「犬」

「それで……僕たちが戦争を止めに行こうとしてるって話はしたよね? そのために、ずっと先にある場所を目指してることも」

「うん。でも私、てっきり海から行くのかと思ってたの。地下の人はすごい技術を持ってるって聞いてたから……木とか鉄とかで船でも作るのかなって」


 森の植物と海の魚、畑の野菜で作ったシンプルで健康的な食事を終え、一息ついたところでレイトは先程の話題を口に出した。ローテーブルを囲む三人の前には昨日と同じマグカップ入りのお茶が置かれており、白い湯気をあげている。


「森の奥に入るなら、ってさっき言ってたよね。それは単純に、危険だからってことでいいのかな」

「うん、そういうことなんだけどね……えっと、ハルちゃん。さっき、もしかして何か見たんじゃないのかな」

「……ああ、デカい影だ。やっぱりアレ、木とか見間違いとかじゃなかったんだな」


 ハルキが見たのは、森の奥で道を横切る『大型で四足歩行の何か』だったそうだ。移動スピードも人間離れしており、まず何らかの獣で間違いないのだという。


「車くらいのサイズはあったぞ。んなデカい獣がいてたまるかよ」

「ハルちゃん、それ見たのってどのへん?」

「二、三十メートルは進んでたはずだから……いたのは、そこから五十メートルくらい奥か? 俺が後ろ向きに入り口まで戻ってる間も、道の周りをウロチョロしてたな」

「そっか、やっぱり」


 きゅっと唇を結ぶニタは、既に何かを悟っている様子だった。レイトも自分の頭で考えてはみたが、どういう発想をしても自動車サイズの獣のビジュアルははっきりとしてこない。車のタイヤが縦長になっただけの、もはやギャグとしか思えない真っ黒なシルエットのままである。


 そして少しの沈黙の後、ニタは再び口を開いた。


「……あのね、森にはいっぱい怖い獣がいるんだけど……私が知ってる中で一番注意しなきゃいけないのが、それ。『犬』っていって――」

「犬ぅ⁉」ハルキが素っ頓狂な声をあげる。「犬って、小さくてフサフサしててやたら人の食い物狙ってくる、あの犬かよ⁉」

「え? え?」ニタも困惑を隠しきれない様子で眉根を寄せた。「犬だよ? 大きくてバサバサしてて、やたら人間を食べ物にしたがるんだよ?」

「だって犬っつったら、どんなにデカくても膝下ぐらいまでしかねぇだろうがよ!」

「どんなに小さくても、立ち上がったら男の人と同じくらいの大きさになるよ?」


 あーはいはい、とレイトは二人の間に上半身を割り込ませて腕を振る。無理やり腰をひねったせいで、忘れかけていた鈍痛が蘇ってきた。


「四百年前には同種だったものが地上と地下でそれぞれ環境に適応していった、ってことだと思うよ。巨大化についてはそれだけじゃない気もするけど……ていうか二人とも、今議論すべきはそこじゃないからね」


 レイトの言葉に、二人はまだ言い足りない余韻を残しながらも半ば浮きかけていた腰を下ろす。また短い無言があったあと、先に言葉を発したのはハルキだった。


「んー、だから結局さぁ。あの森にはすっげぇ危険なでっかいワンワンがいるってことなんだよな。それが俺の見た影で、人を喰う……と。いやどんな怪奇譚だよ」

「本当だってば」ニタが続く。「私たちが食料を取ってたくらいの場所はまだ安全なほうなんだけど……それでも半年に一回くらい、森の近くを通っただけの誰かが食べられてる。他の獣はたまに出会っても逃げていくのに、なんでか犬だけは怖がらずに襲ってきて」

「昔の習性が残ってるんだろうね。もともとは、っていうか地下都市では今でも、犬っていうのは基本人間と一緒に生活してるものだったし。人への警戒心が薄いんじゃないかな」


 レイトが解説すると、そうなんだ、とニタは妙に納得した様子で首を縦に振った。


 更に聞いたところによると、どうやら犬はあのメインストリートの先、街道付近によく現れるらしい。ただ単に見通しがいいから、ということも考えられそうだが、大きな道は人がよく通るという情報も本能として先祖から引き継いでいるのかもしれなかった。


「だからね。もし行くなら大きい道は避けるべきだし……できれば、行ってほしくない」


 ニタが視線を下げて唇を嚙む。すぐさま、ハルキが語気を強めて食いついた。


「なんでだよ。昨日初めて会ったヤツに、情もクソもねぇだろ?」

「だって、犬に会ったら食べられちゃうんだよ? 森にいるの、一匹だけじゃないんだよ? 絶対に死んじゃうって分かってるのに、いってらっしゃいなんて言えるわけないじゃん!」

「あのなぁ‼」


 ハルキの拳が、ローテーブルの表面を強く打った。振動にマグカップが跳ね、ニタはびくりと肩をすくめる。


「そんなもんでいちいち足止めてたら、どこにだって進めねぇんだよ。誰かが作って誰かが整備して、そんな安全な道ばっか選んでたら今俺たちはここにいねぇんだわ」

「そうだね」こぼれてしまったお茶を拭きながら、レイトも同意する。「僕たちはもう、四百年間誰も見たことのない世界に足を踏み出した後なんだ。道のりに凶暴な獣がいるなんて、もうとっくに予想してたよ。……まあ、サイズに関してはちょっと予想外だったけどさ……」

「……そっか。ごめんね」


 震える声でそれだけ言って、ニタは俯いてしまう。

 ハルキも眉間に深い皺を刻みながら、手足を組んで押し黙ってしまった。


 重苦しい空気の中、一人黙々と掃除を続けるレイトの胸中には何かが引っ掛かっていた。

 自分たちを引きとめたニタの、嘆願するような声と表情。『犬』という存在への、絶対的な恐怖感。


 知っているのだ。自分はこの感情を、既に知っている。


 「まさか」とは、今はまだ口に出せなかった。

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