第11話 指先をほんのちょっと


「────夏乃なつの、よく言ってくれた! おまえの申し出、本当にありがたい!」


 月人つきひとの部屋に通されるなり、冬馬トーマの口からお褒めの言葉が飛び出した。


「初めはなんて怪しい娘かと思ったし、拾って来たハクを忌々しく思ったりもしたが、今となっては、天が月人さまの為におまえを遣わしてくれたとしか思えない!」


「えっ、ああ、あはは……」


 曖昧な笑みを返しながら、夏乃は月人の姿を探した。

 黒犬の月人は、〈銀の君〉人形が座る長椅子の端にちょこんと座っている。どうやらあの場所が定番の位置らしい。


「……本当に、良いのか?」


 目が合うなり、黒犬がそう問うてきた。

 心なしか耳は垂れ、紫色の目にも覇気がないように見える。今にも「クゥーン」と悲しげな声で鳴きだしそうだ。


「はい、大丈夫です。もちろん、一度に大量の血を提供するのは無理ですし、提供した分、栄養のあるものを食べさせて欲しいとは思いますが、それさえちゃんと守って頂ければ構いません」


 夏乃が条件を提示した時、珀が茶器の乗ったお盆を持って来た。


「お茶を淹れましたから、座って話しましょう」


 楕円形のテーブルに、お茶の器が三つと、酒の入った平皿が置かれた。

 珀の提案でテーブルを囲んで座ることになり、夏乃は月人の座る長椅子の向かい側に腰かけた。


「食事なら、私に用意されたものを食べれば良い」


 長椅子に寝そべる形で平皿の酒を舐めながら、黒犬がそう言う。


「それはありがたいですが……でも、元の姿に戻ったら、月人さまこそお食事をされた方が良いのではないですか?」


 冬馬も珀も、食事が出来ない月人の身体を心配していた。たまたま知り合っただけの夏乃から見ても、月人こそちゃんとした食事をするべきだと思う。

 ちらりと冬馬の方を見ると、彼は首が痛くなりそうなほど何度も何度も大きくうなずいていた。


「……そうか」


 心配されて照れているのか、黒犬が挙動不審に頭を揺らしている。


「それなら、夏乃のために何か滋養のあるものを手配してやってくれ。私が食すのだと言えば、拒まれることもなかろう」

「かしこまりました」


 冬馬が嬉しそうに笑っている。

 夏乃は、初めて見る彼の笑顔に驚いた。


(へぇ、笑えるんだ)


 フッと込み上げてきた笑いをかみ殺して冬馬の顔を見ていると、鋭い視線を感じた。正面にいる黒犬が、じっと夏乃を見つめている。


「夏乃。そなたには感謝しかない。間もなく訪れる異国からの客人に、どう対応すれば良いのかと頭を悩ませていたのだ。客人とは旧知の間柄。出来れば会って話がしたいと思っていた。でも、この姿では無理なことだと諦めていたのだ」


 愁いを帯びた紫色の瞳を見て、夏乃はハッと息を呑んだ。


(……そうだった)


 夏乃が臨時の侍女として採用されたのは、近々やって来る客人に対応する為だ。

 侍女として働き始める前から、夏乃は黒犬姿の月人を知っていた。呪詛を受けた姿で彼が客人に会うのは無理だろうなと、漠然と考えてもいた。それなのに、月人の気持ちになって考えたことは無かった。

 ここで仕事をして、なるべく早くお金を貯めて家に帰る方法を探す────夏乃にとって重要なのはそれだけだったのだ。


(あたし、自分の事しか考えてなかった……最低だな)


 夏乃は眉間に皺を寄せたまま黒犬を見つめた。

 どんな経緯があったのかは知らないが、ある日突然、自分が黒犬になってしまったらどんなに不安だろう。

 突然異世界に放り込まれて帰り方も分からない夏乃も不安だが、今のところ危険な目には合ってないし、衣食住にも困っていない。


(あたしはまだマシなんだ)


 ならば、目の前で耳を垂れている黒犬のために、出来ることは何でもしてあげよう。訪ねてくる客人が知り合いなら、人の姿で会いたいに決まってる。

 夏乃の血がどれくらい必要なのかはわからないが、せめて一晩、宴の間だけでも心置きなく過ごして欲しい。


「今すぐやりますか?」


 夏乃は左手を上げると、手のひらを珀の方へずいっと伸ばした。


「自分で切る勇気はないから、珀が切って。指先をほんのちょっとだよ」

「ええっ、俺?」


 珀は若干引いているが、他に適任者はいない。


「大丈夫! 指なら包丁で何度も切ってるから、出血量とかもなんとなくわかるし、治し方も慣れてるから!」


 夏乃はグイグイと珀に詰め寄った。


「あっ、ちゃんと火で焙った刃物で切ってよ。それから冬馬さまは、月人さまの衣を用意しておいてくださいね!」

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