7.
問三、一から六までの目のでるさいころを二回投げた時、出る目の数の和が十以下になる確率を求めよ。
この設問を読み返すのはこれで十五回目だ。別段、私は理系科目を苦手としているわけではない。机に向かってはいるものの、頬杖をつきながらくるくるとシャープペンを弄んでいる私が、受験勉強に集中していないというだけの話だ。
いよいよ私はペンを置いてスマホを取り出す。夜の八時を回ろうとしていた。窓の外に目を向けるも真っ暗で何も見えない。私は世界に取り残された心地を覚えていた。
今頃、桜と葵くんは何かおいしいものでも食べているのだろうか。中学生の財力を考えれば、ファーストフード店かファミレスが関の山だろうが、クリスマスイヴに一人、さいころの確率問題を解いている私よりはマシだろう。余計な惨めさを勝手に感じてしまった私は思考を手放し、ベッドの上に倒れ込んだ。
そういえば晩御飯まだだっけ。おなかすいたな。眠いな。これ雪山だったら死んじゃうやつだ。瞼を閉じてウトウトしかけたところで、快活な声が私の耳にとびこんだ。
「ただいま~」と勢いよく部屋のドアを開けた桜が、コートを脱ぎもせず荷物やら鞄をその場にほっぽりだして床にしゃがみこむ。
「うお~、あったけぇ」
ストーブの前に両掌をかざした彼女はホクホクした声を漏らしていた。すんでのところで眠りを妨げられた私はムクリと起き上がる。
「早かったね。晩御飯も葵くんと食べてくるもんだと思ってた」
「見損なわんでくれよ。せっかくの生誕祭の時間を男に捧げるほど私は落ちぶれちゃいないよ。幾つになろうが結婚しようが、この日の夜はお姉ちゃんと過ごすって私決めてるからね」
「フフッ。ありがとう」彼女らしい無邪気に心が綻んだ私は、さきほどまでの孤独感が吹き飛んでいった事実に気づく。
「でも、それだと私、葵くんに恨まれちゃうよ。私がいる限り、二人はずっとイヴの夜に二人きりになれないってことでしょ」
「葵くんは優しいからそんなことでお姉ちゃんを恨んだりしないよ」
手をさすりながら桜が返事をする。あまりにも淡々とした口調だったので、次の言葉を私は聞き流しそうになった。
「それに私たち、もう恋人同士じゃないし」
「えっ?」思わず声をあげ、「どういうこと?」思わずそうつづけていた。
「どういうも何も、言葉の通り。私、葵くんと別れたの」
彼女の言葉をようやく呑み込んだ私は、でもひどく混乱していた。私は詳細なバックグラウンドを欲した。
「喧嘩したの?」
「いんや。いたって良好なお付き合いをしてたよ。私ら」
「だったら、なんで」
ストーブをじぃっと見つめている桜が、少し逡巡するように、テキストを慎重に選び取るように口を開いた。
「私からね、友達に戻ろうって言ったの。その時の葵くん、今のお姉ちゃんとおんなじような顔してたな」
核心から迂回するような彼女の言い方に苛々してきた私は、でもぐっとこらえて次の言葉を待った。桜は、桜なりに自分の言葉を模索しているんだろう。この子はこういうやり方をよくする。
「葵くんとの時間はさ、楽しいし気が楽だったよ。一緒にいて嫌な気持ちになることもなかった。でも、それだけ」
立ち上がった彼女が、視線を斜めに落としたまま。
「私が葵くんのこと、恋人として、男の子として好きだなって感じたことは一回もなかった。たぶんこれからもないんだろうなって、そう思った」
私は黙って桜の声に耳を傾けていた。何かを言おうとしても、何を言ったらいいのかわからなかった。たぶん私は、自分の気持ちを整理できていない。
桜がやっと私の目を見た。
「だから終わらせたんだ。恋人としての二人の時間を」
桜はいつもの桜の顔をしていた。
寂しさも、憂いも、そこには存在していなかった。私は彼女の目をじっと見つめながら、絞り上げるような声を出す。
「葵くんは、納得しているの? 二人が別れた理由に」
「どうかな。わかった、って一言だけ。納得はしていないかもね。葵くん、そういうところあるから」
桜が乾いた息を漏らす。
私はギュッと下唇を噛んだ。噛んだまま、「そう」とだけ返事をした。
「お姉ちゃんさ」
ふいに、少し不自然に大きい声で桜が、
「私のこういうところ、嫌いでしょ」
そんなことを言う。
私はすぐに返事をせず、沈黙が長くつづいた。いや、ほんの数秒だったのかもしれない。その瞬間だけ、時間がひどくゆっくりと流れた気がした。私は静かに唇を剥がして、彼女の瞳の奥に向かって言葉を届けた。
「嫌いじゃないよ。むしろ、桜は強いんだなって、羨ましい」
いつもの桜の顔をしていた彼女が、まん丸く目を見開いた。そのままくしゃっと赤子のように顔を潰して、何も言わずに私に近づき、抱き着いて私の胸に顔を埋めた。
「お姉ちゃんのほうがちょっとだけおっぱい大きいよね。私も羨ましい」
