にっ。

 あの日は、今にも雨が降りそうな曇天で。イヤになるくらい。思い出すだけで頭痛がするような、そんな鈍色にびいろのくもり空だった――。




■■■





 ――おにぃ、ちゃんと傘を持っていってよね?

 登校前、朱梨に傘を渡されたのは良いのだが、慌てた我が妹は、俺の傘を間違って持って行ってしまったのだ。


朱梨あかり! 俺のお気に入りの傘、返して!?)


 心のなかの叫びは、あいつの中学校に届くはずもなく。願わくば、雨が降る前に、家に帰り着く。ただ、それだけを祈った。赤髪、狐目の男が、ハートの傘をさす姿なんて、想像するだけでイヤだった。


「俺は可愛いと思うけどね?」


 ニヤニヤ笑う、黄島きしまを無視して、俺はつかつか歩みを進める。


「ちょっと、朱理しゅり? つれないじゃんかよ」

「うるせぇよ、お前は俺をからかって楽しんでいるだけじゃねぇか!」

「バレた?」


 にぃっと黄島は笑みを溢す。俺が振り回した拳は、ものの見事に空振りをする。さすが、バスケ部の敏捷性は侮れない。そうは言いながらも、こんな俺に偏見なく付き合ってくれる、数少ない貴重な友人なのは間違いない。


「黄島が、この時間に下校なの珍しくないか?」

「今日は、練習はお休みだからね。キャプテンをデートに送り出してやったのさ」

「あぁ……」


 納得してしまった。バスケ部のキャプテンのことはよく知っている。俺も、色々と気にかけてもらったから。彼は良いヤツなのだが――良いヤツすぎる。周囲を優先し過ぎて、自分を蔑ろにする傾向にある。こんな俺に、何の偏見もなく接してくれるのは、黄島やキャプテン以外にほんの数人だから。


 きっとバスケ部員達は、キャプテンを見かねてデートに送り出したのだろう。なんとなく、その姿が想像ができた。


「そこに便乗するカタチで、俺もみなととデートとしゃれこもうと思って、ね」

「このリア充が!」


 悪態をついてみせるが、黄島とその彼女の海崎かいざきなら納得なんだよな。みんなに愛されるカップルがいるとしたら、この二人だなぁって思ってしまう。正直、自分の容姿から人に好かれるなんて思っていないけれど、このお二人を見ていると、少し羨ましいって思ってしまう。ただ、なぁ――。


「朱理も一緒にする? 1 on 1?」


 ニコニコ笑って、黄島は笑う。これ、だ。二人そろってバスケバカなのだ。デートと称して、暇さえあればバスケをしているバカップル。バスケップル。それが黄島彩翔きしまあやと海崎湊かいざきみなとというカップルなのだった。


「買い物して帰らないといけないんだよ。うちの事情、知っているだろ?」

「うん。でも、朱理のことキャプテンも待ってるから、ね?」


 満面の笑顔で、黄島は言ってのける。

 俺は肩をすくめて見せた。それが返答で、お決まりの会話へのピリオド。黄島はしかたないね、と言わんばかりに、苦笑を浮かべる。


「雨が降る前に帰れよ?」

「朱理も、ね」


 ニッと黄島は笑う。俺は答えるかわりに、手をひらひらと振ってみせた。






■■■






 ぽた、ん。

 小雨が落ちてきた。


 しかし――これぐらいの雨なら、傘をささなくてもなんとかなる。小走りで、スーパーに向かおうとして、その足が止まった。


 ぽた、ん。ぽたん。


 泣くのを必死にこらえていて。でも、その目から涙が溢れている、女の子がいた。保育園児くらいだろうか。必死に泣くまいと、空にその顔を向けている。


 無視しても良かった。


 きっと、俺が声をかけたら、号泣される。カオが怖いと、ついたあだ名が紅鮫レッドシャークだ。終始、距離を置かれていたら、イヤでも自分の顔にネガティブになってしまう。

 だけど――って思う。通り過ぎて、無視するのも違う気がした。


「大丈夫か?」


 声をかけてから、後悔する。女の子が、俺の顔を見た途端に、ポロポロ涙を流してしまったのだ。


「ちが、お兄ちゃん、違うの。ありが、お兄ちゃん……」


 そこから言葉にならず、嗚咽になる。

 ぽたん、ぽたん。


 雨足が強くなった?


 女の子が、俺の顔を見た途端に、堰を切ったように、感情が決壊していく。やっぱり声なんかかけなければよかっ――。


「ちが、お兄ちゃん、違うから――」


 そこから言葉にならず、彼女の声は嗚咽に変わる。

 ぽたん、ぽたん。

 雨が強くなる。

 観念した俺は、傘を開いたのだった。


「お兄ちゃんの傘……かわいい?」


 彼女は目をパチクリさせる。

 どうやら期せずして、彼女の涙は引っ込んてしまったようだった。





■■■





「……なるほどね。弟君ばっかり、お母さんはかまうのか」

「私だって! 私だって、一生懸命、お、お手伝いしてるのに! それなのに全然、お母さん、私のことを見てくれないんだもん!」


 そう言うやいなや、また感情のスイッチが入ってしまったらしい。彼女の嗚咽がまた止まらなくなった。なんとなく分かる。きっと、この子のお母さんは、目の前の子育てで精一杯なのだと思う。お姉ちゃんに助けて欲しいって、どうしても思ってしまう。俺の母さんもそうだったから、目に浮かぶ。


 ――シュリ、お兄ちゃんでしょ?


 今となっては嫌いじゃないし、かけがえのない時間だって思う。でも、この子がそれを理解するには、まだ幼すぎた。


(それに、コイツだって甘えたいよな――)


 家を飛び出してきた、彼女の気持ちが分かりすぎるくらい、分かってしまったのだ。

 同じように、家を飛び出した幼い時の記憶が重なるから。

 そう思って、女の子の髪を撫でてあげようとした、その瞬間だった。


「うちの保育園の子を泣かせるなんて――高校生として、恥ずかしいと思わないの?!」


 聞き覚えのある声が飛んできて、俺は目を丸くした。


「……花園はなぞの?」


 鉄の聖母というあだ名をつけれた、黒髪のクラスメート。接点も特になかった彼女が、仁王立ちで、俺のことを睨んでいたのだった。

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