第15話 睡蓮の見たもの


 井戸水を手桶に流し込みながら、夏乃なつのはふわぁーとあくびをした。

 昨夜は、睡蓮すいれんの腹痛騒ぎであまり眠れなかった。そのせいか、今日は朝寝坊してしまい、冬馬トーマにこっぴどく怒られてしまった。


 冬馬が苛立っていたのは、たぶん、月人つきひとがまた黒犬姿に戻ってしまったせいだろう。正確に言えば、黒犬になった月人が血の提供を辞退したからだ。夏乃に遠慮したのかどうかはわからないが、「今日は良い」と言われてしまったのだ。

 おかげで冬馬からは床と柱をいつもの三倍磨けと命じられ、冷たい雑巾がけに精を出しているところだ。


「睡蓮、大丈夫かなぁ?」


 昨夜、お腹の薬と水差しを持って、夏乃はお屋敷の外にある納屋へ走った。

 汐里しおりの言った通り、睡蓮は納屋の稲藁の上に寝かされていたが、苦しそうに体を丸めて汗をたくさんかいていた。

 夏乃が薬を飲ませようとすると、睡蓮は苦しそうに顔を歪めながら「あなたの薬なんか飲まない」と言い張ったけれど、痩せ我慢はそれほど続かず、結局はお腹の痛みに負けて薬を飲んでくれた。


「よっこらしょっと!」


 手桶を持ち上げた時、後ろから名前を呼ばれた。

 振り返ると睡蓮が立っていた。顔色はまだ悪いが、ちゃんと着物を着て髪も結っている。


「睡蓮、もういいの?」

「ええ。その……ちゃんとお礼を言ってなかったと思って。ありがとう」

「うん。治って良かったよ」


 夏乃は元気にうなずいたが、睡蓮は何だかもじもじしている。


「どうかした?」

「あの……あなたは、いつ頃部屋に戻ったの?」

「えーと、いつ頃かなぁ? 実はあんまり覚えてないんだよね。薬が効いてきて睡蓮が眠ったとこまでは覚えてるけど、気がついたら部屋でさ。しかも朝寝坊しちゃって大目玉食らっちゃった」

「そう……なんだ。も、もう一つ聞いていい?」


 更にもじもじしながら、睡蓮が遠慮がちに伺いを立ててくる。


「うん、いいけど?」

「〈銀の君〉の噂は本当なの? あなた侍女だから〈銀の君〉のお顔も見てるんでしょ?」

「もちろん見てるよ。〈銀の君〉は色が白くて銀色の髪をしてるんだ。瞳は宝石みたいな紫色で、とってもきれいな人だよ。確かに〈銀の君〉は、冬馬さまたち異国の血を引く人たちとは少し違うけど、魔物じゃないことは確かだね」

「そう」


 睡蓮が反論もせずに素直に頷いたので、せっかくだから月人の宣伝をしようと思いついた。


「変な噂が立つのは、みんなの前に姿を見せないせいだと思うんだよね。たまーにで良いから、もっと顔を見せるべきだと思うんだ。そしたら噂なんかなくなるんじゃないかな?」


 思いつくままにとめどなく喋っていたから、夏乃は睡蓮が見せた戸惑いの表情に気づくことが出来なかった。


「あ、あのね……」


 睡蓮は、今朝見たものを思い浮かべた。

 夏乃に会ったら話そうと思っていたのに、いざ話すとなると、どう話したらいいのかわからなくなってしまう。


 納屋の中で睡蓮が目を覚ますと、自分の足元で夏乃が眠っていた。

 お腹の痛みは引いていたけれど体がだるくて起き上がれずにいると、閉じていた納屋の戸がスッと開き、朝日とともに誰かが納屋の中に入って来るのが見えた。

 きらきらと朝日に光る人影は夏乃を静かに抱き上げると、そのまま姿を消した。納屋の戸はいつのまにか閉まっていて、睡蓮は夢でも見たのかと思っていた。

 でも、今ならわかる。あれはきっと────。


「どうしたの、睡蓮?」

「ううん、何でもない。じゃあ、私も仕事に戻るわ」

「うん。じゃ、お大事にねー」


 お気楽に手を振る夏乃に、睡蓮は軽くうなずいて踵を返した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る