5-2.


 なだれこむように玄関を開け放つと我が家の匂いがして、私の胸に安堵が広がる。思ったより私は神経を張っていたらしい。五体を釣っていた糸がプツンと切れた感覚があった。


 突如として到来したゲリラ豪雨により、八幡祭りのメインイベントである打ち上げ花火は中止になってしまった。二手に分かれていた私たち四人は合流してすぐに解散し、私と葉月はタクシーを使って家路についた。

 桜と二人でほぼ同時、「ただいまー」と見事なユニゾンを奏でると、大きなバスタオルを二枚持ってお母さんが私たちを出迎えた。私は本格的に降り出す前にコンビニで傘を購入できたので被害は少なかったが、かたぬきに夢中になっていた桜はびしょ濡れだ。水も滴るいい女、と評せるレベルではない。


 私たち二人の姿を順繰りに見たお母さんが、桜の惨状にぎょっと目を丸くし、驚きと呆れが混ざったように言った。


「やだ葉月。びしょびしょじゃない。さっさと着替えてお風呂入りなさい」

「私は桜だよ。言われなくてもそうするよ」

「あら? そう言えば浴衣が違うわね。じゃあなんでアンタが眼鏡してるの?」

「初恋の呪いを解くのに、ひと役買って出たんだよ」

「はぁっ?」


 キョトンと目を丸くするお母さんからバスタオルをもぎとった桜は、ガシガシと頭を吹きながら足早に階段を駆け上がった。私もお母さんからタオルを受け取り、「気にしないで」お母さんにそう言い、肩のあたりの水気を払いながら桜の後を追う。


 部屋に入るなり、桜は破竹の勢いで自身の浴衣を剝ぎ取りはじめる。床に衣服を脱ぎ捨て肌着姿になった彼女は、そのままベッドの上にダイブした。


「あー。暑いはキツいわ雨は降るわで地獄でしたわ。昔の人はこんなもん普段着にしてたのかよ。信じられないね。温故知新、滝汗溺死」

「ちょっと。脱いだままだとシワになっちゃうでしょ。ちゃんとハンガーにかけなさい」


 一度横になった桜ががんとして動かなくなる事実を私は知っていたが、一応たしなめた。


「ごめんごめん。っていうか相変わらずお母さんかよ」

「だから、私はお姉ちゃんよ」


 キシシとイタズラっぽく笑う桜はやはりというか、反省の色が見られない。私は嘆息しながら桜の脱いだ浴衣やら帯を拾いあげた。


「でもお姉ちゃんになりきるの、ちょっと楽しかったな。たぶんバレなかったよね。今度また学校でやってみようよ」

「私から言い出したことだけど、私はもうこりごり。破天荒な桜の振りをするの、私には荷が重いよ。呼び方だけは気を付けたけど、後半はほとんど、自分の言葉でしゃべっちゃった気がする」

「えー、演技といえばお姉ちゃんの十八番じゃん。だらしないなぁ。私は新島葉月を完璧に演じられた自信あるよ」

「私はかたぬきであんなにはしゃがないし、射的もうまくないよ。あと桜、一回私のこと間違えてお姉ちゃんって呼んでたからね」

「えっ、ウソ。マジか」


 得意げな表情から一転、寝転がっている桜があちゃーと自身のおでこをたたく。


「こりゃ、もう少し訓練が必要だね。まずはタケルかお父さんを騙すところからやっていこう」

「だから、もう入れ替わりなんてしないってば」


 桜の浴衣をハンガーにかけ終えた私は、自身の浴衣の帯をほどきはじめた。そこまで濡れなかったとはいえ、湿った浴衣はそれなりに重量感があって、部屋着に着替えると鎧がはがれたように体が軽くなった。


