6-6.


 今は使われていない空き教室。カーテンのかからない窓に陽の光がめいっぱい差し込み、葵くんは机の上に腰を乗せていた。男の子にしては線の細い黒髪が綺麗だった。彼は、そわそわと落ち着きがなさそうに、足を揺らしていた。

 やがて私に気づいた葵くんが視線を移し、私に向かって遠慮がちに手を振る。


「おまたせ」


 私は葵くんに近づいて、少し離れた位置から声を投げた。


「ごめんわざわざ。今日もこのあと部活あるんだよね」

「ううん。弱小水泳部のマネージャーなんて、いてもいなくても同じようなものだから」

「いやいや、そんなことはないでしょ」


 軽口も早々に打ち切られ、葵くんは何かに躊躇するように後ろ髪をさわっていた。


「ええと、その、あれなんだけど」


 しかしすぐにふぅと息を吐き、手を降ろして、腰を上げて、地面に足をつけ、まっすぐに立ちながら私を見た。


「一昨日の、告白のことなんだけど」


 私もまた、彼の目をちゃんと見ていた。少し間を置いて私は「うん」と返した。

 大丈夫。あの時と違って私は今、冷静に彼の声を聞くことができる。心の中で、その言葉を、あえて鳴らした。

 私の様子にホッとしたのか、葵くんが改まるように口を開いた。


「葉月、返事は要らないって言ってたけどさ。やっぱりそういうわけにはいかないかなって僕なりに」


 葵くんの言葉が、穏やかな波形のトーンで奏でられ、私の耳に染み入っていく。


「君に告白されてどう感じたかを、伝えたくて」

 私はなおも視線を外さぬまま再び、「うん」と返す。

「正直、驚いたっていうのが最初の印象。いや、もちろん嬉しさもあったんだけど。女の子から告白されたのなんてはじめてだし。ましてや、葉月がそんな風に想ってくれていたなんて、考えたことなかったから」


 葵くんが少し視線を斜め下に落として、照れたうに口元を綻ばせた。その表情は年相応に幼くて、等身大の彼を感じさせた。


「でも僕は、葉月の気持ちに応えることはできない」


 再び私の目を見て、彼ははっきりとそう言った。

 清々しいほどはっきりと。


「僕と桜が中学のころに付き合っていたのは、葉月ももちろん知っていると思うけど、僕は今でも桜のことをよく考えてしまうんだ。正確に言うと、別れる時に彼女に言われた言葉の意味を、よく考えてしまう」


 さきほどのはにかんだような表情とは違い、葵くんはいたく真剣な顔をしていた。葵くんはきっと、私への告白の返事を考えるにあたって、今の自分の気持ちを真正面から見つめ直してみたんだろう。終わったはずの恋と、私という存在の唐突な到来を重ね合わせて。頭に浮かぶ数多のテキストから最適解を選ぶのに四苦八苦したんだろう。

 彼の言葉が真剣であればあるほど、私もまた真剣に彼の声に耳を傾けるべきだ。私はそう感じていた。


 葵くんの声だけが、がらんとした空間に響きつづける。


「桜が僕に別れを告げた時、その理由を桜はこう説明した。桜は僕と一緒にいて楽しかったけど、僕のことを男の子として好きになったことはなかったって。そして、それはこれからもないだろうって」


 少しだけ、葵くんは言葉を詰まらせていた。肉眼には映らない彼の内側で、当時の感情が思い返されているのかもしれない。


「僕は桜と別れることを受け入れたけど、でも本当は、心の中では納得していなかった。未練を感じたというよりどちらかというと、彼女の言葉の意味がわからなかった」


 ほんの少しだけ寂しそうに、ほんの少しだけ悔しそうに、葵くんが自嘲をこぼす。


「人を好きになるのに、証明や実感って必要なのかな。一緒にいて楽しくて安心して、それだけじゃだめなのかな。それを好きって言っちゃあだめなのかな――って。でもそれを僕はその時、桜に言わなかった。たぶん、彼女の中で僕と別れる決心は固まっていたし、僕も、未練がましい奴って思われたくなかったから」


 葵くんが視線を横にずらす。自分の頬を遠慮がちに撫でる。一呼吸の間が空いて、彼は静かに唇をはがした。スローモーション映像のように緩慢と、彼の所作の一つ一つが水晶体の上を揺らいでいた


