終結

 人間の厚みというのは、一体何センチくらいなのだろうか。


 研究室の隣を通り過ぎ、転がり落ちるようにして三階から一階までの階段を駆け抜けながら、レイトは頭の片隅でそんなことを思う。


 ハルキの身長は高いが、体格的にはむしろ痩せている方だ。筋肉質ではあるがボディビルダー並ということもないし、無駄な脂肪も全くついていない。

 だから、通り抜けるためには約三十センチ、脛の中心くらいまでの隙間が空いていれば十分なはずだった。


 廊下の天井高が三メートルとして、十分の一。時間的には、残り九秒。


 マップのあった第二事務室の前を折れ、長い廊下を一直線に疾走する。ニタのいる制御室もこの先の正面側にあるが、こちらは合金の壁の内側だ。問題の隔壁は、もう一つ隣の細い廊下にある。


 もとから切り離す前提で設計していたからなのだろう、迎撃するためのエリアとそれ以外の場所はレイトが目指している廊下一本でのみ繋がっていた。そのアクセスの悪さが、今は最大の敵だ。


 レイトが最後の角を曲がって八割ほど降りた隔壁を目にした時、ハルキはもうその下にいた。こちら側に頭を向けて仰向けになり、しきりに床を手で押している。通り抜けられているのは肩のあたりまでだ。


 あの高さなら、滑り込めば十分間に合うはずだ。どうしてあんなに苦労しているのだろう、そう考えたところでレイトは防護服が原因であることに気づく。


 質感がゴムに近い表面素材。

 それが、強力な滑り止めとして働いてしまっているのだ。


「ハルキ!」

「レイトか⁉ 悪い、引っ張ってくれ! この服、全然っ……進まねぇん、だよ!」


 ハルキがレイトの方に片手を伸ばして怒鳴る。辿り着いたレイトは息もつかずにその手を掴み引いたが、少し速度が上がっただけでまだとても間に合いそうにない。

 ハルキ自身の体重も生半可なものではないのだ。レイトの腕力も、とても自慢できるものではないのだ。


「くぅ……ごめん、ちょっと待ってて!」


 レイトは一旦立ち上がり、天井から垂れ下がっていた鎖を手に取る。ちょうどいい高さだ、本当に奇跡としかいいようがない。


 隔壁の飛びだした穴に、Uの字の先端を差し込んで。鎖をその先に通し、そのままぐるりと回転させた本体に押し込む。


 ――ガキリ。


 鉄色の南京錠が、鎖と隔壁とを繋ぎ留めた。


 レイトは再び腰を落とし、全体重を乗せてハルキの腕を引く。今にも引きちぎられようとする耳障りな悲鳴をあげながら、伸びきった鎖が一時的に隔壁の下降を止める。


 残された高さは、ハルキの身体のほんの数ミリ上だった。反対側の脇にも手を突っ込んで、力任せに引っ張る。

 金属の絶叫。この制止も、何秒も持たない。


 ハルキの下腹部までが、ようやくこちら側に姿を見せる。


 そして――限界を迎えた鎖が、豪快に弾け飛んだ。


 高速で飛んできた破片。頬が裂ける鋭い痛みに、レイトは一瞬だけ硬く目を瞑る。

 隔壁が、再度動き始めた。後は足を抜くだけだ。


 揺れる地面。反響する爆発音。特攻機が、壁面まで到達したらしい。迎撃エリアは、一か所が崩れると連動して崩壊する造りになっていたはずだった。もう何秒かすれば、隔壁のすぐ外に瓦礫が降り、汚染された外気が流入してしまう。


 ハルキが片足を大きく曲げ、無理矢理隔壁の下から出した。そのまま足裏で隔壁を蹴り、もう片方も引きずり出そうとする。が、一歩遅い。


 太ももの中心が床面と隔壁の間に挟まれ、動かなくなる。天を仰いだハルキの口から、苦悶の呻き声が漏れ――


 そして、また隔壁の動きが止まった。上を向いたハルキと覗き込むようにしていたレイトの視線が合わさり、二人は同時に顔を横に向ける。


 そこには、ニタの姿があった。床に両膝をついて座り込み、両手で黒い鉄箱を隙間に差し込んだ姿勢のまま、手元を見詰めて荒い息を吐いていたのだった。


「ニ、ニタちゃん……」ハルキから手を離し、レイトはその場に力なく尻もちをつく。「ああそうか、僕もその方法をとれば良かったんだ。どうして思いつかなかったんだろう……あんな賭けみたいなやり方、運が良かっただけで絶対に悪手だったのに」

「ハ、ハルちゃん! ごめんねっ」急に顔を上げたニタが目に涙をためて、挟まれたハルキの足に縋りついた。「レイちゃんの声が聞こえて、慌てて走ってきたんだけど、箱……小さかったね。ごめんね……」

「ぐ、う……いや。大丈夫だ。骨が無事なら問題ねぇよ、それよりも一旦下がってろ。レイトも、おまえら防護服着てねぇだろうが」


 確かに、隔壁の隙間からはもう外の空気が流れ込んできている気配がする。レイトはまだハルキから離れようとしないニタを立たせると、一緒に廊下の中ほどまで後ずさった。鼻と口を手で覆う。本当は上階辺りまで避難するべきなのだろうが、さすがにハルキから完全に目を離すことはできなかった。


