第10話 夏乃の決意


 目が覚めると朝になっていた。


「あれぇ? あたし、昨日、着替えないで寝た?」


 侍女部屋に移ってから、貝割り作業の時に着ていた紺色の着物を着て寝るようにしているのに、どういう訳か、昨夜は侍女のお仕着せのまま寝てしまったらしい。

 首を傾げて記憶を辿ろうとしても、昨夜のことは霞がかかったみたいで思い出せない。


「まぁいっか」


 侍女の朝は忙しいのだ。自分たちの朝食を食べる前に厨房の仕事をしなければならない。夏乃なつのは掛け布を蹴飛ばして起き上がると、身支度を整えて厨房へ向かった。


 こまごまとした仕事をこなしているうちに〈銀の君〉の朝餉が出来上がってくる。夏乃はさっそうと朝餉の膳を掲げ持った。

 急いでいても走ってはいけない。美しく盛り付けされた料理を崩してはならないと、侍女頭に何度も念を押されている。ついでに言えば、睡蓮すいれんたちに意地悪する隙を与えない為でもある。

 幸い、祖父の道場で鍛えているので体幹には自信がある。


 厨房から続く長い廊下を歩いていると、三階建ての御殿に近い回廊に、背の高い男が佇んでいることに気がついた。

 まるで、夏乃が来るのを待ち構えているみたいに見えるのは、気のせいだろうか。


ハク?」


 歩きながら声をかけると、珀が歩み寄って来た。

 眉間に皺を寄せて、何だか難しい顔をしている。


「おはよう。どうしたの?」

「いや……月人つきひとさまの食事なら、俺が運ぶよ」


 珀はそう言って、夏乃の手から膳を引き取った。


「いいの?」

「ああ。今は行かない方が良い。月人さまと冬馬トーマさまがおまえのことで言い争いをしているんだ。今日は侍女頭の仕事だけしてくれ」

「あたしのことで言い争いって……あっ!」


 珀に言われて、ようやく夏乃の脳裏に昨夜の出来事が閃いた。


「そうだった! 昨日、あの後どうなったの? 月人さまは?」


 急に声を上げて衣をつかんできた夏乃を見て、珀は眉をひそめた。


「おまえ……まさか、昨日のこと忘れてたのか?」

「えーと、朝起きた時、何か忘れてるような感じがしたんだけど、すっかり忘れてた!」


 えへへと笑うと、珀がはぁ~っと情けない声を出す。


「それで、どうなったの? 教えてよ」


 衣の袖を引っ張って催促すると、珀は長い沈黙の後、ぼそりとつぶやいた。


「……朝起きたら、黒に戻ってた」

「あ~っ……そうなんだ」


 付き合いの浅い夏乃でさえがっかりしたのだから、珀たちの落胆は相当なものだろう。月人本人は、落胆どころでは済まなかったに違いない。


「それで揉めてるんだ。冬馬さまは強硬派だ。あの人は、いざとなったらおまえの命など気にかけないだろう。だから、今日は姿を見せない方が良い」


 珀の言葉はイマイチよくわからなかったが、夏乃のことを心配してくれているのはわかった。

 一時的に人の姿に戻った月人が、朝には黒犬の姿に戻ってしまったという。

 その事で、月人と冬馬が言い争いをし、夏乃が冬馬に命を狙われるとすれば────たどり着く答えは一つしかない。

 そこまで考えて、夏乃はそろりと珀を見上げた。


「それって……もしかして、呪いを解くには、あたしの血が必要ってこと?」

「何だ。今頃気がついたのか?」


 珀の黒い瞳が苦笑を浮かべる。


「……あのお姿になってから、月人さまは酒と血しか口に出来なくなった。いや、酒だけと言った方が良いな。月人さまは血を口にすることを拒絶されているんだ。限界に達して忘我の状態になるまでは、けして自分からは召し上がらない。そんな月人さまが心配で、俺たちは進んで血を差し出しているんだが、今まで口にされた血で、昨夜のように元のお姿に戻ることはなかった。一時的とは言え、おまえの血で呪いが解けたのは、おまえが異界から来た者だからなのかも知れないな」


 薄く笑った珀の目は、少しだけ悔しそうだった。


「……うん」


 夏乃は複雑な心境のままうなずいた。

 月人は何故あんな呪いを受けることになったのだろう。

 夏乃は何も聞かされていないけれど、珀たちが月人と共に苦難を乗り越えてきたことは想像に難くない。

 だから────夏乃も彼らの力になりたいと思ってしまった。


「わかったら、もう行け」


 珀の大きな手が優しく頭を撫でてくれる。

 ゆっくりと踵を返しながら離れてゆく珀の腕を、夏乃は思わずつかんでしまった。


「どうした?」

「…………いいよ。あげるよ。そりゃ、あんまり大量だと困るけど、少しなら……その、あたしの血を分けてあげても良いよ」

「え?」

「だって、ほら。今のままじゃ、あたしも出て行けそうにないし、困ってる人を見捨てて出て行くのは、あたしも気が引けるわけよ」


 実際問題、ここから出て行けるだけのお金を貯めたとしても、〈銀の君〉が今のままだったら、冬馬は絶対に夏乃を引き留めるだろう。

 あの男は月人至上主義者だ。出て行くなんて言ったら速攻で拘束されるだろうし、いざとなったら夏乃を手にかけるくらいはするかも知れない。その上で、月人に夏乃の血を根こそぎ吸わせてしまうに違いない。


 リアルに想像し過ぎて背筋がゾッとしたが、要するに、血を提供して月人を元の姿に戻すことは、夏乃自身の為でもあるのだ。


「どうかな?」


 首を傾げると、珀は神妙な顔をして「お伺いしてくるから待っていてくれ」と言って三階建ての御殿へ入って行ってしまった。

  

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