「そうだ。お姉ちゃん。コレ返すね」


 ムクリと起き上がった桜が、かけていた眼鏡を外し、私に差し出す。私は桜に近づいてそれを受け取った。


「っていうかお姉ちゃんの眼鏡、伊達だったんだね。知らなかったよ」

「目が悪いわけじゃないからね。文化祭期間中とかは外してたよ」


 私は桜から受け取った眼鏡をかけた。妙にしっくり落ち着くというか、ようやくいつもの自分に戻った気がした。


「ああ、確かに。お姉ちゃん、眼鏡しはじめたのっていつからだっけ」


 私は桜の隣に腰をかけ、思い出すような声を、

「中学三年生の、夏になるちょっと前くらいかな」

「なるほどね」

 桜が意味深につぶやく。

「そっか。お姉ちゃん、その時からだったんだ」


 私はあえて、その言葉の裏側を確認しようとはしなかった。


 桜が私に顔を向けて、首を傾ける。


「誕生日プレゼントは、ちゃんと渡せたの?」

「うん。桜のおかげだよ。ありがとう」

「私は別に、何も」


 顔を伏せた桜が、視線を斜め下に逃がす。ぶらぶらと足を動かしながら、少し低いトーンの声を、


「お姉ちゃん。しつこいようだけど、最後にもう一度聞くよ」


 桜が顔をあげて、私たちの視線が今ひとたび交差した。


「本当にこれでおしまいにするの? 葵くんのことは諦めるの?」

「うん」


 私は一切の躊躇を持たずに、あっさりとそう言った。桜が少しだけ虚を突かれたような顔を見せる。


「葵くんとの約束を果たしたことで、私の中にあった最後の心残りがなくなったの。あとは私の気持ちが徐々に、小さくなっていくのを待つだけ。葵くんは私の好きな人じゃなくて、昔好きだった人に変わっていく」


 気持ちを言葉にして吐き出すことで、くすぶっていた心のモヤが晴れていく気がした。私はたぶん、久しぶりに自然な笑顔を作れている。


「だからもう、葵くんから逃げたりしないよ。これからは葵くんとは、一人の友達として接することにする。桜や日向には気を使わせちゃったよね。今までごめんなさい」

「私らのことは、別にいいんだけどさ」


 桜が私を試すように、私の瞳をじっと見つめた。


「お姉ちゃん。葵くんへの気持ち、ちゃんと忘れることできるの?」

「できるよ」


 私は力強く言った。


「これは、強がりでもなんでもない。私は今度こそ、自分の気持ちに踏ん切りがついているの」


 口ではそう言いつつ実のところ、本当に踏ん切りがついているかどうかは自分でもわからなかった。でも、少なくとも私は腹をくくっていた。以前のように悶々と、不確かな未来に思考が奪われることはなくなっていた。だって私にやれることなんてもう、何もないから。

 やれることなんてもう、願わなかった初恋に寂しさを募らせるくらい。


「去年の秋から今年の夏にかけて、今までの時間はロスタイムのようなもの。葵くんとの約束が足かせとなって、私は必要以上に彼のことを考えてしまっていた。それだけのことなんだよ」


 桜が口を開いて、何かを言いかけて、やめた。下唇をぎゅっと噛んで、煮え切らない顔で足をぶらぶらさせていた。

 桜はこういう表情をあまり人に見せない。

 彼女には珍しく、歯がゆさを覚えているようだった。物事に執着しない彼女が、私のために感情を起伏させている。その事実が私はシンプルに嬉しく、同時に、私と同じ顔をした妹のことを愛おしく感じていた。


