6-1.
高校生になって、半年ほど経過したある日のこと。
てぐしで前髪を整えていたら、鏡越し、桜が肩を落とす姿が映った。
「どうしよう。他クラスの部活の子たち、みんな今日体育ないらしい。私、ジャージ難民だよ。もういっそのこと制服で参加しようかな」
「それはやめとこう。人として、女子として」
いつものように、いつもの四人で中庭に集まり昼食をとったあと、私と桜はいつものように女子トイレに寄った。桜は体育の授業があるにもかかわらずジャージを忘れたらしく、ムムムと険しい顔でスマホを睨んでいる。私のクラスは今日体育がないのでジャージを持っておらず、葉月に貸すことができない。
四人で昼食を共にする流れができあがったのは、杉並西高校に入学してから一か月とちょっと経過したあたり、ゴールデンウィークが明けたあとからだった。桜と私は同じ水泳部を通じて日向とすぐに仲良くなった。特に桜と日向はあけすけな性格同士、馬が合っているのか二人して私のことをよくからかってくる。勘弁してほしい。
私と日向と葵くんは同じクラスになり、私と葵くんが話している所に日向がやってきて、二人は水泳の話で意気投合していた。私と桜と葵くんが同じ中学出身だと言う事実を告げると、じゃあ四人でお昼を一緒に食べようと日向が提案したのが、この会合がはじまるきっかけだった。
葵くんが、教室で昼食を取るのに難色を示した。女子三人とのランチタイムを周囲に見られるのは、思春期男子としていささか気まずいものがあるんだろう。事情を汲んだ私たちは普段から人気のない中庭を集合場所にした。男女で学内を行動するのはどうしても目立ってしまうため、私と葵くんと日向はバラバラのタイミングで中庭に向かうようにしている。一人だけ別のクラスの桜は私が迎えにいった。
傍からみた私たちは煌びやかな青春の一ページを過ごしているように映るのだろう。実際、つつましくも穏やかな日常に私は幸せを感じていた。だけど同時に、私は心の中にある小さなしこりにずっと違和感を感じている。
私は葵くんのことが好きだ。でも、
私の想いが表に溢れてしまったら、四人の関係性はきっと崩れてしまう。
何よりきっと、葵くんはまだ、桜のことが。
「あ~あ、今日の体育が水泳だったらよかったのに。ジャージいらないし、一日に二回も泳げるし、
スマホをスカートにポケットにしまった桜が嘆息する。私は鏡越しの彼女に声を投げた。
「桜はホント昔から、泳ぐの好きだよね」
「うん。なんか水の中って落ち着くんだよね。何にも聞こえないし、泳いでいると何にも考えなくてすむし」
桜は時々こういう、哲学めいたことを言う。私と同じ遺伝子で、私と同じ環境で育ったはずなのに、私にはない考え方に驚かされることがある。
自由奔放な振る舞いをしているようでその実、桜は周囲のことをよく見ていた。きっと私よりも神経を張りつめて生きている彼女は、一人だけの世界を大事にしているんだろう。
「タイムじゃ葵くんや日向には負けるけど、水泳ラヴパワーなら私が一等賞だよ」
えっへんと胸を張った彼女にくすっと息を漏らした私は、何の気なしに言った。
「それにしても葵くん、なんで中学で水泳、辞めちゃったんだろうね。都大会でも上位入賞できるくらい成績が良かったんでしょ」
少しだけ、空気が変わった気がした。
桜はすぐに返事をしなかった。私は思わず振り向いて、鏡越しでない彼女に目をやった。
「葵くんはさ」
桜はいつもの桜の顔をしているが、彼女の声のトーンが少しだけ揺らいでいる気がした。
「中学の時から基本さめてたけどさ、たまに熱い男だったんだよ。でも高校に入ってからは、ずっとさめてるんだよね」
桜が地面に視線を落として、ふっと自嘲をこぼした。「私のせいかもね」そんなことを言いながら。
「桜……」
私はやりようもなく彼女の名前を呼んだ。
私は桜の真意を掴みあぐねている。彼女の放った言葉の意味を、薄ぼんやりとした輪郭でしか捉えられていない。でも、いつもより少しだけ寂しそうなその表情は、私に一つの仮定を提示していた。
桜はきっと、葵くんと別れたことを引きずっている。
後悔はしていないと思う。でも、桜自身が考えていた以上に、彼女の中で、葵くんの存在が大きかったのかもしれない。そして、
