6-4.
街灯の光が二つの影を作って、暗がりに塗れる葵くんの表情は薄ぼんやりとしていた。
「あのさ、僕、君に言いたいことがあって」
「えっ?」
出し抜けに立ち止まった葵くんがそんなことを言い、虚を突かれた私は阿呆面を晒していた。
二日間の文化祭は無事終焉を迎え、私と葵くんはクラスの打ち上げのあと、夜道を二人で歩いていた。桜は自分のクラスで打ち上げがあるからと別行動になり、葵くんは家の近くまで私を送ると申し出てくれた。
彼と二人になれるのはもちろん嬉しかったけど、かりそめとはいえ愛の告白を断行してから一日しか経過していない。私は気恥ずかしさでまともに顔をあげられなかった。
だけど今は、私はまっすぐに葵くんの顔を見ている。あまりにも真剣な表情に、視線を逸らしてはいけない気がした。
「公演中に舞台袖でも言ったけどさ、僕は最初、舞台に立つことに乗り気じゃなかったんだ。文化祭自体に積極的じゃなかったしね」
葵くんが何かをごまかすように自嘲を漏らす。
「でもね、葉月の、一生懸命台本と睨めっこしたり、鏡の前で真剣な顔で演技の練習をしている姿を見ていたら、ああ、これは僕もちゃんとしなきゃなって、そう思うようになったんだ」
私は黙って、彼の言葉に耳を傾けていた。ドキドキと高鳴る胸の鼓動を、必死に抑えつけながら。
「僕はたぶんね。同年代の奴らが何かに熱中して取り組む姿を、バカにしていたんだ。そんなことしても無駄なのに、どんなに本気になっても報われないことがあるって、そう考えていたから」
ふと、いつぞやの桜の言葉が脳裏をよぎった。
葵くんはさ、中学の時から基本さめてたけどさ、たまに熱い男だったんだよ。でも高校に入ってからは、ずっとさめてるんだよね。
心臓に亀裂が走った気がした。血が溢れ出して、止血が間に合わない。私は思わず胸のあたりを掴んで、ギュッと握りこんだ。
「だけど今回、お芝居なんて柄にもないことに挑戦して、全然覚えられない台詞に悪戦苦闘して、すごく大変でプレッシャーもあったけど、それでも」
葵くんが私に笑顔を向けている。輪郭がおぼつかない彼の表情が、やけに神秘的だった。ああ、
「楽しかったんだ。毎日くたくたになって、家に帰ってご飯食べた後すぐ寝ちゃって、そういうの久しぶりだった。ああ充実しているなって、そういう毎日だった」
葵くん。そんな表情を今の私に見せたら、だめだよ。
「僕のほうこそ、葉月にお礼を言いたい。葉月のおかげ。葉月が相手だったから、僕は頑張れた。頑張ることの楽しさを、思い出すことができた。だから――」
私はもう視線を外せない。呪いがかけられたように、身体も動かすことができない。
心臓からドクドクと血が流れつづけて、血の海に溺れそうになった私は、
「やめて」
明確な拒絶を吐きだしていた。
「……えっ?」
少しの間が空いて、葵くんが戸惑ったような声をあげた。私は我に返り、でも全ては遅すぎた。だって私は、もう期待してしまっているから。
「葵くんさ」
葵くんは私を、ただのクラスメートではなく、特別な存在だと思ってくれてるんじゃないかって。
一人の、雌として。
「私の演技、どう思った?」
「どうって?」
「葵くんは、観客席からじゃなくて目の前で私の演技を見ていた葵くんは、私の言葉を聞いて、どう思った?」
自制が効かない。自分のものじゃないみたいに、口が止まらない。
私はとうとう、歯車に手をかけている。
葵くんはなおも戸惑った様子で、でも口元に手をあてて真剣な表情を作っていた。脈絡もなく唐突な私の問いに、でも何かを察してくれたんだろう。葵くんは、丸裸の私に、全力で付き合ってくれている。
やがて彼は、ぽつぽつと言葉を紡ぐ。
「みんなから散々言われていたけど、凄いと思ったよ。圧倒された。特に、初日公演のラストシーンは、思わず呆けて台詞が飛びそうだった。だってまるで」
私は察した。理解をした。私の認識は甘かったんだ。
「シンデレラではなく、葉月自身から、愛の告白を受けているみたいだったから」
現代に転生したシンデレラは、新島葉月を隠し切ることができなかったらしい。
私の気持ちは漏れ出ていて、葵くんに伝わってしまっていたんだ。
だったらもう、私のやるべきことは一つ。
文化祭が終わる前に答えを見つける。私は私自身にそう約束していた。私はもう、どんな約束も破りたくはなかった。
真剣な表情をしていた葵くんがふにゃりと表情を緩慢させた。彼なりの気遣いだろう。葵くんはきっと、ほつれそうになった幻想を必死に繋ぎとめ、リアルを覆い隠そうとしている。
「……って勘違いしてるみたいでイタいね今の発言。ごめん、忘れて。それにしても、びっくりしたよ。台本にない台詞、急に喋り出すんだもの。アドリブであんな言葉思いつくなんて、凄いよ。葉月、本当に女優の才能あるんじゃ」
だけど私にはもう、立つ瀬なんてなかった。
「あの台詞、私の本心だから」
沈黙が暗がりを支配している。遠くから聞こえる自動車の走行音が、やけに滑稽に響く。
「私はあの時、舞台の上で、自分の本当の気持ちを葵くんに伝えたの」
沈黙が隙間を縫う。葵くんはもう笑ってない。
「それ、どういう意味?」
「そのままの意味だよ」
はぐらかす余地は、もう残されていなかった。私はぐっと目を凝らして、街灯の光に照らされる葵くんの顔を、食い入るように見つめていた。ふと、
葵くんの表情が揺らいだ。ばつの悪そうに視線を落とした葵くんが、後ろ髪に手をやった。
「あの、僕」
その所作で私は悟ってしまう。
体温が全身から抜け落ちて、あらゆる音を聞いていられなくなった。一切の情報を頭に入れたくなかった。
「ごめん、返事とかはいらない」
逃げるように私はそう言い、
「送ってくれるのも、ここまでで大丈夫、あとは一人で帰れるから」
彼の顔を見ぬまま背を向けた。
「ちょ、ちょっと!」
当然、葵くんは私を呼び止める。でも聴覚の機能を停止させている私の耳は、その音が遠くで鳴っているようにしか聞こえなかった。
ひたすらに、ひたすらに足を動かす。
曲がり角を曲がった後、ようやく私は呼吸のやり方を思い出した。ふぅと大仰に息を吐いて、吸って。酸素が全身を駆け抜けていって。
改めて、冷静になった頭で、私はぼんやりと空を見上げた。
ああ、やっぱり私じゃだめなんだ。
私は一生、桜に敵わない。
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