6-5.


 文化祭が終わるまでに答えを見つける。そう決めたのは自分だ。自分との約束を私は守っただけ。私は穏やかで平和な日常の歯車を狂わせ、葵くんに想いを告げる選択を選んだ。

 そして、彼は私を受け入れなかった。それだけの話だ。


 世の中に失恋話なんてごまんと溢れている。私の恋もそのうちの一つに混ざったに過ぎない。十年後には、あのころの私は若かったななんて笑い飛ばせる類の話だ。それだけの話。それだけの話なのに。


「はぁ」


 さっきから、私は嘆息が止まらない。

 胃の中に生まれた靄が、すぐにどんどん大きくなって、私の五体を内側からぎゅうぎゅうと圧迫する。耐え切れなくなった私は口からそれを吐き出して、そんな生産性のない行為を私はずっと繰り返している。ついさきほどの、葵くんの困ったような表情が瞼の裏に張り付いて、視覚情報を侵食していた。


 すっかり冷めたぬるま湯が私の全身に纏わりつき、私を湯舟の中に縛り付けていた。身体が鉛のように重く、動く気になれなかった。

 一人きりの閉鎖空間で永遠に時を過ごしていたい。外界の干渉が怖かった。今の私が桜と顔を合わせて、得意のポーカーフェイスを保っていられる自信がない。先ほど挨拶を交わした時すでにもう、彼女は何かに気づいてしまったかもしれない。


「葉月! いつまでお風呂入ってるの!? 後がつかえてるんだから早く出て!」


 閉鎖空間の外側から、私をリアルに引っ張りこもうとする声がした。お母さんが私を呼んでいる。

 私は耳を塞ぎたくなったが、ギリギリのラインで自制心が働いた。私の失恋のせいで家族がお風呂に入れなくなる道理はどこにも存在ない。聞き分けのいいのが私のウリでもあった。


「ごめん、すぐ出るから」


 聞こえるかもわからない声と共に、私はぬるま湯から身体を無理やり引きはがした。



 お風呂から出ると、当たり前だがリビングに桜がいた。ソファに座ってテレビを観ながらスマホをいじっていた。テレビには児童向けのアニメが流れている。


「あ、お姉ちゃんやっと出た」


 彼女は私を見るなりのん気な声をあげ、すぐ自身の隣に視線を移す。


「タケル、葉月お姉ちゃんお風呂出たから、次アンタ、入っちゃいな」

「はーい」


 テレビ画面に夢中になっていた弟のタケルが快活な返事を返し、その場で服を脱ごうとする。


「ちょっと、ここで脱ぐなってば!」


 桜が慌てて立ち上がり、反脱ぎの状態のタケルをお風呂場に連れていった。いつもの日常茶飯事を流し見ながら、私は冷蔵庫から麦茶を取り出す。ゴクゴクと私が喉を鳴らしていると、桜がリビングに戻ってきた。


「まったく、手がかかるったらありゃあしない」


 ヤレヤレと大仰に肩をすくめる桜はいつもの桜で、私は彼女の顔を見ぬままいつもの私を演じた。


「相変わらず、桜はタケルの面倒見がいいね」

「そりゃあ、なんてったってお姉ちゃんですから」


 えっへんと胸を張る彼女の所作に、少しだけ心がほぐれ、私はクスッと息を漏らした。


「それで言うと、私はタケルと桜、あなたたち二人のお姉ちゃんなんだけどね」

「じゃあお姉ちゃんは私の面倒見てよ」

「それは骨が折れそう」

「ドイヒー」


 桜がキシシと少年のように笑う。存外、彼女と普通にやり取りができている自分にホッとしていた。これならもしかして、歯車が狂ったことにみんなも気づかず、今まで通りの日常を送れるかもしれない。一抹の期待を覚えた私だったが、


「お姉ちゃんさ」


 ふいに桜が私を呼んだ。彼女に顔を向けると、先ほどまでの緩慢した笑顔と違い、桜はやけに神妙な顔をしていた。


「何か、無理してない?」


 あっ。

 やっぱりだめだった。私のポーカーフェイスは、私と同じ遺伝子を持つ彼女には通用しない。

 私は悟る。今までの日常はきっと還ってこないんだろう。

 私は桜から目を逸らした。


「何が? そんなことないよ」


 声が震えないようにするのに精いっぱいだ。私は麦茶の入ったコップを両手で握りしめながら、目を伏せていた。


「ふーん」


 桜はそれ以上追及することはなかったが、たぶん私の横顔をじっと見つめている。沈黙の時間が、横から感じる彼女の視線が、

痛くて重かった。


「さっき、お姉ちゃんのスマホに電話があったよ。葵くんからだったから代わりに出た」

「えっ?」


 その名の登場に、私の心拍数が一気に上がった。条件反射で私は桜の顔を見返したが、すぐにハッとなる。

 その行為は、今の私の表情は、桜の疑惑を確信に変える一手と為りえただろう。私はごまかすように視線を彷徨わせた。


「葵くん、なんて?」

「休み明け、学校で話したいことあるから放課後に少し時間が欲しいって」

「そう」


 葵くんらしいな。

 私の告白は、我ながらあまりにも一方的だった。自分だけ言いたいことを言って、葵くんの声を遮断し、私はその場から逃げ出した。葵くんはきっと、衝撃の事実を突きつけられたあげく咀嚼する猶予も与えられず、もやもやと心の消化不良を起こしている。それに葵くんは優しいから、誰がどう見ても冷静じゃなかった私の態度を慮って、改めて私に向き合ってくれようとしているのかもしれない。どちらにせよ、

 彼が私を受け入れることは、きっとない。

 振られてなお、今まで通り友達として交遊をつづけられるほど、私は器用じゃない。


「ありがと」

 私はそう言うなり、麦茶の入ったボトルを冷蔵庫にしまった。そのまま桜の顔を見ずに自室に戻ろうとした。何もしたくないし、何も考えたくなかった。二日間の文化祭の疲れもあって、私の全身はもうろうとしている。


以心伝心いしんでんしん炭酸飲料たんさんいんりょう


 私は振り返って桜を見た。桜はいつもの桜の顔で、薄い微笑を浮かべていた。


「昨日も言ったけど、シンデレラの演技すごくよかったよ。私、泣いちゃったんだから」

「嘘でしょ? 桜、お芝居や映画を観て泣くことなんてほとんどないじゃない」

「うん。作り物の物語じゃあ私、泣かないからね」


 表情を変えず、桜の声は淡々としていた。私は、私らしくもなく、おどけた表情を作って見せる。


「何言ってるの。私たちの劇も作り物の物語だし、私が演じたシンデレラだってフィクションの存在だよ」


 私は再び桜に背を向け、階段をあがって自室に向かった。

 ドアノブに手をかけて、扉を開けて、閉めて、音の鳴らない部屋でベッドの上に倒れ込む。脳が全身の機能を停止させるように働きかけた。

 明日は休みだ。久しぶりに一日中寝て過ごそう。

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