6-2.


 ドキドキと心臓の鼓動が止まらなかった。足が震えて限界だった。


「じゃあ、私もう部活行くね? 来週から台本の読み合わせとかはじまるみたいだから、よろしく――」


 私は葵くんに対してそう言い、逃げるように背を向けた。そのまま早足で教室を後にし、廊下に出るとすぐに壁にもたれかかった。


 一つ深呼吸をする。酸素が全身の血流を流れて、生き心地が久しぶりに還ってくる。

 自分自身の行動が、自分でも信じられなかった。私が、劇の主役に立候補するなんて。


 確かに桜と約束はしたけど、あんな一方的な取り決めは反故にしてしまえばいい。どちらかというと私は、葵くんの相手役を他の子にとられるのが嫌だったんだと思う。

 アカリという生徒がシンデレラ役に推薦されそうになった時、私は心臓をわしづかみにされたような不快感を覚えた。目の奥が引っ張られて、視界が狭まっていく感覚がした。焦りに囚われた私は自制心を手放し、本能のままに手をあげていた。


 我に返った時、刺すようなみんなの視線に気が遠くなりそうだった。全身が震えるのをこらえるのに必死だった。作り笑顔が崩れないようにするのに必死だった。一歩踏み込んでしまった以上、もう引き返せない事実を知っていたから。


 すべての配役が決まり、ホームルームが解散された後、私は急に怖くなった。もしかしたら葵くんは私なんかより、他の女の子がよかったんじゃないか。私は一人で暴走し、変にでしゃばってしまったんじゃないか。マイナス思考に心が支配され、いたたまれなくなる。


 不安に耐えられなくなった私は葵くんの元を訪れ、思わず本音をそのまま本人にぶつけてしまった。葵くんは、

 助かったよ。ありがとう。

 私にそう言って笑ってくれた。


 陽光が雪を溶かすように、私の心はゆったりと緩慢していった。同時に、別の懸念が胸をかすめる。

 このままだときっと、私の気持ちが葵くんが漏れ伝わってしまう。もしかしたら、今の私の表情を見た葵くんは、すでに何かを感じとってしまったかもしれない。

 だから私はその場を逃げた。逃げたあと、あまりにも中途半端な自分に心底嫌気していた。


 私はやっぱり、葵くんのことを好きなんだろう。そうじゃなきゃこんなに苦しんでいない。この恋を諦めるでもなく、かといって吐き出す勇気も出ず、私は一体どうしたいんだろう。


「答え、見つけなきゃ」


 ポツンと、ひとりでにこぼしていた。

 私は、自分の気持ちを葵くんに伝えたいのか、それとも、胸の内に秘め隠して、穏やかな日常を卒業するまで享受するのか。

 文化祭が終わるまでに、答えを見つけなきゃ。

 今度は心の中で、私は決意の音を鳴らす。

 前を向いた。背もたれにしていた壁から全身をはがして、廊下の奥をまっすぐに見据えて、私は歩き出す。

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