第五章 揺れる心
第33話 心模様
これからは彼に血を提供する必要はなくなり、
もちろん王太后が考えを改めない限り、呪詛も刺客もまた月人を狙って来るだろう。夏乃が掲げた目標はまだクリアできていない。月人をつけ狙う王太后にどうやって諦めてもらうか、というかなり難しい問題が残っているのだ。
初めはそこまで付き合うつもりなどなかったけれど、王太后のせいで、夏乃は親しかった友人を三人も亡くしてしまった。
この私怨に似た気持ちを昇華させ、月人から憂いの元を取り除けることが出来れば、きっと思い残すことなく元の世界に帰れるだろう。
そう思った瞬間────ツキン、と胸に痛みが走った。
帰ることを考える度に、この痛みが何度も繰り返し襲ってくる。
その原因も薄々わかっていた。「恋」だ。
(いやだなぁ……)
夏乃は思わず苦笑した。
幼馴染の
ここは、命の重さがとても軽い世界だ。おまけに呪いなんてものまである。
平和な世界で生まれ育った自分にとって、ここは恐ろしい世界だ。
けれど、この世界に来て、月人と出会えて、本当に良かったと夏乃は思っていた。
ほんの少しでも彼の役に立てたなら、自分がこの世界に飛ばされた甲斐があるというものだ。
(そろそろ本気で、元の世界に帰る手がかりを探さないとな……)
手がかりと言えば、学校裏の海岸に下りて行ったあの不審な男だ。
この世界に飛ばされた当初は夢だと思い込んでいたり、ここでの暮らしに振り回されて真剣に考える暇がなかったけれど────。
(やっぱ、あの光が怪しいよね?)
立入禁止の海岸へ下りていった男を追いかけて、夏乃はあの真っ白な光に包まれた。
今思えば、あれが異世界転移の瞬間だったとしか思えない。
もしもあの男が目的をもってあの場所で光を発生させたとすれば、光の余波を受けて海上へ飛ばされた夏乃とは違い、あの男は無事に目的地にたどり着いているはずだ。
日本人が何故この世界に出入り出来るのか。
あの男は何の目的でこの世界へ渡ったのか。
考えだすと疑問がゾロゾロ出てくるが、まずは────。
(あの男……絶対に探すっ!)
夏乃は両手を組み合わせてポキポキと指を鳴らした。
〇 〇
軽食の膳を下げに月人の御殿へ行くと、「書庫の整理を手伝ってくれないか?」と月人に引き留められた。
「侍女頭には、
「そうなんですか? わかりました」
人手が足りないのに大丈夫なのかなぁと首をひねりながら、夏乃は食器を片づけた。
「じゃあ、先にお膳を下げてきますね」
夏乃がお盆を持ち上げた時、ちょうど冬馬が扉から入って来た。
「ああ、それは私が下げておくから、おまえは月人さまの手伝いをしてくれ」
「え、冬馬さまが? これを厨房まで持って行くんですか?」
胡散臭げに冬馬の顔を見上げると、ジロリと睨み返されてしまう。
「何だ、文句があるなら聞くが?」
「いえ別に」
持っていたお盆を、恐る恐る冬馬に手渡す。
「月人さまについて書庫へ行け」
「はーい」
月人の書庫は、屋根裏のような空間だった。
剥き出しの骨組みが見える天井の低い部屋に、たくさんの木箱が置いてある。
小さな明り取りの窓はあるものの部屋の中は薄暗く、月人は手燭から燭台に火を移した。
「木箱の中にある書物に虫食いがないか、確認して欲しい」
そう言って月人は木箱を開け、中から分厚い紙の束を取り出した。
夏乃も一束取り出し、月人を真似てパラパラとめくってみる。和紙のような厚地の紙に記された不思議な文字が、目に飛び込んできた。
「うわぁ、なにこれ! この記号みたいのがこの国の文字なんですか?」
丸や線で形作られた文字は、解読不能だ。
「夏乃には読めないのだな」
「はい。今まで言葉には不自由しなかったけど、文字が読めないことには気がつきませんでした」
紙の束をパラパラとめくっていくが、保存状態はとても良い。虫食いなど無さそうだ。
(これって、本当に必要なのかな?)
ちらりと隣を盗み見ると、珍しく胡坐をかいた姿で書物をめくる月人がいる。
ほとんど無意味に思える作業をしながら、夏乃は何だか落ち着かない気分を持て余していた。
月人と二人きりでいると、妙に背中がむずむずして何だか居心地が悪い。
「あの、あたしやっておきますから、月人さまはお部屋へ戻って下さい」
「私がいては邪魔か?」
「いえ、そういう訳では……」
返答に困って、夏乃は虫食い探しを再開したが、月人は手にしていた書物を床に置いて、夏乃の方へ向き直った。
「夏乃、そなたに聞きたい事がある。真剣に考えて、答えて欲しい」
「……はい」
夏乃も手を止めて、月人の方を向く。
「そなたは、国へ帰れる手立てが見つかったら、迷いなくここから去るつもりか?」
夏乃は目を見張った。
それは正に、夏乃が今朝考えていた事だった。
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