「バカ。それを言ったら葉月の方が少し背が高いの羨ましい」
「2ミリじゃん。靴底の厚さで逆転されるレベルじゃん」
桜が顔を上げ、二人して笑った。同じ顔のわたしたちが、同じように目元をたゆませて、同じように口元を綻ばせて。
鏡を見ているようだ。でも、目の前の彼女は私じゃなくて桜だった。
桜が私の腰に巻いていた手を離す。「それにしても」私は思い出したような声をあげた。
「あんまりひどいんじゃない? わざわざクリスマスイヴに別れ話なんかしなくったって」
すると桜がかぶりを振って、
「いや、私が別れようって言ったのは一週間前だよ。私だってさすがに、それくらいの分別はあるよ」
「えっ?」疑問符が頭に浮かんだ私は、そのまま口に出す。
「でも二人は、今日デートしていたんだよね?」
「うん。いやね」目にかかっていた前髪を横に流した桜が、不思議そうな声でつづける。
「別れようって私が言った時、葵くんさ、クリスマスイヴに最後のデートをしたい。それまで恋人関係をつづけたい。そう言ってきたんだよね」
桜の話を聞いてもなお、私の頭に浮かんだ疑問符は雲散することなく、むしろぐるぐると脳裏を回りつづけた。私は口元に手をあてがい、視線を落とす。
「葵くん、なんでそんなこと」
「わかんない。理由は訊かなかったけど、葵くん、すごく真剣な顔をしていたから、葵くんにとって大事なことだったんだと思う」
私は葵くんの気持ちを想像しようと試みた。
単純に、桜と最後の思い出を作りたかった? それとも、デートをすることで桜の気持ちが変わると思った?
葵くんは、やっぱりまだ桜のことを好きなのかな。それはそうだろう。別れを切り出したのは桜からだし、日も経っていない。桜は葵くんのことを、男の子として好きになれないと言っていたけど、葵くんは――
「あっ、そうだ」
出し抜けに桜が声をあげ、部屋の中を移動した彼女は入り口に放られていた大きな紙袋を掴み、中に手をつっこむ。取り出した袋を持って私の元に戻り、差し出してきた。その袋は緑色のリボンでラッピングがされていた。
「はいお姉ちゃん。プレゼント」
「えっ? プレゼントなら今朝、お互いに交換したじゃない」
クリスマスイヴの日はお互い、プレゼントを交換し合うのが二人の恒例行事になっている。私は桜の好きなアニメキャラがデザインされたスマホカバーをあげ、桜はお腹を押すと大きな音が鳴る鳥のおもちゃを私にくれた。
「私からじゃない。葵くんから葉月にクリスマスプレゼント」
「私に?」
「うん。ちなみに私ももらった」
桜は首に巻いているマフラーの端を片手で掴んでひらつかせていた。言われてみると確かに、見覚えのない色のマフラーだ。
私は桜から差し出された袋を受け取り、緑色のリボンを解いた。中を開けると手袋が入っていた。嬉しさがこみあげる反面、私は一抹の違和感を覚えていた。
普通、恋人の姉妹にまでわざわざクリスマスプレゼントをあげるだろうか。
ましてや葵くんは桜から別れを告げられていた。別れを告げられたにも関わらず、自ら恋人期間の延長を申し出てプレゼントまで用意したのだ。その判断に至る理由を考えた時、葵くんが聖人君子のような性格をしているから、という結論はいささか乱暴に思える。
「あっ」
記憶のイメージがフラッシュバックし、夏の雨の匂いが鼻孔をかすめる。
私は思わず声をあげていた。
違う。これはクリスマスプレゼントじゃない。
葵くん、私との約束を覚えててくれたんだ。
だから桜だけでなく、私にも――
どうしよう。心臓の音が徐々に大きくなり、高鳴っていく。私は自分の気持ちを忘れようとしていたのに。なかったことにして、蓋をして思い出さないようにしていたのに。
今更になって現れた幸せのしっぽに手を伸ばしていいものか、私には判断がつかない。
「
ふいに桜がボソリと呟き、私の意識が現実世界に返還された。目をやると、彼女は妙なしたり顔を私に向けていた。
「高校受験、葵くんも杉並西が本命なんだって。三人とも合格したら同じ学校通えるね」
「なんでそれを、今私に言うの?」
「べっつにー。あー、お腹すいた。七面鳥の丸焼きが私を待ってるぜ」
わざとらしい声をあげた桜が私に背を向けた。マフラーと上着を脱ぎ、猫のような足取りで部屋から出て行ってしまった。
一人残された私は目を落とし、薄緑色の手袋を見つめる。歯車の狂った世界を想像してみたけど、薄いモヤがかかってうまくイメージができなかった。幾多の可能性の内、どんな未来が選ばれたとしても私は、心の底から笑えている気がしない。
私は手袋を自分の机の上にそっと置き、部屋を出て桜の後を追った。
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