第29話 迷い

「さあ、どうぞ」

休日のオフィスはいつもの活気がなく、とても静かであった。本木はユリを自分のオフィスへと案内した。

「いつもここで働いているの?」

「まあね、あんまり仕事してないけどね」

本木の冗談にユリは笑った。しかしその笑いは一瞬にして消えた。ユリは真面目な顔に戻り、

「あなたに謝りに来たの」

「謝りに?何を?」

「本木さん、私、父から聞いたの・・・あなたに父親が結婚を反対している理由を話したことを・・・」

本木も真剣な顔になりユリを見つめるが、ユリから目をそらし

「お父さんが何て言ったかわからないけど、僕は何も知らないよ・・・何かの間違いじゃないかな・・・」

ユリは何も言わず本木の目の前に立ち、

「・・・本木さん・・・もう、嘘はやめて・・・」

と、言って、じっと本木を見つめる。すると本木も観念したようにユリから目をそらし

「ごめん・・・お父さんから全て聞いたよ・・・でも君が謝ることなんて何も無いよ」

「あるわ・・・私、あなたにそのことを話せずに嘘をついていた・・・それに父の話だってあなたには関係ないことだもの・・・ごめんなさい・・・」

ユリが本木に頭を下げた。本木はユリの肩を両手で掴み、頭を上げさせ語り掛ける。

「ユリさん・・・僕は今まで結婚を二人だけの問題だと思っていた・・・でも現実はお互いの両親や家族を巻き込んだ問題だったんだね・・・僕の考えが浅かったことに気が付いたよ」

と、言って、微笑む。ユリはその微笑がとても寂しそうで微笑むことが出来なかった。本木は続けて語り掛ける。

「ユリさんは僕には関係ないことだと言ってくれたけど・・・でも、僕の父さんが行ったことなんだ・・・関係ないとは言えないよ」

「本木さん!」

「それに、君と無理に結婚すれば君の大切なお父さんを傷つけることになる・・・自分のことなら何でもするが、過去の、しかも父のことでは自分でも何をして償えば良いかわからない・・・」

「償いなんて必要ないわ・・・私たちが幸せになれば、それで父を安心させることが出来るもの・・・」

「ユリさん・・・申し訳ない。結婚の話は延期させてくれ・・・僕自身、何が出来るか答えが見つかるまで・・・」

ユリは悲しみの表情になり、本木から離れ、強い口調で答える。

「いやよ・・・そんなの、いや!」

「ユリさん・・・」

「・・・もし・・・あなたの答えが見つからなかったら・・・」

ユリは涙目でゆっくり本木の方を見て言った。本木はユリから目をそらし答える。

「・・・結婚を考え直す・・・何も答えがみつからなかったら・・・」

ユリは必死に涙を堪えて話す。

「結婚をやめる事が私にとってどれだけ辛いことかわからないの?やっとあなたとめぐり会って、人生を共に出来ると思ったのに・・・それを全て捨てろと言うの?」

本木はしばらく黙ってから一言、

「家族のためにはそれしかない・・・」

と、言って、ユリに背を向ける。

「私と別れることになっても・・・あなたは平気なの・・・?」

本木は何も答えなかった。ユリはついに泣き出し

「私と別れることになっても、あなたはそれが一番の方法だと思えるの・・・?それが本心なの!」

本木は何も言わずに部屋を出て行った。ユリは本木の後姿を見つめながら泣き崩れた。

「・・・本木さん・・・嘘だと言って・・・お願いだから・・・」


ユリは本木の会社を出て呆然と街中を歩いていた。今、自分がどこを歩いているかなど全く気にせずにただひたすら歩いていた。すると携帯電話が鳴った。本木からの電話かと思い急いで電話に出る。

「もしもし、本木さん?」

「・・・ユリちゃん?私、悦子だけど・・・」

ユリは本木ではなかったことに落胆するが、突然の悦子の電話に驚き、

「お母さん・・・どうしたんですか?」

「ユリちゃん、今、どこにいるの?」

「今ですか・・・」

ユリはあたりを見渡した。随分歩いたように感じたが、実際は本木の会社の周りをぐるぐると回っていただけであった。

「本木さんの会社の近くです・・・」

「そう、ユリちゃん、これから会えない?」

「えっ?」

「これからすぐに行くから、会社の前で待っていて、わかった?」

と、言って、悦子は電話を切ってしまう。ユリは悦子に圧倒され、会社の前に向かった。


「ユリちゃん、久しぶりね!」

悦子が明るく言った。二人は会社の近くの喫茶店に来ていた。

「ご無沙汰しています・・・お元気でしたか?」

「私は元気よ!それより、ユリちゃん元気ないじゃない、どうかしたの?」

今のユリにとっては悦子の明るさは逆に辛かった。ユリは涙を必死に堪え

「何でもありません・・・心配しないで下さい」

そう言うのが今のユリには精一杯であった。

「ユリちゃん・・・心配事があるって顔に書いてあるわよ・・・」

悦子が言うと、ユリは黙ったまま首を振った。悦子は本木とさっきまで会っていたことを知っている。本木と別れたばかりのユリがこんなに落ち込んでいるのを見て、何かあったと悟った。

「ユリちゃん・・・どうして母親に相談してくれないの?」

悦子が言うとユリは驚いたように悦子を見る。悦子は続けて

「娘が苦しそうにしているのに、黙って見過ごせる母親がいると思うの?それに『本当の母親だと思っている』と言ったのは嘘だったの?」

悦子は真剣な表情でユリに話した。ユリは悦子を見つめ涙ぐむが必死に涙を堪え、うつむきながら

「・・・私・・・どうしたら良いかわからなくなりました・・・」

と、話した。すると悦子は優しい笑顔になり、ユリの手を握り

「ユリちゃん・・・私に出来ることなら何でもするから、話して」

と、言った。ユリは涙を流しながら自分の父親と純一の間で起こった過去のいきさつと、そのことを知った本木から自分の家族のために結婚を考え直すと言われたことを悦子に話す。悦子も話の内容に動揺したが優しくユリに語りかける。

「ユリちゃん・・・わかっていると思うけど・・・一哉が結婚を考え直すと言ったのは本心じゃないわ」

ユリは悦子を見つめるが何も言えなかった。悦子は続けて

「一哉もその話を父親に話して、父親のこと非難していた・・・責任を感じてそう言っただけよ。でもそれは一哉の責任じゃないから」

「本木さんは『自分の責任だ』と、言ってました・・・本木さん、責任感が強いから・・・」

「大丈夫、今は一哉もショックを受けているから混乱しているの・・・だからユリちゃん・・・お願いだから一哉から離れないでいてあげて」

「お母さん・・・」

「今の話を聞いて私がこんなこと頼める筋合いじゃないけど・・・一哉には今、あなたが必要なの。だからこれからも一哉の力になってあげて」

ユリは悦子のお願いが非常に嬉しかった。自分と本木との間を認めてくれている悦子の存在が、ユリにはこの上なく力強く感じた。

「・・・お母さん、ありがとうございます」

と、言って、悦子に頭を下げる。悦子も笑顔でユリを見つめ、うなずいていた。


ユリを悦子は空港まで見送り、その足で自宅へと急いで向かった。自宅に帰るなり悦子は純一に向かって言った。

「あなた、韓国へ行きましょう!」

呆然と悦子を見つめる純一に対して、悦子は続けて

「あなたも今、やるべきことがわかっているでしょ!さあ、準備しますよ」

と、言って、部屋を出て行く。純一もしばらく考え込んでいたが、準備に取り掛かった。

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