桜が考えていた以上に、葵くんにとって、桜の存在は大きかったんだろう。
私はそれ以上言葉を重ねず、下唇を噛んだ。沈黙を見限ったのは桜の方だった。
「で、お姉ちゃんはしないの?」
顔をあげた桜は、いたくけろっとしていた。いつもの調子で、いつものトーンで、目的語の欠けた問いを私に投げた。
「何を?」
「いや、告白」
「えっ」唐突な単語の登場に、私は一瞬だけ言葉に窮してしまう。
「急に何。さっきの日向の真似? しないよ。誰にするっていうの」
「先輩に聞いたんだけど、うちの高校、文化祭で告白すると成功率が90%なんだって。その先輩は振られたらしいけど」
「全然信ぴょう性ないじゃない。バカなこと言ってないで、葉月は誰でもいいからジャージ借りてきなって」
妙な会話の流れを不審に思った私は、無理やりに話を終わらせた。桜は特にそれ以上追及する素振りを見せず、のん気そうに両手を頭の後ろで組んでいた。
「私はもう諦めたよ。五限は仮病つかって保健室で寝ることにした」
「もう、単位足りなくなっても知らないよ」
「お姉ちゃんのクラスは文化祭、何やるんだっけ」
またしても唐突に話題が切り替わる。私は桜の意図が読めず、やや警戒した声色で返事を返した。
「うちのクラスは、オリジナル脚本の劇をやるの。現代に転生したシンデレラ……だったかな。クラスに脚本家を目指している子がいて」
「なにそれ。めっちゃ面白そう。観に行くね」
「ちなみに私は舞台に立つ気ないからね。小道具とか裏方の仕事をするつもり」
私がそう言うと、桜が口をとがらせる。
「え~。お姉ちゃんの演技また、観たいなぁ。昔、劇でお姫様役やってたじゃん。あの時の女優魂はどこいったのさ」
「それ、小学生の学芸会の話でしょ。あの時は周りの友達に推薦されて仕方なく」
今思えば、人見知りの私がよくそんな大役を務めたものだ。あのころはまだ、引っ込み思案をここまでこじらせていなかったんだろう。いつからか私は天真爛漫な桜と自分を比べることが増えて、彼女の影に徹するようになっていた。
「それに、部活もあるから放課後時間取れないし、両立は難しいよ」
「お姉ちゃんマネージャーじゃん。弱小水泳部のマネージャーなんて、いてもいなくても同じだって」
「さらっとひどいこと言うね」
口元に手をあてがってウンウン唸っていた桜が、ぱぁっと顔を明るくする。
「だったらさ、こうしない?」
桜がずずいと私に近寄り、眼下から上目遣いで私を見た。にまにまと口元がたゆんでいる彼女の表情から、悪だくみの類を思いついたのだろうと察するのは容易だった。
「もし、シンデレラの相手役が葵くんになったら、お姉ちゃんはシンデレラ役に立候補する」
「なんでそこで葵くんが出てくるの」
私が間髪入れずに返したものの、桜は怯む様子を見せない。
「何でもだよ。お姉ちゃんも相手が葵くんだったらやりやすいでしょ? ね?」
「葵くん。文化祭自体を面倒くさがってたし、そんな目立つ役なんてまずやらないと思うけど」
「まずやらないと思うなら、私と約束したっていいじゃん。成立しないんだから。それに、もし葵くんが舞台に立つことになったら、葵くん的にも親しくない女子より、相手役はお姉ちゃんの方が安心してやれると思うんだ。どうせ葵くん、他に女友達なんていないだろうし」
あくまで食い下がる桜の勢いに呑まれた私は、「わかったよ。葵くんがシンデレラの相手役になったら、ね」渋々了承してしまった。
まぁ、さっき葵くんの調子を鑑みるに、この約束が成立する可能性は低いだろう。私は高をくくっていた。
「やった! じゃあ約束したからね? ちゃんと守ってね?」
高をくくっていた私だが、桜の自信満々な笑顔に一抹の不安を覚える。
「桜、あなたもしかして何か、企んでる?」
「べっつにー。ただ私が、杉並西の諸葛孔明という噂があるって、それだけのことだよ。さ、ひと眠りしてこよーっと」
そう言うなり、桜は猫のような足取りで女子トイレから去ってしまった。一人残された私は鏡に目を向ける。
「……何なの」
私の顔をした私に向かって文句を言ってみた。当然返事は返ってこない。
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