「だけど、あの時自分の考えていることをちゃんと声に出さなかったせいで、桜の言葉が僕の頭の中に残りつづけているんだ。彼女の言葉の意味を、僕が振られた理由を、僕自身が納得できるまでは、他の人の想いを受け入れることはできない。そんなのは誠実って言えない」


 まるで、自分自身に言い聞かせているみたい。

 言葉の一つ一つを噛みしめるように、内なる自分を諭すように。


「これは僕の問題であって、葉月の問題じゃない。だから、ごめん」


 ふいに、寂しさを覚えた。わかってはいたけど、改めて気づかされた。

 私が葵くんを見ていた時間、葵くんは、ずっと別のどこかを見ていた。しかもそれは桜であって、もっと言うと、桜でもない幻想体だった。

 私は右手で左手首を掴んで、ぎゅうっと握った。


「葉月がくれた告白の返事は、以上、となります」


 葵くんが口を閉じ、静寂が時をそよぐ。

 私はポーカーフェイスを一つも崩さずに葵くんを見ていた。時間の感覚が感じられなくて、時の牢獄に閉じ込められている気がした。だけどこうしていても仕方がない。


「ありがとう」


 私は口火を切る。

 嘘偽りない感謝を正面の相手に届けようと努める。


「葵くんの気持ち、葵くんなりに形にして、私に伝えようとしてくれて、本当にありがとう」

「ごめん」

「謝らないでよ」


 私は首を傾げて笑って見せた。お得意の陳謝を封じられた葵くんは困ったように頭を掻き、押し黙るばかりだ。これ以上、葵くんが私に何かを言う必要はないし、私も葵くんに言うことはない。私はそう判断した。


「じゃあ私、もう行くね」


 私が彼に背を向けようとすると、

「葉月」

 葵くんが私を呼び止める。振り返り彼を見ると、手を伸ばした葵くんはパクパクと口を開閉させていた。

「何?」

「ええと、あれ、なんだろう」


 困惑した顔つきの葵くんを他所に、「何、それ」私はクスッと笑って、今度こそ彼に背を向けた。

 放課後の時間になって半刻ほど、実に中途半端な時間帯のためか廊下は閑散としていた。


 これで私の恋も、おしまいか。

 明確に形どられたリアルをこの目で確かめ、耳で聞くことによって、存外、身体は軽くなった気がする。気がするが、それが強がりによる錯覚なのかはわからなかった。

 私はごく当たり前のように、いつもの日常をこなすように、水泳部の部室へと向かった。



 部室のドアを開く。誰もいないかと思ったが、制服姿のままの桜が一人、ベンチに座っていた。私に気づいた彼女が、へらりと笑ってこちらを見る。


「やっ」

「やっ、って。何してるの? もう練習はじまってるでしょ」

「いやね。お昼を食べ過ぎたせいかお腹の調子が悪くって。ちょっと休んでから参加しようかと」


 彼女の声のトーンに少し違和感を感じた。私は入り口の前で立ち止まったまま、違和感をそのまま口に出す。


「もしかして、私のこと待ってた?」


 少しの間が空いたのち「ソンナコトナイヨ」桜は私と顔を合わせようとしなかった。

 得も言われぬ衝動が私の身体を巡る。

 私は無表情のまま足早に桜に近づき、ベンチに腰をかけていた桜を見下ろした。桜は子どもみたいにきょとんと私を見上げている。私は桜の両頬に手をかけ、柔らかい肉をにぎりこみ、ぎゅうと思いっきり左右に引っ張った。


