、気まずいんじゃないの?」

「ん……」


 黄島の言うことも分からなくもない。でも、最初から期待しなければ、そもそもお互いイヤな気持ちにあることはなかった。


 そもそも、父さんが事前にちゃんと相談をしれくれたらって思ってしまう。朝の保護者の反応にしてもそうだ。結局、この保育園暮らしは、そもそも無理があったのだ。

 そんなことを思っていると、カタンと後ろで椅子が動く音がした。


「――湊ちゃん、ちょっとだけゴメンね」

「まぁ、いつもの朱理のペースで考えたら、いなくなっちゃうかもだもんね。花花はなはなちゃんの判断は間違ってないかな」


 後ろで聞き馴染んだ声がうんうんと頷いていた。当然ながら、海崎湊も俺の行動ルーチンを把握済みだった。


 昼食摂取後は(あえて、こういう表現をさせてもらおう)とっとと撤退して、図書室で時間を潰すのが、俺のお決まりの行動だった。だって、黄島は明らかにお情けで俺と付き合ってくれている。それなら、できるだけ彼女との時間を優先してあげて欲しいと、どうしても思ってしまう。


 コン、コン。

 足音が響いて。


 賑やかだった教室の喧噪。波が引いたように、一瞬で静まり返ってしまう。

 コン、コン、コン。その足音が、案の定、俺の真横で止まった。


「しゅー君――ありがとうございました」


 俺の目の前で、ペコリと頭を下げる。俺は思わず、囓りかけていたサンドイッチを落としかけて、かろうじてキャッチする。

 引いた、波がまた寄せる。教室中が、好奇心を一点、に注いで。







「「「「「「「ええぇぇぇぇぇっっっ?!」」」」」」」







 ごめん、俺もその驚愕の声に混じってしまった。

 いや、ちょっと待って、花園。お前は男が苦手で。俺に名前を呼ばれることに嫌悪感を抱いていて――。



「ちゃんと言いたかったんです」


 でも当の花園は、周りの反応に、何ら意に介することなくて。いや、黄島と海崎? お前らはなんで、ニヤニヤしているのさ?


「焼きおにぎり、本当に美味しかったです。子ども達にありがとうって言われることはあっても、ああいう形で応援してもらったの、本当に初めてだったので」

「あ、いや、あの、それは――」


「一言、言いたかったのに。しゅー君はもう学校に行った後で……。でも、やっぱりお礼は直接言いたかったから……」







「「「「「「しゅー君?!」」」」」」







 お願いだから、いちいち反応しないで。聞き耳もたてないで? 分かるよ、鉄の聖母様が、なんで【紅い悪魔レツドデビル】に距離が近いんだよって、話だよね? 俺だってそう思うよ! でも、妹がお世話になっているだけなんです。それだけなんです。今日からは、別のお宅で俺は過ごすから、そんな関係じゃありませんって懇切丁寧に言い訳させて欲しいけど。花園……近いよ、距離が近いから! そんなに詰めなくても、ちゃんと話は聞いているから、ちょっと落ち着こう?! いや、むしろ俺が落ち着こう――。


「朝ご飯も本当に美味しかったです。今まで朝が忙しくて、抜くことも多かったし、食べてもパン食だったから、むしろ新鮮で」


 それは良かったね。良かったよ、喜んでもらえるの嬉しいけれど、距離が近い。だから、本当に近いんだって!

 やっぱり、そんな俺の心の叫びは、花園に届かない。


「一生、しゅー君のお味噌汁が食べたいって思ってしまいました」







「「「「「「ええぇぇぇぇぇっっっ?!」」」」」」







 みんな、すげぇ良い「ええぇっっ?!」をありがとう。俺も同じく叫んでしまいたいよ。本当に花園、お前、ポンコツだよな。鉄の聖母様じゃないよ、鉄屑スクラップだよ! 


 一生、君のお味噌汁が飲みたいは、プロポーズの決め台詞じゃんか?! そんなこと素面で言うの、ラブコメの世界だけかって思っていたら、いたよココに! 現実リアルにっ!!


「お弁当も本当に美味しくて。ただ、ちょっと言いたいこともありますけど……」


 ジッと俺のサンドイッチを見て言う。だって、もう別のお宅で、父さんの帰国までは、お世話になるつもりだったから。そもそも弁当箱を買っていなかったし。当然と言えば当然の結果なワケで――って、なんで心の中で言い訳のオンパレードになっているんだろう俺……と、思わず自問自答してしまう。


「でも。今は言いたいこと、それじゃないから」

「へ?」


「――ごめんなさい」


 ペコリと花園が、頭を下げた。


「私、しゅー君を嫌ったワケじゃないですから」

「え、えっと? え?」


「私は本当に、しゅー君のことを考えず、自分のことばかりで。本当に、ごめんなさい」


 空気が凍り付いた。

 最敬礼で、花園に頭を下げられて――。





■■■





「……秋田? 聖母様を、なに脅しているの? ちょっと僕、黙っていられないんだけれど?」


 その沈黙を破って、上げられた声に俺は目を丸くする。

 まるで囁くようで。相手にどんな風に聞かれているのか、意識している。甘い声音って、こういう声を言うのかもしれない。 


 窓から風が吹き込んで、彼のサラサラヘアが、風になびく。整髪剤の強すぎる甘い匂いに、吐き気すら憶えた。


 黄島、それからバスケ部キャプテンに並んで、学内イケメンランキングにカウントされているる好男子。クラスメートの火花煌ひばなきらめきが、憤りを隠さず、距離をつめて――俺を睨んできたのだった。

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