さんっ。



「うちの保育園の子を泣かせるなんて――高校生として、恥ずかしいと思わないの?!」


 花園花圃はなぞのかほ。特に接点もないクラスメートに睨まれて、俺はげんなりするしかなかった。


(……うちの保育園の子、ね)


 気付かれないように小さく息をつく。誤解を受けるのは、別にこれが初めてじゃない。この赤い髪と、その目がどうしても誤解を生んでしまう。善意で手を差しのべようとしても、こんな反応だった。


 そんななか、相変わらず、黒髪が綺麗だなぁと、半ば冷静に朱理は思う。

 学内の有名人。男女ともに憧れを抱く、花園花圃はそんな人だった。


 175㎝は女性にしては高身長か。背筋をのばし、凜とした佇まいが、なおいさら人を惹きつける魅力がある気がする。 


 彼女の親が保育園を経営しているのは、校内でも有名だった。彼女自身、保育士を目指していると公言している、何より家の手伝いと称して、友達付き合いを後回しにすることも、人気に拍車をかけた。いつの間にか、つけられたあだ名が……。


 ――鉄の聖母。


 彼女は数少ない、友人たちに「私は母じゃないし、そんなに冷たくないからね」そう、ぼやいていたのを、たまたま聞いた。【鉄の女】と称された政治家をもじったのは、誰だったのか。上手いあだ名をつけたもんだなって、むしろ感心したぐらいだ。


 だって、彼女は異性に苦手意識をもっている。数多くの男子が、花園に告白して、そして玉砕した。

 そもそも住む世界が違う人だって思う。自分の好きなことを思うがままに行動しても、なお評価される花園花圃と。最初から、爪弾きされている朱理とでは。


「ちが、違う、違うから。花圃ちゃん、せ、先生――」

 女の子は混乱してどう言って良いのか分からなくなってしまったらしい。嗚咽で、言葉にならない。


「……大丈夫、怖くないから」


 毅然と、花園は朱理を睨む。

 ポツン、ポツン。

 雨が落ちてきた。


(……面倒くせぇ)


 正直、そう思う。

 だから、朱理は自然に体が動いていた。


「え? お、お兄ちゃん――」

「返すよ、傘」


 ドンと、女の子に押しつける。


「あなた、そんな乱暴に――」

「お、お兄ちゃん!」


 涙も引っ込んでしまったらしい。考えてみれば、と朱理は思う。知った人と巡り会えた。それで結果オーライだ。下手な言い訳をすることの方が、よっぽど面倒臭い。どうせ、花園花圃と、今後関わる接点なんか、想像できない。だったら、これでカットアウトする方がむしろ清々しい。

 だから、俺は踵を返したのだ。




「お兄ちゃんっ!」


 背中で感情が弾けるのを聞きながら。そんな女の子の気持ちに呼応するように、雨は一気に落ちてきた。




■■■





「くしゅんっ」


 漫画でもしないような擬音に、俺は、小っ恥ずかしくなる。でも生理現象だから止められない。マスクのなかが冷たくなって、気持ち悪い。体温計が無機質に電子音を鳴らした。


「38.5度。多分、雨にうたれたせいだと思うけど、明日は病院で念のためコロナの検査かな?」


 妹の朱梨が、苦笑しながら体温計を見やる。


「コロナだったら、二人でとっとと感染しようね?」

「お前、そんな。予防はできるなら、ちゃんと――」

「一緒にいるのに、それは無理だと思うけどね」


 ごもっともと、朱理は頷く。2DKのアパートだ。父は海外出張中。母は亡くなって、すでにいない。三人家族には手狭になってきているが、母の思い出がつまったアパート。三人とも、暗黙の了解で、ここから出られずにいたのだった。


「だいたいお兄、私の傘を持って行ったでしょう? あの傘、私のお気に入りだったんだけど、どうしたの?」

「謹んで訂正させてもらうけど、お前が俺の傘を持って行かなかったら、こんなことになっていなかったからな」


「そういうの責任転嫁って言うんだよ?」

「へいへい」


 朱理はベッドに横になり、妹に背を向けるように寝返りをうつ。と、何故か背中が暖かい温度で包みこまれていく。


「朱梨?」

「こういう時のお兄は、何かあった時なんだよね」

「何もねぇし」


 そう言いながら、喉元がつかえて次の言葉が出てこない。


「……また髪のことを言われた?」

「別に――」


 自分が口下手だっただけだ。あのタイミングで、言い訳の一つでも言っておけば良かったと、後悔が滲む。でも、と思うのだ。言い訳したところで、花園との関係を良くしたいと思っているワケでもない。初対面で信用されないのも今に始まったことじゃない。結局、変な親切心なんか出さなければ良かったと後悔ばかり滲んでしまう。