「あたたたた、いたたたた、ギブ、ギブ」


 桜が鳩のようにバタバタと両手を上下させている。私が彼女の顔からパッと手を離すと、彼女は両頬をさすりながら涙声を漏らした。


「暴力反対、鬼姉危険。いきなり何するんだい」

「世の中の幸福度のバランスを取ろうと思って」

「急に怖いこと言い出した」


 私はふぅと大仰に嘆息し、桜の隣に腰をかけた。肩にかけていた鞄を降ろして、前のめりの姿勢で頬杖に体重を委ねる。


「ごめん。今日の私、ちょっとどうかしてる」

「うん、そうだろうね」


 私の奇行に驚くでもなく、桜はいつものマイペースな口調を崩さない。

 私は虚空に向かって声を放った。


「私、葵くんのこと好きなんだ」

「うん」と間髪入れずに桜が返す。


 まるで私が何を言うのか、わかっていたようだった。私が何を言うのか桜がわかっていることを、私もなんとなく予感していた。


「この前の文化祭の打ち上げの帰り道、告白した。正確に言うと、その前にも劇の舞台の最中に皆の前で、シンデレラの姿を借りて、私は彼に想いを伝えた」

「うん」

「葵くんは私のこと、誠心誠意振ってくれたよ」

「うん」


 桜と私と、二人の視線は交差せぬままに、声だけが反復運動を繰り返す。


「あなたが葉月で、私が桜だったらよかったのに」

「今度は難しいことを言い出した」


 出し抜けに桜が立ち上がる。暇を持て余した子どものようにぶらんぶらんと足を動かし、全身が揺らいでいる。


「葵くんはさ」


 ポツン。コンクリの地面の上に桜の声が垂れた。


「なんていうか、変に生真面目なところがあるんだよ。普通、みんなが受け流すようなことも、葵くんは全部受け止めて、いちいち答えを出そうとするんだよ。理屈っぽいとこあるんだよ」


 くるんと半回転した桜が顔を上げ、私を見た。私も彼女に視線をやり、私たちの視線が久しぶりに交錯する。


「だから、葵くんがお姉ちゃんをどういう理由で振ったのかは知らないけど、お姉ちゃんはちゃんと、自分の気持ちを伝えたわけだしさ」


 桜は無垢な表情をしていた。遠慮や情けはそこに存在せず、たぶん彼女はシンプルに、自分の考えをそのまま口に出している。


「葵くんがお姉ちゃんのほうをちゃんと向いてくれる時が、きっと来るよ」


 だから私は彼女の言葉を聞いても、その言葉の意味を理解しようとしても、惨めな感情は湧かなかった。彼女は別に、私を慰めようとしているんじゃない。我が妹はそういうことをあまりしない。

 だからこそ、私は、桜の声を拒否することができなかった。

 完結したはずの物語に、別ルートのエンディングが存在する可能性を、私は恐れた。


「でも、私もう葵くんに振られてるし、この恋はおしまいにしようと思ってる」

「引き出しの奥にしまっているプレゼント、まだ渡せてないのに?」


 私は露骨に驚き、目を丸くする。


「何で知ってるの?」

「あ、やっぱりそうだったんだ」


 桜のしたり顔を見てようやく、私は自分のかけられた罠に気づく。


「カマをかけたの? 人が悪いね」

「杉並西の諸葛孔明と言えば私のこと。というか同じ部屋でずっと暮らしているんだから、お姉ちゃんが引き出しをたまにチラチ気にしてるのくらい、気づくって」


 桜が得意げに鼻をこする。

 彼女がめざといのか、私が迂闊なのか。いや両方だろう。嘆息した私は再び視線を地面に落とす。


「あれはそういうのじゃなくて。葵くんと約束したからって、それだけで」

「じゃあ、約束は守らなきゃだめじゃん」

「それは」


 口を開いたものの、二の句が継げない。桜はどうやら私を逃がしてくれる気がないらしい。こうなった桜に私は太刀打ちできない。彼女の目的はわからないが、私の気持ちが揺らぎはじめているのは事実だ。

 私は、葵くんとの恋を、


「桜―! いつまで休んでんだー!」


 バタン。遠慮のかけらもなく部室のドアが開け放たれ、私と桜はほぼ同時、声のした方に目を向ける。髪を濡らした日向が大声と共に顔を出した。


「って葉月もいるじゃねーか、姉妹そろってサボってんなよ」

「はいはーい。すぐ着替えて行きまーす」


 いつものひょうひょうとした声で桜が返すと、日向が「早くしろよ」と言い置き、退場する。桜は何事もなかったように水着の入ったナップサックを手に取り、ぼやいた。


「あー、今日はさすがに水、冷たそうだなー。早く夏になんないかなー」


 桜の目的が果たされたのかはわからない。でも彼女はこれ以上、私に固執しなかった。桜が猫のような足取りで軽やかに、部室をあとにする。がらんとした部室に私だけが取り残された。

 葵くんは、私との小さな約束を覚えていてくれた。でも私は、彼との約束を果たせていない。


「諦めようと、思ってたのに」


 勝手にはじまったくせに、自分で終わらせることもできない。日常生活レベルで効率化を求められる現代社会において、恋愛という感情はあまりにも不合理だ。

 アダムとイブを産んだ創造神に私は、恨み節を吐いた。

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