 やがて桜が黙ったまま、私の腰に手をまわしてきた。しなだれるように抱き着いてくる。


「何、もしかして私のこと、慰めてくれてるの? 桜らしくないね」

「今日だけは、私が新島葉月だから。お姉ちゃんの代わりに悲しんであげる」


 私の胸元に顔をうずめた桜は、決して顔をあげなかった。ぐすっ、一つだけ鼻をすする音が聞こえた。私は彼女の頭を撫でる。乾ききっていない髪がくしゃっとつぶれた。


「ありがとう」


 私もまた、桜の全身をわが身に寄せる。



 しばらくの間、私たちはベッドの上に並んで腰をかけていた。私たちは身を寄せ合い、ただ黙っていた。桜は私の肩に頭を乗せている。二人して、何もない場所を見つめていた。

 だしぬけに桜がボソリとこぼす。


「早くお風呂入らないと、お母さんに怒られるね」

「そうだね。その前に風邪引いちゃうかも」

「そしたら部活サボって、どっか遊びに行こうよ。映画を観るとか、公園行くとか、なんでもいいからさ」

「部活は出れないのに遊びには行けるの? 現金な風邪だね」

 桜がくしゅんと小さなくしゃみをした。

「浴衣、びしょぬれになっちゃったなぁ。来年また、着られるかなぁ」

「ちゃんと乾かせば大丈夫だよ。っていうか来年は受験でしょ。そんな余裕ないかもよ」

「えー。行こうよ。せっかく買ってもらったのに、いっぱい着ないともったいないって」

「たまにしか着ないからこそ、特別に映えて見えるんじゃないかな。浴衣って」

「急にポエミーなこと言い出した」

「女の子なら普通の発想だと思うけど」

「私は女の子じゃないと言いたいのかい」

「桜は両生類なのかもね」

「私はカエルちゃんじゃないっつーの。ちゃんとおっぱいありますー」


 桜がほれほれと、両手で自身の胸を揺さぶりはじめたので、私は「やめなさい」と割と本気でたしなめた。桜がパタンと両手を膝の上に乗せ、

「そういえば、日向まで浴衣で来るなんて意外だったね」


 私は桜の言葉を受けて、今日の彼女の姿を頭に思い浮かべた。


「確かにね。最初は誰だかわからなかった」

「うん。そしてフツーに似合ってた。日向って長身な上にスタイルいいから和服、似合わなそうだけど、ちゃんと着こなしてたね。なんかズルい」

「ホント、黙ってれば男の子、寄ってきそうなのに」

「それな。ホント、黙っていればね」


 二人して、同じタイミングで苦笑を漏らす。


「日向でも、男の子を好きになったりするのかな」

「どうだろうか。でもヤンキーっ気あるから、早々にデキ婚とかはしそう」

「ああ、確かにそういうイメージもできる」


 おいおいひでぇな。頭の中の日向が眉を曲げながら、双子の失礼な会話につっこみを入れた。


「でも私は、誰かに恋をしたとしても、今の日向のままでいてほしいな」

「それは私も同感。私、あんまり同性に好かれないからさ。日向は貴重な女友達なんだよね」

「私もだよ。私は異性の友達すらあんまりいない」


 日向とはじめて出会った日のことを思い出した。出席番号が一つ後ろだった彼女は、入学式早々、私の顔を見るなり声をかけてくれた。


 うわっ、アンタめちゃくちゃ美人だな。アタシが男だったら惚れてるわ。えっ? アンタも水泳部入るの? アタシもなんだよ! これから仲良くしよーぜ。ああそうだ、名前なんていうの? アタシは野上日向って言うんだけど――


 人見知りで引っ込み思案な私の心を、日向は無理やりこじ開けてくれた。最初は戸惑ったけど、あれくらいの強引さがなければ私に友達なんてできなかったと思う。今日の八幡祭りだって、彼女のあけっぴろげな快活さがなければ実現されなかった。私はまた来年まで、いやもしかしたら一生、葵くんに誕生日プレゼントを渡せなかったかもしれない。初恋の呪いにかかりつづけていたかもしれない。


「日向には、ちゃんと言おうかな」

 私がそうこぼして、桜がこちらに顔を向けた。

「何を?」

「私が、去年の秋、文化祭の最終日に葵くんに告白したこと」


 少しだけ間を開けて桜が、

「確かにそれは言ってあげた方がいいかも。日向も一応、一枚嚙んでたし」


 意味深な台詞を言ったので、私は首を傾げた。


「何の話?」

「真相は、杉並西の諸葛孔明のみぞ知る」

「何よ、それ」


 すっかりといつもの調子に戻った桜が、煙に巻くような表情でキシシと笑う。こうなった彼女にいくら追及しても無駄なのを私は知っている。私はふぅと嘆息して口をつぐんだ。


 ドンドンと、少し乱暴なノックの音が部屋の中に響いた。


「アンタたち! 風邪引く前にさっさとお風呂入りなさい!」


 ドアの外側にいる鬼……もといお母さんに向かって私たちは「はーい」と、同じ音程の声を返す。


「ねぇねぇお姉ちゃん。いっそのこと久しぶりに一緒に入ろうよ」

「えぇ。さすがに狭いんじゃないかな。お湯、あふれちゃうよ」

「いいじゃん。見られて困るもんなんて何もないでしょ。どうせおんなじような体してるんだし」

「私は桜と違って運動してないからなぁ」

「でも私はその分お姉ちゃんより食べてるからね。これは互角の戦いだよ」

「何の勝負なの」


 今日は、新島葉月というなんの変哲もない女子高生の初恋が一つ、終わった日だ。

 失恋を覚えた私に、でも寂しさを感じる暇はなかった。


 私と同じ顔をした愛すべき妹の騒々しさが、今は無性にありがたかった。

 そういえばあの秋も、桜は。

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