「お兄は真面目すぎるよね」

「へ?」

「しんどい時にしんどいことを考えたら、もっとしんどくなるよ」


 妹は背中にぴったりくっついてきて、そんなことを言う。


「しんどいヤツに、くっついてくるなって。それに朱梨、お前はもう中学三年生なんだから――」

「女の子の年齢に触れるのはセクハラだよ、お兄」

「レディとして扱って欲しいのなら、それなりに振るまえって」


 ゲンナリとして言う俺に、朱梨はニシシと笑みを零す。


「誰がなんて言ってもね、私にとっては最高のお兄だからね」


 だからそういうことを、恥ずかし気もなく言うなって。

 そんなぼやきも、口から出ることなく溶けていく。


 朱梨の体温のせいなのか、また熱が上がってきたのか分からないまま、うつらうつらとしてしまう。

 気付けば、俺はあっという間に微睡んで、夢の世界に足をつっこんでいた。





■■■





 ――シュリにはイヤなお願いをしてしまうよね?

 白い壁。白い天井。病室のベッド上で横になっていた母さんは、どんな色よりも、色素が抜け落ちてまっしろ、そう思ってしまう。


 ――シュリ?


 母さんが手をのばす。当時、中学1年生だった俺の髪に触れて。


 ――やっぱり、シュリの髪、好きよ。私より綺麗なんだもん。嫉妬しちゃう。


 にっこり、母さんは笑う。そんなことを言うのは母さんと家族だけで……。

 その手が、ゆっくりと滑り落ちていく。


(……母さん?)


 声がでない。病室のなかで、モニターがピコンピコンとけたましく、音を鳴らす。


「心拍数が低下!」

「酸素濃度は?」

「spo2、78!」

「意識レベル、Ⅲ-300! 先生は?!」

「今、来ます!」

 看護師さん達が賢明に叫ぶのを、まるで映画を視聴しているような気分にすらなった。



 ――シュリ、黄葉こうようサンとアカリをよろしくね?


 父と妹の名前も、まるで記号にしか思えない。

 モニターにうつる心電図の波形。

 酸素マスクを看護師さんに着用させられた母をみやりながら、あの時の俺は……最後の時間に震えていた。


 売店に行っていた父さんと朱梨が戻ってきたのは、それからすぐのことだった。


 サーシャ・ギャラガー・秋田。

 享年38歳。乳がんで死去した。最後まで、日本語が下手クソだったよね、とぼんやりと思う。

 真っ白な部屋が、まるで夕陽で灼かれたみたいで。朱その光景が、今だに網膜に焼き付いていた。




■■■




 ――まるであの時のように、目の前が真っ赤だ。


 肌を焼くような温度を感じて、また熱が上がってきたのか、と思う。

 と、ぐるんぐるん、視界が回った。


「お兄っ!」

 朱梨が俺の肩をゆすっていたことに、今さらながら気付く。

「へ?」

「に、逃げないと! か、火事だから!」

 朦朧とした意識が、ようやくはっきりとしてきた。パチン、パチンと火が手招きしするかのように、俺達の部屋に侵食するところだった。

 頭痛がするのは――きっとこのあいだも、煙を吸い込んだに違いない。


(母さんとの思い出が――)


 そうまで思って、首を振った。

 そんなことを考えている場合じゃない。

 朱梨が、自分のことも顧みず、俺を優先してくれたのだ。


「ごめん、朱梨……」

「何を言ってるの。お兄がしんどいのに。もっと私が早く気付いていたら――」


 朱梨の唇に、思わず指で触れていた。

 あぁ、そうだった。

 あの時だってそうだった。


 ――お兄ちゃん、お兄ちゃん! 朱梨が悪い子だったから、だからお母さんは、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめ……。


 俺は、泣きじゃくる朱梨の唇を、そうやって指で塞いだんだ。


 ――シュリ、アカリをよろしくね?


 母さんの声が鼓膜を今でも振るわす。あの時から、ずっとそうやって背中を押してくれる。それは朱梨だって、そうだ。他の誰が拒絶しても、いつも心配して寄り添ってくれたただ一人の妹を守る。それ以外の選択肢は、俺にはない。


 迷っている時間なんかないから。


 必要最低限の貴重品をかき集めて――それから朱梨の手をひいて、飛び出したのだ。

 今でも鼓膜を振るわす、あの言葉に背中を押されながら。





 ■■■




 ――シュリ、アカリをよろしくね? 

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