 鎖と違って、鉄箱が簡単に砕けてしまうことはない。ハルキは慎重に床と隔壁を押しながら、身体ごと角度を変えつつゆっくりと足を抜いていった。太ももさえ抜けてしまえばあとは簡単で、やがて五体満足なハルキの全身が隔壁のこちら側に転がり出る。


 床に手をつきながらゆっくりと立ち上がって、ハルキはよろめき壁に背を預けた。骨に影響はないと言っても、挟まれた足にはかなりのダメージが残っているようだった。


「ニタちゃん、それにしてもどうやってここに?」もどかしい思いをごまかすように、レイトは不安げなニタに話しかける。「あのレバー、押さえ続けてないと上に戻っちゃう仕組みでしょ? 防御機構は普通に動いてるみたいだけど」

「あ、それは……これ」


 ニタは首元に手を触れる。これ、と言われてもそこには何もついていない。


 いや、そうか。ヘッドホンか。廃虚街を出る時からずっと首にかけていた、あのコードの切れた青いヘッドホンだ。


「レイちゃんの言った通り、あのレバー、下ろすのに全然力が要らなかったの。もしかしたらって思って引っ掛けてみたら、ちゃんと支えてくれて」


 ニタの口元が嬉しそうに緩む。それもそうだろう、彼女にとっては父親の形見でもあるのだ。本当に大切な局面でそれが役立つのは、父親が手を貸してくれたにも等しいとさえ思えるはずだった。


 また、いくら軽いとはいっても、本来なら子供のイタズラ防止にそんな重さで押さえ続けられるはずのないレバーである。そのネジがここまで緩んでいたのにも同じ力が働いていたのではないかと、レイトもついそう考えてしまう。


 と、壁に寄りかかっていたハルキが身を起こし、負傷した足をかばいながら鉄箱の方に歩いていった。何をするかと思えば無事な方の足を軸にして身体を大きくひねり、鉄箱を隔壁の向こう側へ蹴り飛ばしてしまう。


「っら、ぁ……ぐぅ⁉」


 つま先と太ももを両手でそれぞれ押さえ、崩れ落ちるように座り込むハルキ。その背後で隔壁が今度こそ完全に閉まる。すかさず空調システムが本領を発揮し、残った有毒な空気を片っ端からファンの中へ格納していった。


 レイトとニタは五秒だけ待って、それからハルキの元へと駆け寄る。二人に気づいたハルキは防護服の頭部だけを脱ぎ、疲弊した、それでいて安堵したような笑みを見せた。額にじんわりと、汗が滲んでいた。


「ハルキ、お疲れ様。本当に危機一髪だったね……大丈夫? 上まで歩けそう?」

「ああ、もう少し休めばな。それにしてもあれ……」ハルキが指さしたのは、隔壁にまだぶら下がっている南京錠だ。「地下都市を出る時、俺が針金で鍵開けしたやつだろ? おまえ、あんなのよく持ってたな」

「うん、何かに使えるかと思って拾ってたんだ。いやぁ、こんな用途は全く想定してなかったけど」

「想定してたら怖ぇって。……ニタ、おまえもありがとな。おかげでカカシにならずに済んだ」

「ハルちゃん、ほんとにもう大丈夫なの? 無理、しないでね……?」


 大丈夫だって、とハルキはしゃがみ込んだニタの頭に手を乗せる。もう片方の手をレイトに向けて伸ばし、合わせて屈みこんだ肩に腕を回すと片足で器用に立ち上がった。ニタの肩にも手のひらを置き、未だ安定していない足取りで歩きだす。


「ハルキ、もうちょっと休んでたっていいんだよ? その状態で階段上るのきつくない?」

「どうせ休むなら、絨毯の上で寝っ転がりてぇの。大量出血でも全身骨折でもねぇんだからほっとけ」

「レイちゃん、これで全部終わったんだよね? また爆弾が出てきたり、機械が襲ってきたり、しないよね」

「それは僕も勘弁してほしいなあ。さすがに、これ以上打つ手もないような気がするし」


 戦争そのものは、緊急停止システムで終わらせた。一機目の特攻機は、研究成果の武器が打ち砕いた。残った二機目は、迎撃機構が爆風を受け止め防衛機構が破片から施設を守った。


 観測室に戻ったら、まずはアイゼルとカリナに報告をして、協力のお礼も言って。防御機構は発動したままでも駅に続く扉は確か通り抜けられたはずだから、隔壁を残すために解除はしないでおこう。ああでも、ヘッドホンを回収するために代わりのものは探す必要があるか。それで今晩は泊まらせてもらって、明日研究者の遺骨を埋葬する。


 この施設のシステムそのものは、シャットダウンする必要もないだろう。もう作られた役目は終えてしまったが、これから開拓を進めるうちに拠点の一つとして再利用する日も来るかもしれない。


 それから、ハルキの調子が完全に復活し次第、廃虚街に向けて出発を――


「――あ、そうだ。あと一つだけ、重要な問題を抱えてたんだった」

「なんだよ、重要な問題って。食料なら、下の倉庫にまだ食えそうなもんがいっぱいあっただろ?」

「お水も、綺麗なのが水道から出てたよね」

「違う違う、そうじゃなくて。……蒸気機関車、どうやって方向転換しようかなぁ、ってさ」


 ああ……、と二人の口からため息に近い声が漏れる。


 まぁ、でも、今はいいか。


 後片付けの間くらい、全部忘れてしまっても。

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